第七章 動き出す 【後編】
ちりりーん。
「おじさーん!」
どこかで聞いた威勢の良い声が、明るい風を運んで店に飛び込んできた。
「ねぇ、今日は絢姉ちゃん……」
店に入るなり卓を囲む客を見て、小春は、げっ!とあからさまに嫌な顔をした。
その目を向けられた夜叉月はと言えば、先ほど絢が裏の庭の作業に行ってしまってから、組んだ腕を指でトントン叩いていた。飲み終わってしまわないよう、半分程残っている茶の入った湯呑には手を付けていない。
「やぁ、小春ちゃん」
「お、おじさん。今日、絢姉ちゃんいます?」
小春はぎこちない表情で店主に尋ねた。
店主は「ちょっと待ってね」と、絢を呼びに行く。
夜叉月はこの世に絢しか存在していないかのように、それ以外の他人の言葉や行動には全くの無反応だ。
「あやー。小春ちゃんが来てくれているよ」
「はーい」
少し遠くから軽やかな声が聞こえ、夜叉月は声のする方をじっと見つめている。
絢がふわりと暖簾をくぐって再び姿を見せた。
夜叉月は、それをいつもの涼しい顔で、だがどこか慈しみを含んだ視線で、彼女の姿だけをただ追っていた。
絢は相変わらずパタパタ顔を仰ぎ、夜叉月の視線に気づきながらも、あえてあまりそちらを見ないようにしている。
その様子を見た夜叉月の口元と目元がふっと緩んだ。
その空気感を目の当たりにした小春は、口を半開きにしたまま、呆然と固まってしまった。
「……え?」
「小春、来てくれてありがとう!」
「…え?」
「どうしたの?小春?」
「……あ、絢姉ちゃん!!!!」
小春は、絢と夜叉月の間を何度も高速で目線を移動させたが、結局理解が追いつかず、なんだか分からないが、思わず絢に飛びついた。
ふーっ、ふーっ!!っと威嚇する猫のように、絢に半分隠れながら夜叉月を睨みつけている。
夜叉月はどこ吹く風だ。
「本当にどうしたの、小春?」
絢は小春の頭を撫でる。
「絢姉ちゃん、あいつと知り合い?」
「あいつって……夜叉月……のこと?」
一度「さん」をつけるか躊躇って夜叉月を見れば、どことなく寂しそうな視線を返され、腹を括った。
「や、夜叉月?!あいつの名前?!」
(店では名前なんて名乗ったことないって聞いていたのに!!!)
「ちゃんと知ったのは、今日だけど…昨晩の霜降の舞に来てくれた方なの」
「その前に会ったことは?!」
「ないけど…」
「ある」
夜叉月は、「ない」と言った絢の言葉を、間髪入れずに否定する。慌てたのは天翔だった。
「ないやろないやろ!昨日会うて、一目惚れやったやないか〜。また会いたいって言うから連れてきたったんや」
「…おい」
天翔は、何か言い返そうとした夜叉月の首を、後ろからがしっと腕で掴み、耳元にもう一方の手を当て口を近づける。
「やめや!どこで会ったことにすんねん?いきなり絢の前世の話とかすんのか?初対面の男からそんな話されたらな、どう思うねん!彼女からしたら、そんなん頭のおかしい気持ち悪いやつやで?」
「……!」
どうやら気持ち悪い、という言葉が効いたらしい。夜叉月は素直に言い直す。
「…舞が…とても美しかったから、あなたにまた会いたいと思ったんだ」
そう言われた絢は俯いてしまい、また、パタパタと顔を仰ぐ。
下から覗き込んでその表情を見てしまった小春は、顔面蒼白になってしまった。すぐにきっ!と夜叉月を睨む。
「何が一目惚れだ!こいつは、散々花街で…ふがっ!」
「小春ちゃーん!ややこしくせんといてー!今度飴ちゃんあげるから!」
天翔は、小春を絢から引っ剥がし、後ろから口を塞いだ。小春はバタバタと暴れている。
「あら、天翔さん、女の子を乱暴に扱ってはだめです」
「あ〜堪忍、もうせんわ」
絢が優しく咎め、天翔の腕に触れると―――絢の指先が一度、ぴん、と跳ね、そのまま動きを止めてしまった。
天翔は小春からぱっと手を放すと、絢の指先からもわずかに距離ができた。
「あら…あなたも…」
絢の瞳が天翔を捉える。
「…ん?それはそうと、絢ちゃん、俺のことも”さん”つけんと呼んでくれへん?」
絢は少し考えてから、「えぇ」とにっこり微笑む。
その時、天翔は背中に鋭い殺気を感じ、慌てて絢から離れて振り向く。そこには、一層涼しげな顔をして、ゆっくりと茶を啜る夜叉月の姿があった。天翔は顔を青くする。
「今日も賑やかだねぇ」
店主は嬉しそうに卓で頬杖をついて、店の様子を眺めていた。
◇
常磐堂の前の通りには、店内の賑やかな声が外まで漏れていた。
―――トン。
店から少し離れたところに、一人の男の足音が降り立つ。
男の白銀の髪から覗く翡翠の瞳が静かに開かれ、遠くの木々がザワザワとざわめき出す。
枯れ葉の群れがカサカサと乾いた音を立てて、石畳の上を力なく流れていく。
男が歩を進めると、草履の下敷きになった葉が、がさっ!と音を立て割れた。
「……見つけた。僕が、あなたの千年を終わらせてあげる。羅刹の刀神、夜叉月」




