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あの場所へ  作者: ナオ
9/13

9話 多摩へ抜ける道

 秩父を離れてしばらく、車内には少しだけ静かな時間が流れていた。


 誰も眠ってはいない。


 けれど、すぐに話し始める気分でもなかった。


 窓の外では、山の景色がゆっくり後ろへ流れていく。


 町の気配が薄くなり、道はまた国道299号へ戻っていた。


 秩父の市街地。


 武甲山。


 古い旅館。


 夜の番場通り。


 赤い髪飾りの女の子。


 その全部が、車の後ろに置いていかれているはずだった。


 それでもミカは、さっきから何度も後ろを見ていた。


 リュウが横目でそれを見る。


「ミカ、まだ気になるのか」


「そりゃ気になるよ」


「もう秩父出たぞ」


「出たから安心、とはならないじゃん」


 リュウは少し困ったように笑った。


「まあ、そうか」


「リュウさんも最後のやつ見たでしょ」


「見たな」


「見たな、じゃないんだよ」


「じゃあ何て言えばいいんだよ」


「一緒に怖がって」


「怖かった」


「雑だけど、まあいい」


 サチが助手席で少し振り返った。


「でも、最後は見送ってるみたいだったね」


 ミカは少し黙った。


「うん、それは思った」


 ナオは前を見たまま、静かにハンドルを切った。


 道は山の影を抜け、少しずつ飯能方面へ戻っていく。


 昨日、あしがくぼで休んだ時には、これから秩父に入るんだという高揚があった。


 今は逆だった。


 秩父を離れている。


 けれど、ただ戻るわけではない。


 旅は次の場所へ向かっている。


「今日はどこまで行くの?」


 サチが聞いた。


「多摩方面に入る」


「多摩?」


「飯能から青梅方面へ抜けて、奥多摩の入口あたりまで行ければいい」


 ミカが少し顔を上げた。


「奥多摩って、東京?」


「東京だな」


「東京なのに山?」


「東京にも山はある」


「なんか、東京って聞くとビルのイメージなのに」


 リュウが窓の外を見ながら言った。


「奥多摩は完全に山だぞ」


「リュウさん、詳しいの?」


「昔ちょっと行ったことある」


「またナオさんと?」


「いや、それは別」


「ナオさんとリュウさん、昔からいろいろ行ってるよね」


 リュウは少し笑った。


「行こうって話だけして、行かなかった場所の方が多いけどな」


「それ、なんか分かる」


 サチが言った。


「大人になると、行こうって言ってもなかなか行かないよね」


「だから今行ってる」


 ナオが言うと、車内が少しだけ静かになった。


 その言葉は大げさではなかった。


 でも、この旅の理由そのものだった。


 行きたい場所がある。


 気になっていた話がある。


 昔は時間も金も勇気もなくて、地図の上でだけ見ていた場所がある。


 今なら行ける。


 今なら、行っていい。


 サチが少し笑った。


「ナオくん、いいこと言うね」


「そうか?」


「うん、今のはよかった」


 ミカも後ろから言った。


「怖い話じゃない時のナオさんの言葉は、けっこう好き」


「怖い話の時は?」


「怖い」


「そのままだな」


 リュウが笑った。


 車は国道299号を進み、あしがくぼの近くを通った。


 昨日立ち寄った道の駅が見える。


 昼間の明るさの中で、駐車場には車があり、人もいる。


 ミカは窓の外を見て、少しだけほっとした顔をした。


「道の駅、今日も安全そう」


「道の駅に信頼置きすぎだろ」


 リュウが言う。


「道の駅は裏切らない」


「名言っぽいな」


「ナオさんの名言より安心感あるでしょ」


「それはある」


 ナオが言うと、サチが笑った。


「ナオくん、自分で認めた」


「道の駅には勝てない」


 あしがくぼを過ぎる時、ナオは一瞬だけ山の方を見た。


 氷柱の思い出。


 サチの白い息。


 肉まん。


 登山道の小熊。


 そして今は、秩父から離れる途中の通過点。


 同じ場所でも、通るたびに違う顔をする。


 サチもその場所を見ていた。


「また冬に来ようね」


