第七章 動き出す 【前半】
「ほんま行かへんの?」
夜叉月は、店先で硝子の風鈴がちりりんと清らかになっている店の数歩手前で、立ち尽くしてしまった。
清香をひと目見ようと、常磐堂へやってきたまではいい。それから、どういうわけか、今、夜叉月はそれ以上進むのをためらっている。
「絢、こっち手伝ってくれるか?」
「お父さん、それ運ぶの私がやっておくよ」
開け放たれた戸の奥から、女の透き通った声がした。
(……絢。……絢というのか)
店の奥から聞こえた名前を反芻する。それだけで胸のあたりがじんわりと温かくなり、同時に苦しくもなった。
「なぁ、だから、行かへんの?」
隣に立つ天翔が、夜叉月を覗き込むようにして目の前で手をひらひらと振っている。
今朝、早くから出かけようと夜叉月が外に出ると、訪ねてきた天翔と鉢合わせ、天翔は当たり前のようにここまでついてきた。
「……俺に構うな」
夜叉月は、うざったい手を振り払う。
「…しゃーない。じゃ、俺は行ってくるわー」
「……っ!?」
がしっ!!!
間髪入れず、嬉々として歩き出そうと背を向けた天翔の襟元を、夜叉月は容赦なく鷲掴む。
「ふざけるな」
「なんやねん!お前にかまっとらんやろが!」
「なぜお前が行く?」
「店まで来てなんで入らへんねん!そっちのがおかしいやろ?!」
おかしい?いや、そう言われればそうなのだろう。
千年も探し続けた想い人をやっと見つけ、天にも昇る思いだ。だがきっと彼女は私のことが分からない。前回のように、彼女にはすでに心に決めた別の者がいるかもしれない。自分の想いは彼女にとって迷惑にはならないだろうか?
そんな余計な考えを巡らせていると、夜叉月には数歩の距離が数里にも感じられるのだ。
「いらっしゃいませー」
絢の耳心地のいい、華やかな声が通りに響いた。
「……っ?!?!」
隣を見れば天翔はいない。
(あの男はっ!!!)
「わぁー素敵なお店やね!あっ、昨日舞を踊っとった子やろ?絢ちゃんであっとる?ほんま綺麗で天女かと思ったわー。明るいところで見てもべっぴんさんやなー」
「いえ、そんな。昨晩は霜降の舞、観に来てくださって、ありがとうございます」
天翔は、すでに常磐堂の入口に立ち、ひと足先に絢と言葉をかわしているではないか!
夜叉月は唖然とし、言葉を失った。夜叉月の黒曜石は奥に凶悪な光を孕み、こめかみに血管が浮き上がってくる。
天翔の肩がびくりと震えて気配をたどれば、かつて最強と言われた刀神が身の周りにないはずの炎を纏っているのが見えた。炎なんて可愛いもんじゃない、さながら業火。
『このうすら馬鹿が!』と書かれた夜叉月の形相は、眼力だけで人を殺せそうな勢いだ。
天翔の動きはぴたりと止まり、顔から汗が滝のように流れる。
だが、天翔もすぐ開き直ったようにため息をつくと「お前も来い!」と口だけ動かして伝えた。
「あら、どなたかいらっしゃるの?」
「……っ!!!」
店の中から、すっと現れた声の主。
その清廉な響きが耳に届いた瞬間、夜叉月の荒れ狂う殺気が一気に凪いだ。
彼女の声は空気を清め、足取りは大地を浄化する。千年経っても、姿が変わっても、私のことを忘れても、美しく―――。
「いらっしゃい、どうぞ中へ」
青空の下、彼女の朗らかな笑みが映える。
その澄んだ瞳に映されて、夜叉月は今度こそ息も出来ぬほどに動けなくなった。
◇
どう手足を動かしたのか、もはや自分でも分からないが、夜叉月はなんとか店に入る。
店の中は以前来たときよりも、心なしか明るかった。風が吹けば冷たい季節だが、今日は日差しも暖かい。
夜叉月と天翔は、店内にある小さな卓に腰かけ、絢の出してくれた茶を啜る。
