第十一章 日光へ 【後編】
絢は、深いえんじ色の紬の着物に、白いたすきをぎゅっと高く結び、袖をたくし上げている。
竹箒を握りしめ、シャッ、シャッ、と一振りごとに場を清めるように、丁寧に掃いていた。動きに合わせてゆれる白い前掛けが、舞い散る落ち葉の中で一層鮮やかだ。
寒さで少し赤くなった絢の耳たぶ。吐き出す息が幾度も白く消えていく。
身をすくめながらも、背筋をぴんと伸ばして掃除に励む姿は、気品と愛らしさが満ち溢れていた。
夜叉月が近づこうとも、集中しているのか、考え事でもしているのか、絢は全く気づく素振りもない。
「……絢」
夜叉月が後ろから絢の持つ箒にそっと手をかけた。
絢は、はっとして勢いよく振り返る。
「えっ!や、夜叉月!?どうしてここへ……!」
絢は驚いて取り乱した。だがすぐに気まずそうに下を向いてしまう。
「……どうしてここに……」
今度はさっきよりずっと小さな声で、夜叉月に問いかけるのでなく独り言のように呟いた。
「会いに来た」
「……!」
やるせなく眉を寄せ、絢は夜叉月を見上げた。
「……またあなたはそのようなことを!」
竹箒を引き寄せるように握りしめた絢が、また視線を逸らす。
「……この間は……すみませんでした。突然取り乱してあのような……。あなたにとっては……最初から冗談でしたのに……」
「冗談に見えるか?」
「……っ!」
夜叉月が絢を真っ直ぐに見つめる。
その黒曜石に捉えられれば、今度こそその視線から逃げられずに、絢は息を詰まらせた。
さわさわと杉並木を撫でた冷たい風が、夜叉月の髪を掠め、柔らかく流す。
夜叉月が絢の顔の横に落ちていた髪を一房掬った。絢は動けない。
「今日は、あの簪はつけていないんだな」
夜叉月は自分の帯に差していた硝子の蓮の簪を抜き、絢にもう一歩近づくと、そのまま絢の結われた髪にそっと差し込んだ。
夜叉月があまりに近づくものだから、絢の視界は夜叉月の胸元でいっぱいになっている。襟から覗く肌にくらくらするほどに。
「……浅草に帰ったら、返してくれればいい」
ふわりと香る白檀。
そのままお互いの顔すら見えない至近距離で、夜叉月は絢の簪を撫でながら言葉を紡いでいく。
「……私には、長年探していた愛しい人がいるし、その人はかつて夫がいたこともあった」
絢が肩を僅かに跳ね上げる。
「……だがその人は、今私の目の前にいて……」
夜叉月が簪から指を離して半歩下がると、絢の顔が夜叉月の影を抜け出した。そして頬を染めた愛らしい彼女が見上げてくる。
「……その澄んだ瞳に私を映してくれている」
夜叉月はふっと柔らかく笑んだ。
「姿は違えど、私が探していたのはいつだって、たった一つの魂で、たった一人だ」
「……?それは……一体……」
絢の瞳が揺れる。
「私はあなたに偽りを伝えることはないし、長らく不安にさせているのも嫌です」
夜叉月は、自分の外套を絢の肩にふわりとかけた。
「……それならば、私は変な男だと思われる方を選ぶよ」
そのままふっと笑みだけを残し、絢の手から抜き取った竹箒を持って、夜叉月は境内の奥へと行ってしまった。
実際のところ、絢は彼の言っていることの半分も理解できてはいなかった。
けれど、不思議と募る想いは切なく溢れる。それを留めるように、絢は両手で口元を押さえ、苦しげにその後姿を見つめていた。




