第十一章 日光へ 【前編】
ここまで読んでいただきありがとうございます!
十一章~十四章の日光編は甘さ増してきて書いている私も楽しかった思い入れの章!
読んだ後、夜叉月推して下さる方、ぜひ感想や評価お待ちしております★
翌朝、夜叉月が常磐堂をたずねると、そこに絢の姿はなかった。
「絢はね、本家の手伝いでしばらく日光へ行くことになってね。今朝早くに、出発してしまったんだよ」
常磐堂の卓にはすでに小春が腰かけており、主人が茶と菓子を出してやっているところだった。
「夜叉月、遅かったやないか、待っとったで」
なぜか天翔もそこにいる。
浅草観音や周辺の神社仏閣は、日光参詣の起点、江戸側の拠点として深いゆかりがある。
今回は、日光の例大祭にあたり、江戸時代から縁のある浅草の講衆を代表し、本家である絢の祖父が名代として挨拶に向かうことになったそうだ。
さらに、先方の神前で舞を納めるにあたり、舞が美しく神事に精通している絢が舞手として指名されたらしい。
(流石、絢だ)
夜叉月は自分のこと以上に誇らしい気持ちになる。
夜叉月が卓につくと、同じように茶と菓子の乗った皿が出された。
渋い黒漆の銘々皿の上に、艶のある栗饅頭が上品に乗せられている。
「おやっさん、この栗饅頭うまいな〜」
「そうだろう?浅草の老舗で買ってきたんだよ」
「私、好きなやつ!」
(……絢も、好きだろうか?)
店先の硝子細工たちに目を向ける。普段は、はしゃぐ子どものように揺れて音を奏でるそれらも、今日は控えめに音を出すだけだった。
「明日からは私もこちらの神社の手伝いで、店を数日閉めるよ。悪いね」
◇
翌日も、朝から夜叉月は常磐堂の前に立っていた。格子戸はもちろん固く閉ざされている。
いないと分かってはいるが、向いてしまった足を止めることが出来なかった。
今朝のこの通りはほとんど人気がない。冷たく吹き抜ける風が、いつものように風鈴を揺らすこともなく、どこか物悲しい。
前を通るだけと思っていたので、店の前で一度止めた足を、夜叉月は再び踏み出した。
―――カランコロン……
向こうから下駄を鳴らしながら歩いて来る男が、夜叉月の横を通り過ぎた。
着物を着流し、煤竹色の扇子で口元から鼻先まですっぽり隠しながら、背筋を正して歩く姿には格別の品格が備わっている。
夜叉月とすれ違ってすぐ、男の足音が止まった。
「……タイミングが悪かったようだな。久しぶりに絢に会えると思ったが」
夜叉月は「絢」と聞くやいなや、ぴたりと静止した。
常磐堂の前で立ち止まったであろう男のことが気になり、振り返る。
男は店に貼られている「臨時休業」の貼り紙を凝視していた。肩まである髪を後ろに靡かせる男の佇まいは、扇子で口元を隠そうとも、隠しきれない気品に溢れている。
「日光山の奉納神事……もうそんな時期か。……あの山神、また絢を」
男は一度扇子を閉じ、顎に当てて考える素振りをしてから、手のひらをぱしっ!と叩いた。
「まあいい!行くとしよう!可愛い絢の晴れ姿を観に、日光へ!」
ハタ、とまた扇子を開いて口元を隠すと、男は身を翻して歩き始めた。
「……」
男の背中が見えなくなってからも、夜叉月は呆然と男のいた場所を眺め、動けずにいた。
ふと、小春が以前夜叉月に向けた「悪い虫!」という言葉が脳裏をよぎる。その後すぐに、一昨日の絢の失望の目が思い出された。
「……」
決めるのに時間はいらなかった。夜叉月はその足で駅に向かった。
◇
上野から、列車に揺られること数時間。
黒い煙を吐き出しながら滑り込んだ日光駅に足を踏み出した瞬間、鋭い冷気が一気に夜叉月の身を包んだ。浅草の秋風とはまるで別物だ。
口から漏れた吐息は白く、静かに空へと消えていく。
(絢は凍えていないだろうか。)
西洋風の木造駅舎を抜ければ、浅草の賑わいとは無縁の巨大な杉並木と、深く色づく山々が静かに聳え立っている。
外套の衿元をぐっと寄せると、夜叉月は迷わず神域へと続く坂道を歩き出した。
東照宮の境内は、まさに秋季例大祭の真っ只中だった。
煌びやかな装束を纏った千人武者の行列が参道を練り歩き、絢爛豪華な社殿を背に、人々の歓声と雅楽の音が秋空へ高く響き渡っている。
いつの間にか、光の姿の幼い真尋が、肩車で夜叉月に乗っていた。夜叉月は真尋の足にそっと触れて霊力を分けると、感じられるようになった重みで肩が少し沈む。
真尋はどうやらあまり機嫌がよくないらしい。嬉々として声を上げるわけでもなく、夜叉月の頭に自分の頭を預けて項垂れている。だが、惹かれる興味には抗えないようで、あちこちに目線を移動させて、その度に頭が擦れるのが分かる。
喜び半分、不満半分といったところか。
「どうした?何を不貞腐れている?」
「……不貞腐れてなんか、いません」
真尋はぶすったれた声で、分かりやすい嘘をつく。
「夜叉月様は、あの女のことばかり、僕のことなんか……」
その声は消え入るように小さくなっていく。
「……そんなことはないさ。ビスケットも喜んでいなかったか?」
「……あれは……とても美味しかったです。…ありがとうございました」
千年の時を共に歩んでも、真尋の中身は十の子どものままであった。
「だけど……僕は、あの女が嫌いです。大嫌いです」
夜叉月は何も言わずにその頭を撫でてやる。
「……せっかく来たんだ。まずは真尋のしたいことをするとしよう。甘酒でも飲むか?」
顔を上げた真尋が、夜叉月の頭をじっと見つめる。真尋からは夜叉月の表情は見えない。それから、真尋は抱きつくように夜叉月の頭を抱え込み、また自分の額をぐっと押し付けた。
「……飲みます」
◇
真尋の機嫌も落ち着いたところで、人混みを掻き分けさらに奥へと進む。
東照宮の華やかな賑わいを背に神門をくぐり、隣接する二荒山神社の参道へと足を踏み入れた途端、まるで世界を隔てる境界線を越えたかのように、一切の喧騒がふっと掻き消えた。
それと同時に肩で支えていた真尋の重みもふっと消え、姿も見えなくなっていた。
(どうやら満足したようだ)
凛とした静寂。頭上を覆う杉並木が陽の光を遮り、澄んだ空気が肌を撫でる。古代からの霊峰を背負う、生粋の神域。
遠くに見える本殿の石段の下、影を落とす杉の根元に―――彼女の姿があった。




