第十三章 縁結びの山神 【前編】
「絢。すぐに終わらせるけれど……ここは冷えるから、中に戻っていると良い」
「いえ。私もここで見届けています!」
本当は見ていてほしかった夜叉月は、そう答える愛らしい絢の姿に頬を緩めた。
「じゃあ私は、君の提灯を持っていてあげよう」
(お前はもっと手伝うべきだろう!)
全く力添えをする気のない山神の態度に、と内心悪態をつきつつ、絢に褒められるのは自分だけでありたい夜叉月はあえて口にはしなかった。
夜叉月は細めた目で見下ろしながら、山神に提灯を渡す。
山神はにこにこしたまま、ぱちんと指をならした。
境内中をぐるりと取り囲むように、次々と篝火が灯っていく。大きな円を描いたそれは、結界の範囲を示しているのだろう。
結界は山神に任せることにしたが、夜叉月は念のため、絢の周りにだけもう一つ結界を張っておく。指を二本立て、優しく絢に意識を飛ばすと、絢の周囲が淡く青銀の光を纏った。それを夜叉月は満足気に眺めている。
夜叉月に甘やかすような目で見られた絢は、頬を赤らめた。
「夜叉月、準備はいいかな?悪鬼たちを中に入れるよ?」
「あぁ」
夜叉月は愛刀、童子切の柄に手をかけた。
―――ぱちん
山神が指を鳴らすと、闇の中で蠢いていた有象無象が一斉に飛び出してきた。不穏な邪気を放つ悪霊、悪鬼の群れ。
どれも小物で、一つ一つは取るに足らないものたちだが、数万も集まれば厄介だ。これらが今日の参拝客にでも取り憑けば、呪われた者たちによる殺し合いで、境内はたちまち地獄絵図に染まるだろう。
飛び出してきた悪霊たちは、夜叉月でなく、あろうことか絢を目掛けて一直線に進んでいく。
「ちっ」
夜叉月は短く舌打ちし、疾風のごとく飛び出した。
ごぉっと風を切る音が響き、瞬きの間に絢の目の前に夜叉月の背が現れる。その黒曜石が一度だけ絢を捉え、そのまま夜叉月は袖を翻した。
振り向きざまに童子切を抜いた夜叉月は、雪崩れ込んできた最初の数十匹を一太刀でなぎ倒していく。
背後で小さく、ぱちん、と音が響き、同時に夜叉月の後ろから迫っていた気配が消えた。山神が背後からの攻撃に備え、新たな結界で壁を作ったようで、篝火の範囲が変更されている。お陰で、夜叉月は絢を中心とした半円を守りきればいいということになった。
(意外にも頭が回るじゃないか)
山神はそっと手で絢の目を手で覆う。
「山神様…?」
「少しの間、こうしていた方が良いと思うよ」
次々と向かってくる悪霊、悪鬼達に、夜叉月がもう一振を繰り出す。最前線にいた悪鬼たちは悉く皆真っ二つになった。
後続の群れも強烈な風圧で吹き飛ばされ、出来た僅かな間隔に夜叉月が踏み込む。
袖や袴を優雅に靡かせ、舞を舞うように刀を振るう度、悪霊たちは吹き飛ばされ、切り刻まれていく。
「……ほぉ、ここにも麗しい舞姫が!」
「気が散る、黙ってろ」
茶化す山神を一蹴し、夜叉月はさらに刀を走らせた。
呑気な山神とは対照的に、視界を塞がれ耳の神経が研ぎ澄まされた絢は、響き渡る悪霊たちの断末魔に身震いしていた。
大した知能を持たない奴らは、圧倒的な力を前にしても、考えなしに向かってくる。
しかしまだ半分も終わっていない。悪霊、悪鬼たちは軍勢をなして闇の奥へと続き、どこが最後尾かも見当がつかなかった。
(……きりが無いな)
さすがにうんざりしてきた夜叉月が大きく息を吐くと、青銀の光が濃さを増した。瞼を上げ、前を見据えた瞳に鋭い光が走る。
―――夜叉月が童子切の刀身をゆっくりと撫でた。
「蒼月―――切り裂け」
夜叉月の背後に現れた青銀の光の狼が、あっという間に悪霊の渦に飛び込み、列を散らしていく。逃げ惑う悪霊たち。
夜叉月はすでに散々なほど黒い血を浴びていた。
(本来なら人間には見えないはずだが、絢には見えるのであろうな)
見渡せば、一撃で仕留められなかった者たちが苦しみにのたうち回っている。
そこら中に転がった屍が荒々しい篝火に照らされ、舞に清められたはずの境内は、今や惨状を極めていた。
童子切は、そこら中の邪気を吸い込み、禍々しく黒い煙のような気を纏っている。それを見て夜叉月は眉根を寄せた。頭の中で響き出した声が理性を失っていくのを感じた。
『あぁぁぁぁっ―――!!!』
刀の中で果てのない邪気に当てられた真尋が、今にも暴れ出そうとしている!
