第十五章 売れっ子刀剣守護職人 【後編】
表通りの人力車や人々の喧騒を背に、根津神社の外囲いに沿った路地裏へ折れる。
舗装のない道は、足元を踏みしめる度に砂利が小さな音を立てた。
神社の神池から流れてくる水の気配と、湿った土、そしてお香の薫りが漂ってくる。まだ昼間だというのに日差しは届かず、辺り一帯にはひんやりとした陰影が落ちていた。
曲がりくねった細い道を、どこか楽しそうに弾んで歩く絢。
「絢、気をつけて。慌てないように」
崖下の路地を奥へ奥へと辿っていくと、ぽつんと灯りを灯した見慣れた門が見えてきた。
先程の天翔の言葉を思い出し、夜叉月はわずかに緊張していた。一度咳払いしてから門を開くと、中へ促すように手を伸ばす。
「いらっしゃい、絢」
「…………俺もおるで」
絢はくすっと笑った後、門の前で美しく一礼した。
「お邪魔します」
一歩踏み出した瞬間、まるで何か見えない境界線を越えたかのように、周囲の音がすっと消え失せた。
夜叉月は、そのまま真っ直ぐ研ぎ場へ案内する。
研ぎ場の引き戸へ手をかけると、「しっ」と、指を口に当て、真剣な目で振り返った。
何か自分が知ってはいけない大きな秘密が隠されているのではないか―――と絢は緊張の面持ちでぴたりと動きを止め、息を飲んだ。
「絢、ここにある物たちはね、みんなすごく気難しいんだ。だけど、心配しないで。絢は私の大事な人だから、失礼の無いようにって、先に伝えるから」
ぽかんと口を開けた絢を見て、夜叉月の表情が崩れ、悪戯な笑みに変わる。
それを見て、絢はようやく自分がからかわれたことに気づいた。
「……え?もう……夜叉月!からかわないでください……ふふっ」
「ははっ」
天翔はじとりとした目を遠くへ向けて、空気になろうと決め込んだ。
作業場は、神聖な空気に満ちていた。絢と天翔が用意された座布団に腰掛ける。
夜叉月は早速預かった刀を白鞘から抜いた。夜叉月の黒曜石がすっと細められ、注意深く刀身を確認していく。
一見すると長年の眠りで表面が僅かに白く曇っている。だが、刀身を光にかざした瞬間、その奥に隠された乱れ刃の緻密な肌目が、まるで霧の晴れ間から現れる山並みのように浮かんできた。
ひと通り確認した後、夜叉月はふっと目元の緊張を解く。
絢は自然と息を殺していたが、夜叉月の変化に合わせてようやく自分たちもほっと息を吸い込む。
天翔でさえも「刀神、夜叉月」がこのように刀に向き合う姿は初めて見る。独特の気迫にごくりと喉を鳴らした。
夜叉月が慎重に刀を持ったまま、絢の前に腰を下ろす。刃を見せながら、丁寧に説明していく。
「絢、見てごらん。身幅も重ね(厚み)も、殆ど残っている。作られた当時のままだ。過去に数度だけ、腕の立つ研ぎ師の手が入っただけのもの。これもまた滅多に見られない上等な業物だ。腕がなるね。これなら絢にいいところを見せられそうだ」
子どものように嬉しそうな姿に、絢は刀もそこそこに夜叉月から目が離せなくなってしまう。
もったいないことに、夜叉月は刀に夢中で、そんな絢の視線にあまり気づいてはいない。だが、時折絢を見たときに目線が合う度、それは夜叉月を益々喜ばせたのだった。
夜叉月はたすきをかけて準備を始めた。
「あ、待って、夜叉月」
絢は夜叉月の美しく流された、襟足の長い髪を掬って、優しく結った。
◇
作業場に響くのは、滑らかな研ぎ石を水が濡らす音と、刀身が規則正しく石を擦る音。
す……っ、す……っ
夜叉月が刀身に触れる指先からは、時代を経ているとは思えぬほどのずっしりとした重ねの厚みが伝わってくる。
わずかな手元のかすみが、名刀の美しい姿を殺してしまう。夜叉月は息を殺して、親指の腹で刀身の重ねを確かめながら、極上の刃肉を慈しむように砥石の上を滑らせていく。
絢は瞬きをするのも惜しいほどにその様子を見入っていた。今までで一番美しい彼の姿だった。
この薄暗い研ぎ場で、彼の指先の動きに合わせ、月明かりを映したような青銀の光が残光のように揺れる。その光は彼の指先を伝って、刀身にも与えられているようだった。刃が石の上を滑るごとに輝きは増していく。
濡れた刀身の表面から水滴が滑り落ちるたび、その奥から、まるで満開の桜が咲きこぼれるような、華やかな丁子乱れの刀紋が、静かに冴え渡って浮かび上がっていった。
夜叉月がぴたりと動きを止める。
「今日はここまで。遅くなるといけないから、そろそろ送ろう」
とても浮世離れした時間だった。
絢はまだまだ見ていたかったが、素直に頷いた。
次の章、ここまでで過去最高甘回です!
甘回好きな方、週末お楽しみに★




