第五章 常磐堂 【前編】
「ねーぇ、ほんま悪かったてぇ」
昨晩天翔は、ああだこうだと許しを請いながら、戸を叩き続けていたがついに戸は開かず。
夜叉月は普段、眠ることは滅多にない。そもそも現し世の者ではないので、睡眠はなくても問題はないのだ。だがそれ以上に、真尋の「夜泣き」でそれどころではないというのが正直なところであった。
しかも今日に限っては、さらに天翔の余計な騒音まで加わって、出来ることなら気絶してでも眠ってしまいたい気分だったが、到底叶いそうにもなかった。
丑三つ時、ようやく外が静かになり、夜叉月は眉根を深めに寄せながら、大きくため息をついた。こめかみのあたりを片手で揉んでから、乱された心を清めようと、蔵から刀を何本か掴んで研ぎ場へと入る。
シューッ、シューッ、シューッ―――
濡れた砥石の上を刃先が滑る。規則的な摩擦音が、やがて絹を滑らせるような繊細な音に変わっていく。音が研ぎ澄まされるにつれて、刃が纏う空気までもが、冷たく引き締まっていくようだ。
夜叉月はそうして手を動かすうちに、静かに無心を取り戻していった。
時折、研ぎの手を止め、刀身をすっと持ち上げる。
紙張り行灯の灯りに刃をかざし、目を細めて刃文の狂いや刃こぼれを確かめる。薄い唇から漏れる静かな吐息が、鋼の表面をほんのりと曇らせ、すぐに消えていった。
長いこと研ぎ場に籠り、外に出る頃にはすっかり明るくなっていた。
(そろそろ店が開く頃だろうか)
夜叉月は筆置きの竹筒に巻いてあった組み紐を解き、かけてあった手ぬぐいを取ってそのまま水場に向かった。
敷地内の冷泉を引いた石造りの水桶。
顔周りの髪を後ろで緩く束ねて結び、ばしゃん!と勢いよく両手に集めた水を顔に叩きつける。しばらく手を顔に当てたまま、夜叉月は肌を刺す冷たさがじんわりと心地良いしびれに変わっていくのを感じていた。
大きく息を吐き、もう一度水をすくって顔にかける。何度かそれを繰り返し、石造りに両手を付いて、目を閉じる。髪からぽたぽたと雫が落ち、波紋を描いた。
水を含んだ前髪が重く垂れるのを横に流し、夜叉月は再び目を開ける。
陽の光にきらめく水気を帯びて、艶を増した睫毛がゆっくりと上がり、覗く黒曜石を一層美しく縁取った。
昨晩とは一転、なんだか清々しい思いで、戸を開け、外へ繰り出すと―――
そこには、大太刀を抱えるように腕を組みながら居眠りしている騒々しい男が転がっていた!
夜叉月が唖然としている間に、鼻提灯がぱちんと割れ、天翔が薄っすら目を覚ます。
「……お?」
「……」
「…なんや、ようやく出てきたんか。手ぇかかるやっちゃなぁ。おはよ、夜叉月」
夜叉月は振り返りもせず早足でまっすぐと進み出した。背後で「おーい」だの「待ってくれ」だの散々喚いていたが、極力耳を閉ざし歩みを進めた。
◇
浅草寺の北側の、観音裏へ向かう途中にある古い路地裏。
「常磐堂」と書かれた看板の前で、少しふくよかで温和そうな主人が石畳に打ち水をしている。主人が顔を上げると、黒を纏った美しい男―――夜叉月と目があった。
主人は見惚れるようにほうけた後、笑みを戻し、軽く会釈する。夜叉月は束ねた長い襟足を揺らしながら、ゆっくりと店に近づいていった。
店先にはギヤマンの風鈴、色鮮やかな硝子の器や髪飾り、小さな香水瓶など、きらきらしたガラス細工が美しく配置されている。
ちりん、ちりん―――
時代の浮ついた気風を好まない夜叉月だが、この音は全く嫌な気がしなかった。風に撫でられ、優しい音色を奏でる風鈴に耳を傾ける。
夏の風物詩としては季節外れだが、風鈴は厄除けとしての役割もある。一年中吊るすことで、骨董たちの気でも払っているのだろうか。
ふと店の奥に目をやると、本来はこちらが主であろう骨董たちが所狭しと並んでいた。
文明開化という時代の波で手放された刀の鍔や、仏像、古い漆器、蒔絵の小箱。不思議と乱雑さはなく、美しく秩序立てて配列されており、味わいがある。
(やはり、邪悪さを感じるものが一つもないな……)
確かにここの品々は人の手で幾度も慈しまれ、磨かれてきたのだろう。古いものが持つ独特の重たさが一切なく、ただ主人の丁寧な手入れが窺える清々しさだけが残っている。
だが、本当にそれだけだろうか?
夜叉月は触れて確かめたくなり、その中の一つに手を伸ばしかけた、その時―――
ガチャン!!!
夜叉月の腰の刀が、引き止めるかのように大きく音を立てた。夜叉月は伸ばしかけた手を止める。
(…真尋?)
