第六章 霜降の舞
「今夜、『お露草様』で神楽があるんだってねぇ」
「常磐堂のとこの娘さんが舞うんだろ?観に行かなきゃなぁ!お前も行くだろ?」
「もちろんさ!ずいぶん前から楽しみにしていたんだから」
その日の観音裏は、今宵行われる祭りの話で持ちきりだった。
「そうだそうだ!観に行かなきゃなぁ!お前も行くやろ?」
「…………黙ってろ」
「冷たっ!浮かれたってええやん!祭りやで?!」
今宵は露草神社、秋季鎮魂祭。
かがり火の橙の光が、夜の静寂に包まれた露草神社の狭い境内を仄暗く浮かび上がらせていた。
観音裏の路地から一歩踏み入れると、昼間の表通りの賑やかさが嘘のように消え去り、静謐な空気が肌を刺す。境内に一本そびえる銀杏の大木は、暗がりの中でも重たく黄金色に色づき、夜風が吹き抜ける度にパラパラと葉を舞い落としていた。
「うちの『露の社』の境内の銀杏はさ、いつ見ても見事で他に引けをとらないね!」
「まったくだ!」
拝殿の前にしつらえられた小さな木組みの舞殿。その四方に焚かれた薪がパチパチと爆ぜる音だけが、夜の静けさを際立たせている。
まだ人のまばらなうちから、夜叉月は舞殿から少し離れた拝殿の陰、銀杏の幹に背を預け、腕を組みながら長いこと佇んでいた。風の音にでも耳を澄ませるように、静かに目を閉じながら。
焚かれた薪の熱が、時折冷たい風に混じって温もりを運んでくるのを心地よく感じていた。
天翔は頭の後ろで両手を組み、夜叉月を横目で見てにやにやしながら、やはり同じ時間をそこで過ごしている。だが、言葉は極力発さず、なるべく夜叉月の邪魔をしないようにしているらしい。
「……顔が煩いぞ、天翔」
「!!理不尽!!」
境内に徐々に人が増えてきた。
集まっているのは、近所の職人や花街の馴染み客などだ。皆、肩を寄せ合い、息をひそめて舞殿を見上げている。
夜叉月と天翔は背が高いため、大方、前に人がいようとも邪魔になることはなかった。
―――シャリーン。
澄んだ鈴の音が秋の夜気を切り裂き、境内の空気感を一変させた。
それは、見るものの声を自然と奪ってしまうような、ピンと張り詰めた空気。
紅の袴を纏った女がひとり、現れた。ぴんと伸びた背筋で、一歩ずつ舞殿の段を上がる。背に流れる絹の髪は、奉書紙と水引で端正に結い上げられ、巫女としての品格を感じさせた。
くるりと正面を向いた彼女の目は、一切の迷いを捨て去ったように澄み渡り、ただ遠くの一点を見つめている。
その姿をひと目見て―――夜叉月の千年の時が、止まった。
指先が震え、そのまま息をすることも忘れてしまう。
姿形は違えど見間違うはずもない!千年、狂おしい程探し続けたあの魂が、今自分の目の前で舞っている―――清香!
見開かれた黒曜石が、彼女を捉えて離さない。
「―――霜降の舞、奉納」
誰からともなく漏れた呟きとともに、彼女の袖がふわりと宙を舞い、手にした神楽鈴を響かせる。
―――シャン!
幾重にも重なる鈴の音が、遠くまで透き渡る音を運ぶ。それは、秋が深まり、露が冷えて霜へと変わりゆく季節の寂しさをそのまま音にしたような、冷たく美しい調べ。
―――シャン
風が吹き抜け、銀杏の葉が彼女の頭上に舞い散る。
かがり火の揺らめきを浴びながら、彼女が首を傾げてくるりと回るたび、結い上げた黒髪がさらりと背で揺れ、紅色の袴の裾が翻る。頭の硝子の飾りが「ちり…」と微かな音を立てながら、夜の暗がりにキラキラと光りを走らせた。まるで彼女の周りだけ夜空の星を散らしたかのような光景だった。
―――シャン
夜叉月は、片方の手で逆の腕を、爪が食い込むほどに力いっぱい掴んでいた。今にも伸ばしてしまいそうな手を、必死で抑えつけるかのように。
思いつめたように眉根をよせ、切なげにゆれる黒曜石の瞳で彼女のすべてを目に焼き付けるように見入る。
―――シャン、―――シャン
彼女が鈴を響かせるたび、夜叉月の心はどうしようもなく揺さぶられてしまう。
苦しさに、胸元の合わせを乱雑に握りしめながら見つめる。
彼女は一度目を伏せるようにして流し目で床を見つめ、神楽鈴で大きく円を書きながら回転すると、再び正面で鈴を鳴らし、目線を上げた。
―――シャリーン。
彼女の澄んだ視線が、周囲より高い位置にあった夜叉月の黒曜石に留まる。
夢のような、永遠のようなその一瞬が、夜叉月の終わらない孤独を掬い上げるように、彼の胸の奥底に染み渡っていく。
「……清香」
思わず口にしてしまった。
風にいとも簡単に掻き消されるほどの囁きを、まるで受け取ったかのように―――彼女は薄桃色の唇を僅かに上げたのだ。
◇
―――同じ刻、現し世を遥か見下ろす仏界。
雲海の上に聳え立つ金剛の回廊は、常であれば絶対の秩序と静寂に満ちている。
