第十二章 魅了の力 【前編】
華やかな東照宮とは対照的に、二荒山神社の儀式は、自然の霊力を授かり、神域を清め保つための厳かで神秘的なものだ。
杉の巨木に囲まれた境内には、徐々に人が集まってきていた。少し前まで冷え切っていた静寂がゆっくりと揺らぎだす。
一段高く聳え立つ神楽殿の周囲に篝火が焚かれ、ぱちぱちと薪が爆ぜる。まるでそこだけ異空間のように、暗闇の中に浮かび上がる炎。
夜叉月は、そんな境内の様子を、杉の木の上から眺めていた。
下の観客からは隠れているが、神楽殿の様子は何の邪魔もなく見られる「特等席」を探し当て、夜叉月は誇らしい気持ちになる。
絢の姿が待ち遠しい。再会できてもなお、あなたに会いたくて焦がれる気持ちは変わらないものなのだな。
夜叉月は少し可笑しくなって口元を緩めた。
神楽殿を囲む境内の石畳は、いつの間にか大勢の人垣で埋め尽くされていた。厚手の羽織や襟巻きに身を包んだ参拝客たちが、篝火の温もりを求めながら、肩を寄せ合って舞台を見上げている。
そこに、祭りのような浮き立った空気はなく、誰もが畏敬の念を持って、謹んで静寂を守っているようだ。
よく見ると、舞台からかなり近いところに、扇子で口元を隠した男が立っていた。背すじを伸ばし、まっすぐに舞台を見つめている。
夜叉月は、その男を見る目を僅かに細めた。
―――シャリーン……
冴え冴えとした鈴の音が夜空へ響き渡った瞬間、観客たちの間にあった微かなささやき声すら完全に途絶えた。
誰ひとり身動きすらしない。ただただ、舞台の上に現れた彼女の圧倒的な気高さに呑まれ、息を殺して見惚れている。
白い千早に緋色の袴を纏った絢。
―――シャリーン……
雅楽の澄んだ笛の音に合わせ、彼女がすっと右腕を掲げると、手にした神楽鈴が鳴り渡る。
夜叉月は、冷え切った境内の空気が一瞬で澄み渡っていくのを感じていた。
追いついたはずなのに、触れれば消えてしまいそうなほど浮世離れした美しさに、夜叉月は切なさが募り、指先一つ動かすことが叶わない。
絢が、目を閉じて空を仰ぎ、腕を広げながらくるりと回る。再び正面を向く直前、絢がおもむろに瞼を上げた。篝火の炎を優しく映したその瞳が、まっすぐに夜叉月に向けられる。視線が交わった瞬間、彼女の瞳を縁取る睫毛が儚く揺れた気がした。
「―――っ!」
さっと、夜叉月は咄嗟に口元を片手で覆い、隠れるように後ずさってしまった。あまりに清らかで神聖な眼差しを直視できなかったのだ!
「……絢」
「……はぁ、君もか」
夜叉月が、込み上げる思いを押さえきれずに彼女の名を呟いた矢先、まったく聞き覚えのない声がすぐ横から届いた。
夜叉月の黒曜石が瞬時に鋭い光を帯び、目線だけで声の主を捉える。
真っ白な衣を着た真っ白な髪の若い男が、大きな枝に身体を預け、穏やかな表情で横たわっていた。彼もまた、満足そうに舞台を眺めながら。
「……やめろやめろ。そう殺気立つな。私はあの美しい舞姫を観に来たのだ、邪魔をするな」
邪魔をしたのはお前だろう、と静かに怒気を深めれば―――
―――シャリーン……
清らかな鈴の音で、すぐにそんな感情も打ち消されてしまった。得体のしれない男のことなど、どうでもよくなる。
夜叉月は再び絢に視線を戻した。
―――シャリーン、シャリーン……
舞も終盤に近づき、重なるように一層響き渡る鈴の音は、まるで何者かを呼び寄せているかのようで―――
「―――そう。呼び寄せているのだよ」
男の声がはっきりと聞こえた。
気がつくと、辺りには無数の金色の光が、神楽殿を―――いや、絢を囲むようにふわふわと集まってきていた!
「実に楽しそうだろう?大抵の現し世の者には見えないがね。彼奴等は、この山の木々の精霊たちだ。まだまだ増えるぞ」
絢を囲む幻想的な光たちは、彼女の美しさを引き立て、もはや神々しい。
客の間をフワフワ揺れる光もあるが、誰も気づいてはいない。
だが、絢は違うようだ。舞として不自然にならない範囲で、近くを通る光を目線で追いかけ、さり気なく微笑みかけている。
よく見れば、殿の近くにもう一人、この光を見ている者がいた。扇子の男が、目の前を通る光を煩わしそうに扇子で払っている。
―――そう、払っているのだ!本来なら、現し世の人間が干渉できる類のものでは無いはずなのだが……。
哀れにも払われた光は、為すすべもなく飛ばされた後、恐れるように扇子の男を避けていった。
辺りを包む光の玉は、白髪の男の言った通りどんどん増えていき、闇など存在していなかったように、神楽殿の周りを眩しく照らし出す。
夜叉月には、金色の光に囲まれて舞う絢の姿が、とても懐かしく思えてならなかった。
あぁ、これは……あなたが天界にいたときの―――天女の姿だ。
――シャリーン……
最後の鈴の音が静寂に響き渡った。その余韻が段々と小さくなるのに合わせて、光の玉は一つ、また一つと消えていく。すべて消え去った頃、鈴の音も闇に溶け、辺りに静寂が戻ってきた。
奉納舞が終わると、夜叉月はさっさと立ち上がって木から飛び降りようとした。それを背後からの声が引き止める。
「……なぁ。ひとつ頼み事を聞いてくれないか?」
まったく聞く気のない夜叉月は、枝を軽く蹴って大木の真下の地面に軽やかに着地した。
「……おい、構うな」
夜叉月が涼し気な瞳を、迷惑そうに細めて横を見れば、ニコニコとした白髪の男が、後ろに手を組んでこちらを覗き込んでいる。
「私はね、この山の地霊なのだよ。人々から山の神と呼ばれている。君も似たような者か」
「……だから何だ?」
山の神だというその男は、楽しそうに夜叉月に近づくと、耳元に手を当て囁いた。
「……良いことを教えてやろう?私はな、縁結びの神でもあるらしいぞ?」
「……」
山神は益々楽しげで、いたずらっぽく口の片端を引き上げる。
そもそも「らしい」とは、なんと胡散臭いことか!
(お前の力など借りぬとも……)
「……頼みとは、なんだ」
心とは裏腹の言葉がつい口をつく。
夜叉月の言葉を聞いた山神は、ついに声を上げて笑い出した。
(……どうやら俺は、こんな胡散臭い神にも縋る思いなのだな)
改めて自覚し、己の浅はかさに呆れる夜叉月であった。




