第十六章 酔いの泡沫 【前編】
日が暮れて外はとっくに暗くなっていた。
絢は歩くと言い張ったが、こんな暗闇の中、足元の悪い道を歩かせるわけにはいかない。夜叉月がなんとか言い聞かせ、やっとのことで人力車に乗せたのだ。
天翔はというと「送り狼になんなよ〜」と余計な一言を添えて、ぱっと姿を消した。
夜叉月とて、それくらいの距離であれば、絢一人抱えて瞬時に移動できる術くらい持ち合わせていたが、この貴重な時間をあっという間に終わらせてしまうなど、出来るはずもなかった。
「冷えるといけない」
夜叉月が部屋から取ってきた羽織を絢の肩からそっと掛けてやる。
人力車はカラカラと木輪の音を響かせながら、細い蛇行路を軽やかに抜け出し、坂を上がって開けた通りへと躍り出た。
普段歩く目線よりも一段高くから見渡す景色に、絢は何か特別なものを見るかのように目を輝かせている。
絢は羽織の前をきゅっと合わせ、座面に両手をついて少しだけ身を乗り出していた。頬を掠める風を楽しむように時折目を瞑る。
夜叉月は通り過ぎる景色よりも、そんな絢の横顔を愛おしく眺めていた。
車輪の音と軽快な揺れに誘われるように、好奇心に満ちた表情の真尋が淡い光となって現れ、夜叉月の膝に乗った。光の輪郭が風に靡くことはないが、真尋は楽しそうに足をゆらゆらと揺らしている。夜叉月は特に咎めることもなく、真尋の好きにさせておいた。
静かな町並みが終わりを告げ、賑やかな呼び込みの声が聞こえ始めた頃―――
――しゃりん。
喧騒に混じって、控えめな鈴の音が聞こえた気がした。
「―――?!」
(……絢?)
夜叉月が横を見る前に、膝にずしっとかかった重みの方に気を取られてしまった。
「―――!!!」
光の姿ではない真尋がそこにいる!
……もちろん、夜叉月がそうした訳では無い。
「――わぁぁっ!」
「あ、絢?!」
急に実体を持った真尋は、肌を叩く突然の風に驚いて声を上げる。
絢の仕業だと直感で理解した夜叉月は、落ちないように真尋を片手で抱えながら、今度こそ絢を見た。
「―――あはっ!ははっ!」
何がおかしいのか、絢は楽しそうに突然笑い出す。
「あ、あれっ?!夜叉月様!!」
「あ、あぁ!真尋、大丈夫だ!」
まさか絢の前でこの姿になるとは思っていなかったのだろう。状況を掴めていない真尋が取り乱して戸惑っている。夜叉月も驚いていたし、理解が追いついているわけではないが、まずは真尋を宥めようと声をかけた。
「真尋……っていうの?私は絢、よろしくね。ほら、風を感じた方が、気持ちいいでしょう?」
身を乗り出したまま、絢は覗き込むように真尋を見た。
「ひっ!!!!」
「待て待て、落ち着け真尋。暴れるな」
真尋は顔を真っ青にして、絢から逃げるように、夜叉月の後ろに隠れようと身体を捩った。考えなしに狭い人力車の上をドタバタと動き回る真尋を、夜叉月はなんとか落とさないようにと慌てながら支える。
「あははっ、こんなに可愛い子だった!ずっと会いたかったの」
だんだんと落ち着いてきた真尋は、夜叉月の陰から半分だけ顔を出して絢を睨みつける。
「……なんなんだ、お前は!……僕は、会いたくなんかなかった!お前のことなんかずっと昔から大嫌いだ」
「真尋!!」
夜叉月が咎めるように声を荒げる。
だが心底憎いという声色で言葉を放った真尋は、威嚇するように絢を睨みつけたまま視線を逸らそうとしない。
「……夜叉月、いいの」
絢が制すと、夜叉月は心配そうに絢を見つめた。
「また夜叉月様の前に現れたお前が憎い……!今すぐお前を消し去ってやりたいのに!!」
「そうだね。……聞こえていたよ、ずっと。真尋の声」
夜叉月が目を開いて絢を見る。
絢は凛と澄んだ目で真っ直ぐ前を見据えたまま―――。
「私の声も届いていたでしょう?応えてくれたでしょう?お礼が言いたかったの。……ありがとう、真尋」
「……っ!!」
真尋はそのまま俯き、黙り込んでしまった。
夜叉月は訳が分からないといった様子で、絢と真尋を交互に見る。
絢の神聖な横顔がまたふわっと柔らかく崩れ、夜叉月の黒曜石を捉えた。
絢の瞳があまりに清らかで……なぜか千年前のあの瞳が重なって―――夜叉月は息もできないくらいに胸が締め付けられた。
「お客さん、もうすぐ浅草寺だ」
「ほら、二人とも!後少しで着いちゃうって!楽しまないと損だよ!」
絢の顔の横に落ちた髪が風で後ろに流れ、彼女の背後で、街の賑やかな灯りが次々と過ぎ去っていく。
真尋はすっかり子供らしく夜叉月の着物を握りしめて、きょろきょろと街を見渡しながら、風を切る感覚に身を委ねていた。
「風が気持ちいいですね……夜叉月、真尋」