「旦那さんがた、この間言っていた、娘の絢です。鎮魂祭も来てくださったようで、本当に有難い限りです」
「えぇ、本当に。お二人はとても目立つから、今日ひと目見て昨晩の方だわって分かりましたよ」
再び固まる夜叉月を天翔が肘で軽くつく。
「ほんま?!覚えてもらえてたなんて嬉しいわぁ〜!旦那なんて固いわぁ!名前は天翔や!天ちゃんって呼んで〜な」
「天翔さんって、面白いわ」
夜叉月には目の前の会話がどこか遠くのことのように感じられた。
再び出会えたことに実感がわかず、まだ夢見心地なのだろう。ただ、彼女の結われた絹の髪の揺れ、甘い白檀のような香り、コロコロと弾む笑い声、彼女が作り出すこの店の清涼な空気。ただ彼女の存在を感じるためだけに五感が研ぎ澄まされているようだった。
「旦那様のお名前を聞いても?」
穏やかな眼差しを向けられては、いつもの平常心は保てそうにない。夜叉月の黒曜石の瞳は、無意識にその視線から逃げてしまう。
「私は……」
少し迷って、その名を告げる。
「……夜叉月。…名は、夜叉月」
「夜叉月…さん。昨夜見たあなたにぴったりのお名前ね」
ドクン!
夜叉月の心臓が大きく跳ねた。
伏せられた睫毛の隙間で瞳が揺れている。指先まで震えそうになり、持っていた湯呑みを卓に置く。
「…………もう一度、呼んでください」
夜叉月は縋るような視線を絢に向けた。
絢と天翔と店主はそれぞれぽかんとして、その非現実的な光景を眺めている。
絢は、ただ慣れない夜叉月の美しさにあてられ、戸惑いの表情を浮かべる。
だが男二人は、明らかに怪訝な顔をしている。
(この男はこんな甘い目の出来る男だったか?!―――否!!!)
天翔は余計なことを言って雰囲気をぶち壊さないよう、片手でそっと自分の口を塞ぐ。
さらになんだか見てはいけないもののような気がしたので、もう一方の手で両目も塞いでみた。
店主も天翔を真似た。
夜叉月は気付いていないのか、気にも留めない。
けれど絢は違った。
絢はそんな二人の奇妙な行動にギョッとし、だんだんと居たたまれなくなり、早くこの状況を脱しようと思いきる!
「や、夜叉月!」
名前の呼ばれた夜叉月は、満足げに口角を上げ、目を細める。
「……そうです」
「……さん」
「いらぬ」
「…なんだか、心臓に悪いわぁ。お茶のおかわりお持ちしますね」
絢は暑くなってきたのか、パタパタと顔を仰ぎながら奥に行ってしまった。その後ろ姿を見つめる黒曜石には、穏やかな光が揺れていた。
―――その歓喜に歯止めをかけるように、輪廻の鎖が軋み出す。
『……さまぁ、…夜叉月さまぁ!』
夜叉月は、ここまで耐えるように大人しくしていた真尋の感情が、溢れてくるのをじわじわと感じた。
ガラガラガラガラ!
開け放たれた戸から冷たい風が吹き込み、風鈴たちが警鐘のように鳴り出した。
(……今日はこれまでか)
名残惜しい気持ちはあれど、真尋に無理をさせるわけにはいかない。
夜叉月の瞳からは光が消え、いつもの冷たい鋭さが戻っていた。
―――これ以上は、危険だ。
そのとき、茶器の盆を持った絢が暖簾の奥から出てきた。盆を一度卓に置いてから、戸の方へ近づくと、騒ぎ立てている風鈴の一つに優しく手を触れる。
空いた手の人差し指を薄桃色の唇に当て、息を吹きかけた。
「しーっ」
宥めるように、言い聞かせるように。
すると、風鈴の音はゆっくりと静まっていった。
夜叉月と天翔は目を見張って動きを止める。
もし湯呑みを持っていたなら、二人揃って手から滑らせていたに違いない!
店主はいつもの光景と言わんばかりに、ニコニコとしているばかりだ。
これが日常とは、ここは一体どんな極楽だ?!




