第八章 蔵浚い
昨晩から夜叉月は落ち着かなかった。刀を何度研いでも気が整わず、はやる気持ちを抑えられずに早朝から家を出た。
「それで?まだ日も昇らんうちから来て、ずっとここで待ってたん?」
露草神社の境内、銀杏の木の下。今は巳の刻(午前十時頃)。
「ずいぶん可愛いやんけ―!!!あーっはっはっはっ!!!」
天翔がバシバシと幹を叩くたび、黄色い銀杏の葉が舞い落ちる。
夜叉月は何も言わず、目を閉じたまま幹に背を預けて腕を組んでいた。
この時期、朝晩はかなり冷える。夜叉月は気の遠くなるほど長いことここにいたせいで、白い指先と鼻先、さらには耳先までが僅かに赤くなっていた。
約束の時間の少し前に現れた天翔が怪訝に思い、「いつからおるん?」と尋ねれば、夜叉月は「…数刻前」とだけ答えたのだった。
それだけですべてを察した天翔は、腹を抱えながらニヤニヤする顔を必死で手で押さえつけてしばらく耐えたが、すぐに限界を迎えて声をあげて笑い出したのだ。
「お待たせしました」
耳心地のよい澄んだ声が、夜叉月の耳を撫でる。
その声が届くなり、夜叉月はぱっと目を開け、声に引き寄せられるように視線を向けた。
視線が触れ合うと、絢は結った頭からこぼれた髪を耳にかけながら、淡桃の唇に柔らかい弧を浮かべ、にっこりと微笑んだ。
夜叉月にはそれがあまりにも眩しく、瞳を細めて恍惚として見とれてしまう。
「あんたたち、目立ちすぎ。もう少しおとなしく待ちなさいよ」
来て早々不機嫌な小春は、夜叉月を睨みつけると絢の腕にこれみよがしに抱きついた。
(悪目立ちしているのは、こいつだろう)
夜叉月は、まだ肩を小刻みに震わせて蹲っている男をちらりと見る。まぁ、実際のところ、今の夜叉月にとって天翔のことなどどうでもいいのだ。
夜叉月は、スッと歩き出すと、絢の一歩後ろに立つ。
「行こう。どこにでも付き合う…」
そう言ったところで、夜叉月は、絢の結われた髪に目が行き、ぴたりと動きを止めてしまった。黒曜石の視線が、ただ一点に注がれている。
絢は夜叉月を軽く振り返り、「どうかしたかしら?」と目線の先を追い、はっと何かに気づいたようだ。恥ずかしそうに目を伏せ、結われた髪にそっと手を当てる。
「これは……そう……えっと、あなたも帯に着けているでしょう?」
「……」
「この間、店に来てくれたときに気づいて……私も同じものを持っていたから、今日は……その……」
「……」
絢が手で触れているそれは、以前、夜叉月が常磐堂で選んだ簪だった。今も夜叉月の帯の結び目あたりで、淡く白い蓮の花から垂れた玉が、光をはね返しながら揺れている。
同じものを千年の想い人が身につけている―――!!
絢の慌てた様子も愛らしく、夜叉月はどうしようもなく感情が溢れ出す。どうしたらいいか分からずに、夜叉月は目線を少しだけ逸らして、片手で顔を覆う。髪から覗く耳は、全体が赤く染まっていた。
「……似合いますか?」
「……とても」
「〜〜〜ちょ、調子に乗んなよ!!!!」
耐えられなくなったのは夜叉月だけではなかった!
最初、青い顔で呆然と絢を見ていた小春は、次第にわなわなと身体を震わせ、ついに夜叉月をびしっと指差し、顔を真っ赤にして声を荒げた!睨みつける目には薄っすら涙の膜が張っている。
「小春?どうしたの?」
「絢姉ちゃん!突然現れて一目惚れだとか簡単に言ってのけるような怪しい男に、そんな風に心を許しちゃだめ!!」
「ふふっ、もう、大袈裟ね。心配しなくても、可愛い小春のもとを離れたりしないわ」
絢が小春の頭を撫でてやる。
ふーっ!ふーっ!と息を荒げていたが、絢の関心を取り戻せると、小春は少しずつ落ち着いていった。
「まぁまぁ、小春ちゃん、ちょっと許してやって。ほな、いこか〜」
天翔はしばらく心をどこか遠くの方にやり、空高く飛ぶ鳥を仏のような目で眺めていたが、小春がぶち壊した空気を合図に本来の目的へと舵を切った。
◇
霜降の舞の翌日以降、天翔と夜叉月は毎日のように常磐堂へと通っていた。夜叉月はただで茶を出してもらうのも悪いと思い、刀の手入れをしたり、たまに境内の掃除を手伝ったりしていた。
絢は最初こそ戸惑っていたものの、少しずつそんな日常に慣れ始めている。
今日は、絢が、祖父の代からの馴染みの屋敷へ、「蔵浚い」に行くという。
このところ、時代の変化に伴って家をたたむ旧家が多くあり、あちこちで蔵浚いが行われていた。
遠慮する絢に、荷物が重くなるから男手が必要だの何だのと天翔が食い下がり、なんとか一緒に行かせてもらえることになったのだ。
「一緒に行けるんは、誰のお陰かな?忘れんといてや〜?お前ほんまいい友達持ったなぁ、羨ましいわぁ」
と、うざったいくらいに恩を着せてきたが、その通りなので、夜叉月はおとなしくしていた。