だがその渦中、天を象徴する無数の法輪が、あり得ざる不協和音を奏でて軋んでいた。
諸尊の中央に据えられた「予知の法」。
未来の因果を映し出す巨大な水晶の盤面が、溢れ出す黒濁した気配によって禍々しく染まり上がっていく。
「―――なんだ、この闇は!」
静寂を割ったのは、炎の背光を背負う怒れる法の番人―――不動明王の怒号であった。
視線の先、盤面には具体的な光景はない。ただ、世界そのものが底知れぬ黒に呑み込まれ、崩壊していく「破滅の未来」。
―――そして、その災いの中心で重なる、二つの魂の波紋。
「千年間、法を外れ、羅刹へと落ちたあの刀神か……!天女の魂と再び出会い、世界を滅ぼす引き金となるとはな!」
諸尊の間に、動揺と憤怒の波紋が広がる。
その混乱の中、静かに歩み出たのは、護法童子―――雪であった。氷のように冷ややかに、白銀の髪から覗く翡翠の瞳で、不動明王を見上げる。
「私が、行きます」
迷いのない声だった。
「予知の法に従い、現し世へ降る。……夜叉月、そして共に繋がれし罪深き怨霊を、法の刻印を持って討つ」
かつての夜叉月がそうであったように、ただ「法」のみに従い、それにより命を奪おうとも、なんの疑いも持たぬ刃。
不動明王は重々しく頷いた。
「私の童子たちも連れていけ!一気に叩く!」
―――だが、その中で一人だけ、異なる視線を投げかける者がいた。
白象の傍らに静かに佇む、普賢菩薩。
彼は、動揺する諸尊には目もくれず、ただ予知の法を見つめていた。
(……法が示すのは、真実か。それとも、法そのものが生み出す歪みか)
絶対であるはずの「法」の限界を、彼は一人感じ取っていた。
そして、冷酷な正義を胸に現し世へと飛び立とうとする雪の背中を、哀れみを秘めた眼差しで見送る。
(雪よ……かつて法に殉じ、羅刹へと落ちた夜叉月と同じ道を、お前も進むのか……?)
その呟きは誰の耳にも届くことはない。
「童子たちよ、行け!」
不動明王の怒号とともに、仏界の重い門が今、開かれた。
◇
―――シャン!
最後の鈴の音が闇夜に溶け、霜降の舞は余韻を残しながら終わりを告げた。
ふと気づけば、隣にいたはずの天翔の気配は消えている。
夜叉月の胸を打つ早鐘は、当分静まりそうにない。
だがその歓喜を切り裂くように、急激な冷気が胸元から吹き荒れた。
『……あ、あぁぁぁぁっ!刀神様…夜叉月様…っ!』
脳裏に直接響くのは、泣き叫ぶ真尋の錯乱した声。
舞の最中、鳴り響いていたはずのその警鐘は、神楽鈴の音に打ち消されていたかの如く、聞こえることはなかった。
だが今、狂おしい嫉妬と恐怖に苛まれた真尋の情念が、輪廻の鎖を通じて夜叉月の心臓を痛烈に締め上げた。
『嫌だ……またあの女だ!あの女のせいで…!夜叉月様には、僕だけで十分なのに…っ!!』
「……あぁ、お前にとっては、ここは苦しい場所であったな。帰ろう」
溢れる苦痛を押し殺し、夜叉月は語りかける。
そう言われて光の輪郭を結んだ真尋は、縋り付くように手を伸ばし、夜叉月の首元へ必死に顔を埋めた。
夜叉月はそのまま、重さのない真尋をそっと抱き抱えるようにして、境内を後にしようと踏み出す。
その刹那―――
ざぁぁぁっ…!と、辺りの木々が一斉に騒ぎ出した。
それらに共鳴するように、夜叉月の胸の奥もざわざわと泡立ち始める。
かつて護法善神として法に殉じた己の魂が、遠き仏界から放たれた「予知の法」の激動を、否応なしに感知してしまったのだ!
夜叉月を呑み込むように、世界が崩壊するどす黒く禍々しい情景が脳裏を支配していく。
(なんだ…これは)
濁流のように押し寄せる闇の残像。冷たい汗が背をつうっと這う。
予知の法がこれほどの破滅を示したことなど、千年前の昔ですら記憶にない。
(……ふっ、どうやら私には、平穏など訪れぬ運命らしい)
夜叉月は自嘲するように口元を綻ばせた。だが、揺れていた黒曜石はすぐに涼しげなそれに戻る。
夜風が猛々しく吹き荒れ、銀杏の落ち葉を巻き上げながら、彼の漆黒の袴を大きくはためかせた。黒曜石に鋭い光が一筋走る。
―――だからなんだと言うのだ。
この千年の深淵の闇に比べたら、あなたのいる闇など喜んで飛び込もう。押し寄せる運命ごと、いくらでも受けて立つ。今度こそ、失いはしない。
夜叉月は青銀の炎を瞳に宿し、不敵に笑んだ。
―――人だかりから遠く外れた境内の暗がり。
「……ほんまお前は、一途で健気な羅刹やなぁ」
そんな夜叉月の様子を静かに見守る天翔の呟きは、誰にも拾われることなく夜空に溶けていった。
第一幕、完。
第二幕はいよいよ夜叉月の溺愛ターン開幕!
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