「嫌です!ここは嫌です!帰りたい!!怖い!怖い!!」
急にぐずりだした真尋に、理由も分からず、どうしたものかと考えたが、答えは出ず。仕方なく、柄に手を置いておく。
主人は聞き慣れない物音に辺りを見回すが、夜叉月の刀が見えていないので、特に変わったところも見つけられず首を傾げている。
夜叉月は店内を一通り見て回り、入口に戻ってきたところでふと足をとめた。最初は風鈴の音に気を取られ、あまり目線を下げていなかったため、気づかなかったそれ。
硝子の蓮の花と葉があしらわれた一本の簪。
夜叉月の黒曜石の瞳はまるで釘付けになったかのように動かなくなった。
しばらくして、動き出す指先が一瞬震えて、大事そうに簪を手に取る。指に触れたそれはひんやりと冷たい。警鐘を鳴らすかのように真尋の叫び声がひっきりなしに響くが、夜叉月は構わず見つめ続けた。
落ち着いた銀細工の軸に、ほんのりと甘い白を帯びた少し濁りのある蓮の花。葉の部分は葉脈が切子で刻まれ、光を拾ってきらりと繊細な筋を浮かび上がらせる。蓮の花からは、小さな硝子の雫が二つ、垂れ下がっている。
遠い記憶―――しかし何よりも鮮明に、彼女の長く美しい髪の一部に留められた白い蓮の花が蘇る。彼女が舞うような仕草をする度に、朝露がこぼれ落ちるかのように揺れ、光を散らしたあの光景。
―――とても良く似ていた。
夜叉月の黒曜石に温かい光が灯り、細めた目元はどこまでも優しく。
簪を溢れんばかりの情を湛えて見つめる夜叉月に、店主は困ったように頭を掻いた。
「主人、これを一本くれないか?」
「そんなに気に入ったかい?そんな愛おしそうに見られちゃねぇ」
店主は嬉しそうな様子で棚から紙箱を取り出し、柔らかい布を敷き詰める。
「これはあんたが持っていておくれよ。その代わり、大事にしてやっておくれ?あんたみたく粋な人が持っていてくれるなら、これも本望ですよ。」
「いいのか?感謝する。紙箱はそのまま貰っておこう」
夜叉月は簪をそのまま帯の結び目の脇に深く挿し入れた。
「おじさーん!」
明るい声とともに、静かで凛とした空気感を、ぱっと華やかに塗りかえるような、天真爛漫で愛くるしい女が店にやってきた。
「あぁ、小春ちゃん!」
「今日もおじさんだけ?」
「あぁ、秋の邪気払いが終わるまでは、当分ね。」
「ふーん……あ、どうも」
小春と呼ばれた、小柄で色素の薄い髪をまとめた女は、夜叉月に気づくと軽く会釈する。
が、何かに気づいたのか全力で頭を上げて夜叉月の顔を凝視した!小春の切れ長の目が見開いて、無遠慮な視線が圧を増す。夜叉月でなければ、後退りのひとつでもしているだろうが、夜叉月は涼しい顔を崩さずに、その視線を平然と受けて立つ。
「やっぱり…」
女は目線を外し、考え込むように指を顎に当てた。
夜叉月は特にこの女に用は無かったので、知らん顔で脇を素通りしようとした。だかすぐに、ぐっと袖を掴まれ、引き戻される。
「私、お座敷で会った小春です!覚えていませんか?!」
言われてみれば、このような顔の女がいた気もするが…いなかった気もする…。
空を見つめ、夜叉月はしばし考える。
そもそも夜叉月は、現し世の女たちの顔など、細かく見分けられるほど注意して見てはいなかったし、あちこちの店にしょっちゅう顔を出しているので、いちいち一人ずつ覚えもしなかった。
「呆れた」
口をあけて夜叉月を見上げる小春の目は、睨んでこそいないが、どこか非難めいていた。
「もういいです!…あっ!!!やっぱり待って待って!!!」
「……今度は何だ?」
小春が夜叉月の袖を掴んだまま、今度は何度バタバタと引っ張る。自分本意に雑に扱われるものだから、夜叉月もだんだんと鬱陶しくなってきた。
「その簪!!!なんで?なんで選んだの?!」
「特に理由なんかない」
夜叉月は大きくため息をついて、吐き捨てるように言った。
「まさか、まさか、あなたの想い人って……」
小春は手を口元で小刻みに震わせ、「悪い虫!」とぼやきながら、急に焦りだしたかと思えば、突如敵意を向けるような眼差しに変わる。
(ころころと表情の変わる女だ)
内心うんざりしながら小春に問う。
「だから、一体なんなんだ」
「―――な、なんでもない!!!!」
結局それか!
「…もう離せ」
眉根を寄せて、羽織を翻すと、ついに小春の手は夜叉月から離された。
ちょうど、その時―――
「おじさーん!!」
どこかで聞いたセリフを吐きながら、今度は日差しよりも陽気な男が飛び込んできた!
「いらっしゃい。なんだ今日は賑やかだねぇ」
「俺にも、すてきなもん見せて―や★」
「……!」
どう考えても、一番会いたくない男の顔を見るや、夜叉月はどっと疲れが押し寄せ、吐き捨てる言葉すら浮かんでこない。夜叉月は空を見上げ、盛大に息を吐きながら、片手で目を覆った。
夜叉月の心の内とは裏腹に、帯に差し込まれた簪は、たいそう愉しげに揺らめいていた。
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