第九章 翡翠の瞳 【前編】
「や、夜叉月っ?!」
「あぁ、私だ。心配いらないよ」
絢は動揺し、肩を抱かれた腕にしがみつくように力を込めた。
夜叉月は、普段通り……いや、それよりもだいぶ柔らかな声で絢に答える。
すると、絢の手に込められた力が幾分か和らいだ。だが、彼女の鼓動は速いまま変わらない。安心させようと、夜叉月が少し深めに引き寄せれば、なんと絢の鼓動はさらにはやまってしまう。そのまま絢は固まってしまった!
「絢?」
夜叉月は自分の声の響き方が先程までと異なっていることに気付き、微かに眉根を寄せる。
(異空間に飛ばされたか?それとも結界の中か?)
絢を不必要に驚かせないよう、どう切り抜けるかの算段を素早く弾き出そうとする。
(まずは光を…)
夜叉月が左手を前にかざして、その指先に青白い光が集まりかけたとき―――
わずかな空気の揺らぎを感じ、咄嗟に童子切安綱の柄を掴み引き抜いた!
―――キンッ!!
身体を捻りながら半分ほど抜いたところで、衝撃とともに刃同士が擦れる甲高い音が響く。
「…あぁ、やはり素晴らしい反応ですね。流石です」
夜叉月は反動のまま距離を取り、刀を持ったままの手をかざすと、今度こそあかりが灯る。円状に、一定の範囲の地から溢れるように青白い光が浮かび上がった。
その光は、目の前の白銀の髪の男―――雪の美しさを不気味な陰で彩った。
夜叉月がただ視線だけで周囲の気配をぐるりと浚い、瞬時に状況を確認する。
壁にはさまざまな品がそのままあり、蔵の中であることに間違いはない。だが、外の気配は一切感じられず、強力な結界が貼られているか、もしくは蔵の空間ごと現し世から切り離されたらしい。
―――つまり、ここで暴れても特に大きな問題はない!
「や、夜叉月っ」
絢が身体ごと振り返り、戸惑いの目で夜叉月を見上げる。
「はい。……大丈夫、心配いらないよ?」
本当に何も心配いらないかのように、まっすぐに絢だけを映す黒曜石は、ただ慈しみだけが浮かんでいた。この緊迫感にまるでそぐわない甘い視線に、絢は何だか目眩を起こしそうになる。
だが、雪に視線を戻したときにはもう、鋭さを孕んだ涼しげな目に戻っていた。
「……絢」
「は、はいっ」
「……少し激しくなりそうなんだ。気分を悪くさせるわけにもいかないし、座って待っていてくれますか?」
「……は、はい!」
夜叉月はふっと口元を緩めると、そのまま絢の膝の裏を掬い、抱きかかえた!
絢は声を上げる余裕すらなく、息を呑む。
夜叉月は一歩で大きく飛んで端へ移動すると、そこに自分の外套を敷いき、絢を座らせるようにそっと降ろした。それから、人差し指と中指を立て、絢の額に軽くあてる。
途端に絢の視界は霞がかったように見えにくくなり、夜叉月の声も遠くなった。
「行ってきます」
「い、いってらっしゃい?」
結界の中の絢が俯き、また顔を仰ぎ出したのを見て、夜叉月は思わず「ふふっ」と声を漏らした。
「わぁ、驚いたな。僕が聞いていたあなたとはずいぶん違うみたいですね」
「……お前が、雪、か」
夜叉月は、地面を蹴ると指先が深くめり込み、弾けるように飛び出した。無駄のない動きで夜叉月が童子切を振り上げると、雪は体の前でそれを受け止める。
一回目とは明らかに異なり、ぎぃぃぃぃん!とお互いの刃が呻くように鳴く。そのまま童子切に指を二本当てれば、刃の弧に沿って衝撃波が放たれた。
雪は、弾き飛ばされながらも、感情のない冷めた笑みを崩さずに空中で体勢を立て直す。
「知っていて下さったなんて、嬉しいな。―――憧れのあなたに」
間髪入れずに、また夜叉月が飛び込んでくる。その刃の重さに雪は後方へ追いやられたが、翡翠の瞳がゆらりと揺れれば、ぎしりと刃が軋み、童子切を弾き返した。
「ちょっと性急すぎやしませんか?やっとあなたに会えた余韻に浸らせてほしいのに」
「悪いが、お前に使う時間はわずかでも惜しい」
雪は夜叉月の背後に目線をやる。
「あぁ、あれが噂の清香さんですか?」
「……」
雪の感情のない瞳が夜叉月を捉えた。
「…よかったですね、今回は。病気がちで早死でも無さそうだし、戦へ向かう夫がいるふうでもなさそうだ。ははっ」
夜叉月は涼しい顔を崩さないが、眉根にそっと力がこもる。
「はぁ……だけど、本当に残念だな」
雪の翡翠の瞳は光を失ったように、髪の影に隠れた。
「法に忠実な、唯一無二の護法善神。最強の刀神。……そんなあなたを、こんなに人間臭くしてしまったあの女が少し憎いです」
細められた雪の翡翠の瞳は、感情を持たない刃のように、冷たく彼女を見つめる。
「―――見るな」
夜叉月は刀をかちりと握り直し、構えると同時に飛び出した。
空中で印を結ぶと、雪の周囲に無数の光が集まりだし、それらは一つずつが光の童子切となって、雪を一周ぐるりと囲む。夜叉月の持つ本物の速さに合わせ、一斉に雪に向かっていった!
雪が指を揃えて片手を押し出すように前にやると、刀たちはぴたりと動きを止めた。まだ前に進もうと、カタカタと震えながらなんとか均衡を保っている。だが、さらに雪がダン!と足を一歩踏み出すとそれらがすべて押し返されてしまった!
夜叉月は飛んできた刀のいくつかを、羽虫を避けるように片手で易々と払っていく。
「あっ……!」
背後から聞こえた絢の声。その小さな声にすぐさま反応し、彼女の目線の先を追うと、蔵にある大事な品である茶碗に向かって一本の刀が突き進んでいた!
(そうだった。ここは、絢の馴染みの蔵であった)
夜叉月は素早く顔の前で印を結び、童子切の刃先で軽く地面を叩く。
すると、飛んでいた刀たちはすべて、夜叉月が蔵の内側に新たに張った結界の境界に当たり、バラバラと地面に落ちると同時に光となって霧散した。
その時―――
夜叉月の肌をぴりりと刺すような気配が走る。
雪を見ると、その冷めきった瞳は絢を捉え、薄暗さの中で翡翠が不穏な光を放ち始めていた。
「――っ!」
瞬きよりも速く。雪の鼻先に触れそうな距離に、刃物のような鋭さを研ぎ澄ませた黒曜石が迫り、翡翠の光を奪っていく。すでに首元には童子切の刃があてがわれ、雪の真っ白な首筋からつうっと赤い血が一筋流れていた。
「絢に……何をしようとした?」
静まり返った夜に響くような、重く低い声が、蔵の空気を凍りつかせた。




