第十章 千年のこじらせ愛
「どうしたんだい?お前さんたち?」
戻ってきた修蔵は、怪訝そうに四人を見る。
周囲に変化はないが、絢は顔が真っ赤でそっぽを向いているし、さっきまでにこにこ手伝いをしてくれていた小春は、不機嫌そうに夜叉月を睨みつけている。そして、男たちは、着物が乱れたり裂けたり、傷だらけだったり…
一体何があったというのだ?
「まぁ、私も伊達に長くは生きていないさ。細かいことを詮索する野暮はよそう。さぁ、こっちへおいで。傷の手当をしてから、茶にしよう」
案内された居間で、修蔵が白磁のカップに静かに湯を注ぐと、しゅっと白い湯気が立ち上る。直後に広がったのは、香ばしくて深みのある豊かな匂い。
「あ、珈琲!」
「そうだよ、絢。この豆は香りが強くてね、少し苦いが……甘いお菓子によく合う」
そう言って、珈琲とともに、薄い緑色のハイカラな硝子の小皿を差し出した。小皿に乗っていたのは、丸くて可愛らしい焼き菓子だった。
「これはね、銀座の店で手に入れた『シュークリーム』って言う西洋のお菓子だよ。お前さんたちに見せたくてね、冷やしておいたんだ。さぁ、珈琲が冷めないうちに召し上がれ」
「いただきます」
絢が銀のフォークで口に運ぶと、頬を押さえて笑みをこぼす。小春と顔を見合わせてはしゃいでいる。
「美味しーい!甘い!!」
絢が喜ぶ姿を眺めながら一口含めば、夜叉月には何だかそれはこの世で一番美味しいもののように感じられた。
ふと、この間の水飴に喜ぶ真尋を思い出す。真尋にも食べさせてやりたいと思ったが、クリームの入っているこれはさすがに持ち歩けそうにない。
「よかったらこれも食べな」
修蔵が煙草を吹かしながら、平たい皿に並べて出してくれたのはビスケットだった。
これならば、と頃合いを見て、夜叉月は三枚ほど袖に忍ばせておく。
「橘屋の旦那様!こちらのビスケットもとても優しい味ですね!」
修蔵は目尻に優しいシワを寄せて「そうだろう」と嬉しそうに目を細めた。
修蔵は、離れた椅子でゆっくりと煙を吐き出す。
白磁のカップに注がれた珈琲の芳しい湯気が卓を包む。
修蔵の入れた温かい飲み物とハイカラなお菓子、そして修蔵の優しい眼差しが、その贅沢な時間を静かに紡いでいた。
◇
「橘屋の旦那様、今日はありがとうございました」
絢が深々と丁寧なお辞儀をし、四人は屋敷を後にした。
「なぁ、結局蔵ん中で何があったん?」
「……想像に任せよう」
「雑に任せんな!!!」
説明が面倒だった夜叉月は天翔を適当にあしらった。
「ええもん、ええもん。そっちが秘密なら、俺らにも秘密あるもんな〜小春?」
「ない!!!やめろ!!」
天翔はニヤニヤしながら小春に絡む。
「俺、あれ気に入っとるんや!火のやつ!もっかい出してくれへん?」
「やめろ!!!!」
顔を赤くさせて怒る小春が気の毒になってきたので、天翔は揶揄うのをやめて話題を変えた。
「でも、夜叉月たちが閉じ込められて焦ったんはほんまやで。なんや複雑そうな結界やったし、外からぶち破ったろう思ったら、あいつらが邪魔しに来よって。ま、返り討ちにしたったけどな!」
夜叉月は聞いているのかいないのか、やはり涼しい顔で前を見ている。―――前にいる、絢の後ろ姿を見ている。
「こりゃ、絶対聞いてへん!!」
帰路の途中、どこからともなく香ばしい醤油とかつお節の匂いが漂ってきた。
「はい、そばいー!出来たて、打ち立ての二八だよ!」
浅草の往来を、天秤棒を担いだ男が軽快な足取りで駆けていく。小春は身体を捻るようにして視線で追いかけている。
「蕎麦屋だ!!ちょっと行ってくる!甘いものの後はしょっぱいもの食べたい」
「はぐれるやろが!ちょお待てって!」
駆け出した小春の後ろを、天翔が慌てて追いかける。絢は天翔に任せることにし、静かに小春たちの背を見送った。そしてそのまま俯いてしまう。
「絢?どうした?」
先程から絢には気になることがあるようだ。歩きながらも絢はたまにちらちらと夜叉月を振り返ってはまた目を逸らしていた。恥ずかしがっているときの、あの愛しい目線とはまた異なる、少し不安げな、探るような視線。