四人はシャリシャリと軽快な足音を立てて大通りを進む。道中、絢と小春はきゃっきゃと楽しそうに声を弾ませていた。夜叉月は天翔とともに少し後ろを歩き、絢の簪が揺れるのを穏やかに眺めている。
絢はところどころでふわりと振り返っては、後ろの二人にも声をかけた。
「今日行くところの橘屋の旦那様は元士族の方で、ご隠居なさるので蔵を整理したいから、ぜひうちに、と声をかけてくださったの」
絢が笑うと、夜叉月も軽く首を傾げるようにして柔らかな目線を返す。
そんな夜叉月を見て、天翔は不気味なものを見たかのように眉根を寄せた。
「……俺からしたら、怖いわ。なんか、お前がそんな顔…怖いわ」
槍でも降らす気か?!だのなんだのとぶつぶつ言いながら、天翔はやたら寒そうに腕を抱えて震えている。
小春に至っては「もう見ない!見えない!」と決め込んだらしい。
そうこうするうちに、目的の屋敷へたどり着く。
「やぁ、待っていたよ。久しぶりだね、絢。親父さんは元気かい?」
声をかけてきたのは、幼い頃から絢の成長を見守ってきた馴染み―――橘屋の修蔵だ。
髷を落とし、使い込まれた洋服を肩に引っ掛けて、屋敷の前の椅子に腰かけている。その姿には、時代の波を穏やかに受け入れてきた人柄がにじみ出ていた。
「お久しぶりです、橘屋の旦那様。父も元気にしております」
「そうか」
修蔵は目元に幾重もの皺を携え、朗らかに笑う。
世の中が西洋の風に眩しく揺れるこの頃。かつて格式を誇ったこのお屋敷も、時代の変化に伴い、小さく移り住むことが決まったのだという。
「たくさんで来てくれたんだね」
「友人です。今日は付き添いで」
「そうかい。……じゃあ、ここの蔵なんだが、よろしく頼むよ」
「はい。丁寧に見させていただきます」
蔵の重たい戸が開かれる。中は蔵特有の、ずんとした冷たい空気が漂っていた。
絢は、持ってきていた手ぬぐいを慣れた手つきで素早くたすき掛けすると、そのまま戸の前で深く一礼した。
夜叉月は、彼女の仕草のひとつひとつを見つめているだけで、心の内が浄化されていくようだった。
ひんやりした蔵の中。絢が一歩踏み出すと、舞の鈴がなったように、空気が一変する。
その変化を感じ取りながら、夜叉月もすぐ後に続いた。
薄暗がりの中で、手燭の温かい灯りに照らし出されたのは、江戸の職人が手掛けた静けさを纏う茶碗だった。
「どうだい、絢。お前さんの目から見て、そいつは……まだ息をしているかい?」
絢は指の感覚を研ぎ澄ませ、高台の削りや釉薬の溜まりを喰い入るように検分する。それから静かに面を上げ、柔らかく目を細めた。
「えぇ、とても……見事な、良いお品ですね。橘の旦那様が大切に守ってこられた証です」
「そうか…よかった」
修蔵はほっと胸を撫で下ろし、懐から出した巻きたばこに火をつけた。立ち上る煙の向こうで、どこか遠くを見るように目を細める。
「我が家でこのまま眠らせておくより、お前さんのような確かな目に託して、本当に価値を分かってくれる人に渡してもらう方が、道具たちも幸せだろうよ。……大きくなったなぁ、絢。お前さんの祖父さんが言っていたが、本当に……今や立派な目利きだな」
「旦那様……」
「世の中はすっかり変わってしまったが、お前さんのその真っ直ぐな目と、この道具たちの美しさは、きっと次の時代にも変わらず残っていくんだろうよ」
絢は、瞳の奥を揺らしながら、深く、静かに頷いた。
「お任せくださいませ。旦那様のお心ごと、大切に次の手へと繋いでまいります」
「な、なんか、ジーンとしてもうたわ……」
「ほんと、あのじいちゃん、絢姉ちゃんのことよく分かってる」
蔵の入口の方で待機していた小春と天翔が口元を手で抑え感動に浸っていた。
「じゃあ、私は客人に出す洋菓子でも準備してくるよ。ひと通り見終わったら呼んでおくれ」
修蔵はそう言って、たばこをくわえたまま蔵を出ていった。
「あ、私も手伝います!」
手持ち無沙汰だった小春は、すっかり気に入ってしまった修蔵の後をぴょんぴょんと付いていく。
遠ざかる小春の後ろ姿を見送ってから、天翔は蔵の中をちらりと見た。
「ま、小春ちゃんが気にしてへんのなら、ええか」
天翔は頭の後ろで手を組みながら、屋敷に向かう修蔵たちの後を追おうと足を向けた。
―――その刹那。
容赦ない突風が吹き付け、一つにまとめられた天翔の髪が激しく乱れた。
それは、蔵に吸い込まれるように真っ直ぐ突き抜けていく。
風が動いた瞬間、中にいる夜叉月も敏感に異変を察知する。
「絢!」
ひと声かけ終わる時にはすでに動いていた。絢と押し寄せる風の間に割り込み、袖で背後から庇い込むようにして彼女の肩を抱き寄せる。
「…?!」
バタン!!!
「きゃあ!」
大きな音を立てて戸が閉まり、驚いた絢が声を上げる。同時に手燭の灯りが消え、あたりは闇に包まれた。




