第十二章 魅了の力 【後編】
「なんとも素直なことだね。はっはっは!」
「……用件を言わないならもう行く」
「あ、待ってくれ、分かったよ」
腹を抱え、目の端の涙を拭うこの山神にこれ以上構っているのも馬鹿らしく感じてきて、夜叉月はさっきまで絢の舞っていた神楽殿をただ眺めていることにした。そうしていれば、清らかな彼女の余韻を感じることが出来る。
境内は人もまばらになり、いつもの静けさを取り戻しつつあった。
「あの子の魂は、とても尊いね。彼女の舞も、実に美しい。いつも楽しみにしていてね…毎年私のご指名なんだよ」
夜叉月の視線をたどり、山神も神楽殿を見つめる。
「指名?山神が人にでもなりすましているのか」
「いや、違う。ここの宮司の夢枕に立って、耳元で囁くのさ。『今年もあの舞姫を。さもなくば災いが降るだろう』ってね。最初のうちは、『夢に二荒のお山が現れたぁ!』って、そりゃもう大騒ぎで……あはは!」
「……悪趣味な」
「最近はそんな悪戯はしていないさ。この時期、夢枕に立つだけで『またあの舞姫ですね!』って、あちらから言ってくるんだ」
夜叉月は、この男の人となりが分かってきてますますうんざりしてきた。
(こんな男に結べる縁なんて碌なものではないだろうな……)
「……さて本題だ!絢は、人以外の魂を惹きつける特別な力を持っている。そのせいで今日も精霊という精霊を呼び集めてしまったね」
「……」
夜叉月は、この男が絢の名前を馴れ馴れしく口にするのが、妙に気に障った。
「だけどね、この山にいるのは行儀のいい精霊だけというわけではないんだよ」
ざざざぁっ―――
すっかり人気がなくなった境内に冷たい風が吹き抜け、杉の大木たちが妖しく音を立て始めた。小さくなった篝火が、今にも消えそうに揺れている。
風に乗って、不穏な気配が夜叉月の肌を掠めた。
「……なんだ」
「邪気を孕んだ物の怪たちだ」
暗闇から、時折赤黒い光が見え隠れしている。様子を伺っているようにも見えるそれらは、境内をぐるりと取り囲んでいた。張り詰める空気が、今にも飛び出してこようとしているやつらの緊迫感を物語っている。
夜叉月は、特に慌てる様子もなく、涼しい目元を崩さないまま山神を見据えた。
「……こいつらはなんで今さら出てきた?」
「絢の邪魔はされたくないからね。近づけないように私の力で抑え込んでいたのさ」
「……」
「そこで頼み事というわけだが……こいつらをなんとかしてくれないか?」
「っ!?」
あまりに図々しい頼み事に、夜叉月は心底げんなりし、目元をぴくぴくと痙攣させた。
この無数の悪霊や悪鬼たちをなんとかしろなどと、清々しいほどの面倒事に他ならない。
(―――ここはお前の領域だろ!)
「自分でなんとかしろ」
「んー?私は山神だよ?戦いは不得意分野だ。それに比べて……君の腰にかかっているそれ!飾りじゃないだろう?」
山神が首を傾げてニヤリと笑う。
「……断る。俺に見返りはない」
「そうかな?だって私は縁結びの……」
「俺に見返りはない」
「……はぁー、そこまで言われちゃ、仕方ない」
山神は芝居がかったように項垂れて、深く息を吐いた。それからさっと顔を上げると、にこやかに片目を閉じて、ぱちんと指を鳴らした。
そこへ―――
「……夜叉月、いるの?」
本殿のあたりから聞こえた澄んだ声。
夜叉月がはっとしてすぐさまそちらに顔を向けると、提灯の柔らかい明かりが近づいてくる。
隣で胡散臭い山神がニヤニヤしているが、今度こそ本気でどうでもよくなった。
「……絢」
「……!」
夜叉月の声を聞いて、絢が小走りになる。
「あぁ、ここにいるよ。危ないから走らないで」
山神はもう一度指をならすと、山神の手にも提灯が握られ、ふわりと灯りが灯る。それをニコニコと夜叉月に差し出した。
夜叉月が受け取った提灯を高くかざすと、絢がその光を目掛けて少し慎重に歩いてくる。
ようやく、お互いの顔が見える位置に来ると、絢と夜叉月はどちらからともなく微笑み合った。
「夜叉月、さっき舞を観ていてくれたでしょう?」
「あぁ、もちろん。とても綺麗でした」
「え?ふふっ…ありがとう。……でも、なんであんな高いところから……あら?」
絢は、夜叉月の少し後ろから、灯りの中に顔を出して手をひらひらと振る男に気づいた。
絢の関心がそちらに向いたことが面白くない夜叉月は、少し細めた温かみの無い目で山神を一瞥する。
「ええと……や、山神様?」
「久しぶり、絢」
「お、お久しぶりです、山神様。今年も呼んでいただき、ありがとうございます」
「今年もとても美しくて素敵だったよ。年々美しくなるものだから、また次の時まで待ち遠しくて仕方ないよ。ここでもう一度私のために舞ってくれないかい?」
「や、山神様ったら……揶揄わないでください」
絢が俯く。提灯の灯りでわかりにくいが、絢が顔を赤くしているのは確認するまでもない。
「……なぜ、山神が馴れ馴れしく人間と話をしているんだ。さっさと山に帰れ」
「おいおい、心が狭いなぁ。君のために絢を呼んであげたっていうのに。絢が初めてここに来た時、舞を眺めている私を見つけてくれてね。こんなこと初めてだったから、つい嬉しくて話しかけてしまったんだ。それから毎年こうやって絢に会いにきているんだよ。ね、絢?」
山神が顔を傾けて笑いかければ、絢もニコニコと同じように返す。
(見つけてくれた……だと?大人しく山に籠って崇められていればいいものを)
眉根を僅かに寄せた夜叉月の黒曜石の瞳は、人を殺めるほどの鋭さを帯びていた。
もちろん絢は気づかないし、山神は気づかないふりをしてニコニコしている。周囲を囲む物の怪たちだけがその冷気に竦み上がっていた。
「山神様は、どうして夜叉月と?」
「あぁ、そうだった!実は彼に頼み事をしているところだったんだ!」
山神はわざとらしく自分の掌をぽん!と叩いた。
「絢の素敵な舞に寄ってきた物の怪たちが、また悪さをしようと集まってしまってね。年々増えているし、私だけでは対処するのも限界で……強そうな夜叉月に、この二荒山神社を守るのを手伝ってほしいとお願いしていたところなんだ」
「……また、私のせいでご迷惑を……すみません」
「絢は何も悪くないよ。絢の舞が観たくて来てもらっているんだから、気にしないで。私たちに任せておいてね」
絢は夜叉月の戦う姿を見たことがあるので、強さに関しては信頼している。けれど、申し訳なさは拭えない。
「あの……夜叉月にまで、迷惑を……」
絢がすまなそうに見上げると、柔らかい橙の光に浮かぶ夜叉月の瞳と視線が交わった。
「大したことじゃない」
それを聞いて、絢は安心したようににっこりと微笑んだ。
夜叉月は、隣で山神がにやりと口の片端を上げたのを視界で捉え、睨みつけてやりたい気持ちに駆られたが、それは今すべきことではない、と思い直す。
今は、柔らかい光に彩られ、自分を見つめる絢の眼差しに心を奪われていることにしよう。
―――後で覚えておけよ、山神。