(今日のも大した相手ではないと高を括っていたが……これは予想外だな)
悲痛な叫び声が夜叉月の脳内に木霊する。切られた怨霊たちのそれと、夜叉月の中で嘆く真尋のそれが共鳴し、ぐわんぐわんと夜叉月を攻め立てた。
夜叉月は真尋の力を無理矢理抑えこむが、真尋は輪廻の鎖石を締め上げ抵抗した。童子切の鞘に巻かれた鎖がぎりぎりと音を立て、それはそのまま夜叉月の心臓をも締め上げていく。
(待て。落ち着け真尋。……あと少しで終わるから)
向こうで蒼月が暴れ、有象無象を次々となぎ倒し、引きちぎっていた。夜叉月たちに近づける悪霊など一匹もいない。
霊力の多くを蒼月と真尋に消費し、夜叉月は次第に視界がぼやけ始めていた。思考すらも朧気になってくる。
(……これは、少しまずいな)
蒼月が悪霊を蹴散らす度、童子切が邪気を吸い上げ、真尋が威力を増していく。
夜叉月に浄化の力はない。それは護法善神でなくなり、羅刹となった瞬間に失われた力だった。
浄化の力さえあれば、悪霊たちを苦しませずに済んだだろう。
浄化の力さえあれば、彼らを善なる魂として生まれ変わらせてやれたかもしれない。
―――でも、そんな力は、羅刹の自分の手にはない。
夜叉月は、自分の手にべっとりとついた、怨霊たちの真っ黒な血を眺める。
(あぁ、やはり……絢にこんな姿は見られたくなかったな)
痛みに耐え、再び刀を握り直すと、夜叉月はゆらりと構えた。
(……終わらせよう。一刻も早く)
薄い唇の奥で、固く奥歯を噛み締め、刀を振り上げながら地を蹴って走り出す―――
◇
「……山神様、手を離していただけますか?」
「ん?でも今はまだ見ないほうがいいんだけど……」
「いいえ。見なければいけないんです。彼の姿を―――」
「……」
変わらぬ笑顔で少し考えてから、山神はそっと手をはなした。
絢が目にしたのは、壮絶を極める光景だった。
絢に普段温かさを向ける夜叉月は、今、幾千の屍の中央で、血の雨を受けながら刀を振るっている。その瞳は、色をなくし、それでも凛として美しく、ただひたすらに自分の役目を果たそうとしているかのようだ。
「……あぁ、夜叉月。また……ひとりにして……ごめんなさい」
(……また?……ひとり?)
ふいに、口をついて出た言葉。なぜそう思ったのか、絢は自分でもよく分からなかった。
◇
(あと少し……あと少し……)
途切れそうになる意識をなんとか留めながら、ただひたすらに、夜叉月は蒼月とともに相手を斬り続ける。
視界の隅で、蒼月の青銀の光が弱まり始めているのが分かった。
(あと少し……もう少しだから……)
―――最強の刀神。
(そうだ、私は敵の前で膝をついたことなど一度たりとも、無い!)
朧気になる青銀とは裏腹に、気迫を増す夜叉月は、さらに奥にいる悪霊の渦へと突き進んでいく―――
―――シャリーン…
その時。夜叉月を救う、澄んだ鈴の音が一つ、静寂を引き連れて夜空へ響き渡った。




