第九章 翡翠の瞳 【後編】
攻撃を受ける手前、雪も童子切を受け流そうと刀を上げたが、間に合わずにこの様だ。
しかし、肩ほどまでに上げた雪の刃を気にも留めずに飛び込んできた夜叉月は、肩のあたりの着物がざっくりと切れ、腕に達したのであろう、衣に血が滲んでいた。
どちらも表情を変えなかったが、雪だけが一度ごくりと息を呑む。
夜叉月が更に力を込め、刃を一層食い込ませた。そのまま印を結ぼうとすると―――
「……氷華よ―――散れ」
掠れた声で雪が唱えた。
雪の刀身は光の斬撃となって砕け散り、近距離にいた夜叉月を四方から切り裂く!
雪は手元に戻ってきた刀を確かめるように握り、そっと下ろしてから、ため息をついた。
「はぁ。あなたが抱えるその怨霊の気持も分かりますよ。……まぁ僕は、その怨霊のように闇に呑まれるような無様を晒しはしませんが」
童子切が自らガタガタ震えだし、ゴォッ!と猛烈な勢いで黒い炎が刀身を包み込んだ!すべてを闇の底に堕とそうと、炎はさらに勢いを増していく。
「……落ち着け、真尋」
闇の炎は叫びとなって雪に突き進む。
「やっと現れたか、真尋。君が、最強の護法善神を羅刹にした元凶だね」
炎が雪を呑み込むように囲い込む!
しかしすぐに燃え盛る黒の内側から、銀の輝きが溢れ出した。そのままパァッ!っと黒の炎を打ち消してしまった!
「……ほら、やっぱり。―――業の闇は、法則の光に敵わない」
翡翠の瞳が、再び向かってくる闇の炎柱を冷たく映す。
真尋の怒りである闇の炎は、何度も雪へ向かっていく。
その度に打ち破られる炎からは、切ないほどの必死さが伝わってきて、夜叉月は静かに制した。
「そこまでだ、真尋」
『どうして止めるの?!嫌だ!夜叉月様ぁ!!』
夜叉月にしか聞こえないはずのその声が、悲痛を極める。輪廻の鎖が抵抗するように夜叉月を締め上げ、夜叉月は息を詰まらせ僅かに顔を歪める。
炎を無理矢理閉じ込めた夜叉月は、痛みを振り切るように刀ごと飛び出した―――その時。
―――シャリーン
澄みきった鈴の音が響き、闇の空気を切り裂いた。それは、あの夜聞いた、降霜の舞での神楽鈴の音だった!
夜叉月は動きを止め、振り返る。そこには、頬に一筋の涙を流す絢が、夜叉月の方へ真っ直ぐに手を伸ばしていた。その手に鈴は無かったが、彼の耳には確かに届いたのだ。
今すぐ彼女のもとへ駆けて行きたかったが、そこでふと胸の痛みが消えていることに気づく。代わりにじわりと温かさが広がって、夜叉月はそれを確かめるように胸に手を当てた。感謝を伝えるように、穏やかな笑みを向けると、絢は応えるように頷いた。
夜叉月から青銀の光が溢れ出す。振り返って雪に向き直れば、夜叉月の揺れる髪の軌道にも残光が残り、煌めいている。
「最後だ」
夜叉月は、刀身を二本指でそっと弧をなぞるように撫でていく。
童子切から眩い光が浮かび上がり、夜叉月の背後に青銀の光の狼が描かれた。
夜叉月は刃先をまっすぐ雪に向け、軌道を示す。
「蒼月―――疾走れ」
言い終わるより早く、蒼月と呼ばれた青銀の狼が疾風のごとく駆け出した!
雪は目を見開き、刃で受け止めようとしたが、その大きさと勢いに瞬時に判断を切り替える。地面に飛び込むようにして全力で避けたが、狼の鋭い歯が肩を掠めた。
ざっくりと刀傷ができ、鮮血が吹き出す。
青銀の狼は再び雪に向かって突進し始めていた。雪は肩を抑えて起き上がり、次の斬撃に備えて冷静に刀を構えて向き直る。
「……あれ?」
雪から拍子抜けしたような声が出た。
狼は、雪の脇を通過した後、戻ることも勢いを止めることもなく突っ走っている!そのまま蔵の端に体当りした。
パリィィィィン……!
硝子の割れるような音が反響し、狼は光となって散った。
音の割に、蔵の内部は何か壊れた様子もない。
唯一の変化は、思い切り戸を叩く音が鳴り出したことだ。
ドンドンドン!!!
「絢姉ちゃん!返事して!ねぇ!!」
雪が目を瞬かせて狼の走っていった方を眺めながら立ちすくんでいたが、思い出したようにゆっくり夜叉月を見る。
夜叉月は童子切を鞘に納め、絢を抱えたところだった。
「あ、歩けます!降ろしてください!」
「……それは、聞けない願いだな」
そう言われて、絢は両手で顔を覆ってしまった。
夜叉月は優しく笑ってから戸をあける。
抱えられて中から出てきた絢を見て、小春が顔面蒼白になった。
「え?!絢姉ちゃん、怪我したの?!痛む?!」
絢は答えず、顔を覆ったまま首を横に振るばかりだ。
だが覆われていない絢の耳が真っ赤に染まっているのを見て、小春は夜叉月を親の仇のような目で睨みつけた!
夜叉月は涼しい顔をしているが、その黒曜石はどこか愉しそうで、小春は益々怒りに燃えた。
縄を片手に握りしめながら、手をひらひらと振る天翔がこちらに気づく。
「おーう!やっと出てきたかぁ!……って何いい雰囲気なっとんねん!」
縄の先には慧光と慧喜がぐるぐる巻きにされて、今はおとなしくしている。だが、兄弟は夜叉月を目にした途端、やたらキラキラと瑠璃色の瞳を輝かせ始めた。
天翔に目立つ怪我は無いが、髪と着物が少し乱れ、ところどころ汚れていた。
雪が蔵から出てくると、天翔に捕まった兄弟を見て軽く息を吐く。
「なんだ、お前たち、来ていたのか?来なくていいと言ったのに」
兄弟は役に立てなかったことを恥じるように俯いてしまった。
雪の姿を捉え、目を見開いたのは天翔だった。刀の柄にさっと手をかける。
「お前…」
「驚かないでよ、天翔。あなたは相変わらず自由ですね」
雪の感情の読み取れない翡翠は、咎める様子すらなく天翔を見据える。
「今日は大人しく帰るから。行くよ、慧光、慧喜」
夜叉月は雪を気にする様子もなく、ただ愛しい彼女を眺めていた。だがついに抱きかかえられていた絢が逃げ出そうと暴れ出したので、笑いながら降ろしてやる。
天翔は、それを見て、焦ったり心配したりしている自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「やってられへん!!!お前たちもさっさと帰れ!」
そう言って縄をぽーいと放り投げた。
「……ねえ、夜叉月」
「……」
去り際、雪が声をかけると、翡翠と黒曜石の視線が重なった。
「僕があなたに必ず証明するよ。法が絶対だって。あなたと真尋を否定して、この世に秩序を取り戻す。―――待ってて」
そう言って雪は、風に攫われるようにふっと姿を消した。