(まぁ、どちらにせよ愛らしいものだな)
それを可愛いと思いつつ、絢を不安にしておくのは本意ではない。なんとかしたいものだ。
茜色だった空が群青へと染まる頃、大通りには一基、また一基とガス灯に火が灯り始める。
―――ガス灯の橙色の光と、夜の影が入り交じる黄昏時。
「あら、大旦那?」
背後から聞き覚えのある声がして、夜叉月が足をとめて振り返ると、小綺麗な身なりに風呂敷を持った女―――花代がいた。
「久しぶりですね。最近見ないから、長年の想い人にでも会えたのかしらって噂されていたくらいよ」
「……あぁ、花代か。久しいな」
「―――夜叉月?」
花代が声に気づき、夜叉月の肩越しにその背後を覗く。
夜叉月と同じように足をとめていた絢が夜叉月と花代の方を見ていた。澄んだ瞳に、今は少しだけ影がある。
「あら、連れの方がいたのね、私ったらごめんなさい」
花代は、気まずそうに夜叉月を見上げ、絢にも軽く会釈をするとそそくさと立ち去ろうとした。しかし花代はすぐにはっとして、再び勢いよく夜叉月を見ると、耳元で小声でたずねる。
「もしかして、あの方が?」
夜叉月は口元を緩め、改めて絢を見る。
「……まぁ、そういうことだ」
夜叉月はそれだけ言うと、さっさと絢の方に歩きだした。
「……あらあら、……まぁまぁ!!」
夜叉月の緩んだ表情を見た花代は、少しの間ぽかんとしていたが、徐々に驚きに変わり、最後には破顔した。花代は、すごいことを聞いてしまった!と跳ねるように、特大の秘密を持って駆けていった。
夜叉月は絢の隣にまで戻ってきたが、絢の顔はさっきよりも浮かないものになっている。
絢はもう目も合わせない。
熱々のそばを平らげた小春と天翔が、小走りに戻ってきた。天翔の背には、蔵から持って帰った絢の品の他に、天翔があれこれ寄り道で買った品も入ったパンパンの風呂敷が下げられている。
「お待たせーって、あれ?なんやこの雰囲気は?」
「またあの男……」
何やら察知した天翔と小春が少し離れたところで立ち止まる。小春はすぐさま飛び出して行こうとしたが、天翔が買っておいた焼団子を差し出しなんとか引き止めていた。
「あの……夜叉月……」
「はい」
ようやく絢が口を開く。
「さっき、長年の想い人って……あなたには、そんな方がいたのですか?」
「……はい……います」
絢が肩をぴくりと震わせ、伏し目がちの澄んだ瞳が大きく開かれて揺れた。
「それは、夫のいる方だったのですか……」
「……?」
「蔵で……あなたと、雪という彼が話しているのが、少し……聞こえました」
夜叉月は少し考えたが、「……あぁ、そうか」と、絢がなんのことを言っているのか理解した。
「そう……ですね」
夜叉月の言葉足らずなその返事は、絢を失望させるのに十分だった。
「長く心に想う人がいながら、一目惚れなどと……私を揶揄うのはお止めください。その方に夫がいるというのなら、思いを伝えるべきじゃありませんが……それでもお会いしたい方なのでしょう。探すべきだわ」
凛として、寄せ付けない表情でそう言い残し、絢はそれ以上振り返らずに行ってしまった。
小春はすぐさま「絢姉ちゃん!」と叫びながら後を追ったが、夜叉月はしばらくそのまま立ち尽くし、遠くなる絢の背を見つめていた。
◇
二人だけの帰り道、天翔はどこかソワソワしながら、俯き歩く夜叉月を横目でちらちらと見ていた。
しばらくそうして歩いていると、夜叉月が不意に口元に手を当て、ふっと息を漏らす。
天翔は、目を丸くして青ざめた!
「お、お前……今、笑っとんのか?!」
天翔は不気味な光景に寒気がしてきた。
「振られそうになっておかしくなったんか?!なんや!どうしたんや!?」
「……絢が、俺のことを考えてくれているから」
「……」
天翔は一瞬理解が追いつかず、唖然と立ち尽くす。少ししてから「……変態や」と小声で呟き、徐々に哀れな者を見るように眉尻を下げていった。
「や、夜叉月……お前……千年こじらせとるからな……。大丈夫や、俺がおるからな!大丈夫や!!!」
「……」
夜叉月が面を上げると、いつもの涼しい顔に戻っており、それ以上天翔に構うことなく歩いていった。