「ああ」


「今度はミカちゃんたちも」


 ミカがすぐに反応した。


「寒いんだよね?」


「寒い」


「でも写真はめちゃくちゃきれいだった」


「じゃあ行けるね」


「肉まんありなら行ける」


 リュウが笑う。


「条件が具体的だな」


 車は山道を抜け、飯能方面へ戻っていった。


 途中、正丸峠へ続く山の影が近くに見え、カーブのたびに景色が変わる。


 山の中にいる時間が長くなると、車内の会話も自然と少なくなる。


 ナオは道に集中していた。


 リュウは窓の外を見ている。


 サチは地図を眺め、ミカは買った菓子を少しずつ食べていた。


 やがて飯能の市街に近づくと、空気が少しだけ変わった。


 山の密度がゆるみ、店や住宅が増えていく。


 ミカが背伸びをした。


「人がいると落ち着く」


「昨日の三峯はどうだった?」


 リュウが聞く。


「あそこは別。怖いけど、変な怖さじゃなかった」


「お犬様効果か」


「そうかも」


 サチが頷いた。


「守ってる感じはあったね」


「でも赤い髪飾りの子はいた」


 ミカが言うと、車内が少しだけ静かになった。


 リュウは軽く咳払いをした。


「まあ、そこは置いとこう」


「置ける?」


「無理やり置く」


「リュウさん、それ結構大事」


 ナオは交差点を曲がり、青梅方面へ向かう道へ入った。


 山の気配は完全には消えていない。


 けれど、秩父とは違う。


 奥武蔵から多摩へ。


 県境を越えるというほど大きな変化ではない。


 それでも、旅が次の章へ入っていく感覚があった。


「ここから東京に入るの?」


 サチが地図を見ながら聞いた。


「少し走れば青梅方面だな」


「東京って言われると変な感じ」


「多摩の方は、都心とは全然違うからな」


 リュウが言った。


「奥多摩なんて、山と川だぞ」


 ミカが少し不安そうにする。


「また山?」


「でも東京だ」


「東京なら安心、ってなると思ったのに」


「奥多摩は奥多摩だな」


「言い方がもう山」


 サチが笑った。


「でも、ちょっと楽しみ。東京なのに山って面白いね」


「面白いよ」


 ナオは前を見たまま答えた。


「青梅や奥多摩の方は、古い街道や集落、山の信仰、湖やトンネルの話もある」


 ミカがすぐに言った。


「トンネルはやめよう」


「まだ行くとは言ってない」


「でも候補にはある言い方だった」


「候補は多い」


「ナオさんの候補、怖いの多すぎ」


「温泉もある」


「それは大事」


 昼を少し過ぎた頃、4人は飯能から青梅へ向かう途中で休憩を取ることにした。


 小さな店と駐車場がある場所で車を停める。


 山の中というほどではないが、まだ緑が近い。


 リュウは外に出るとすぐに伸びをした。


「ずっと車だと体固まるな」


「リュウさん、昨日山見ただけで疲れたって言ってたじゃん」


 ミカが笑う。


「山を見るのも体力使うんだよ」


「便利だね」


 サチは売店の方を見て言った。


「何か食べられるかな」


「サチさん、朝も食べてたよな」


「移動するとお腹空くんだよ」


 ナオも頷いた。


「食べよう」


「ナオも即答か」


 リュウが呆れたように言う。


「運転すると腹が減る」


「便利な理由だな」


 軽く食事を取るつもりが、結局それなりに食べた。


 ミカも最初は飲み物だけと言っていたのに、サチが買ったものを見て追加で頼んだ。


「ミカも食うじゃん」


 リュウが言うと、ミカは当然のように答えた。


「怖いの置いてくには食べるしかない」


「なるほどな」


「秩父の女の子、胃で押し流す」


「言い方」


 サチが笑った。


「でも少し分かる」


「サチさんとはやっぱり分かり合える」


 休憩を終えて、再び車に戻る。


 ナオがエンジンをかけようとした時、ミカがふと後ろを見た。


「どうした?」


 リュウが聞く。


「いや、鈴の音がした気がして」


 車内が一瞬静かになった。


 ナオも耳を澄ませた。


 外では車が走っている。


 店の人の声も聞こえる。


 鈴の音は、聞こえなかった。


 サチが優しく言った。


「気のせいじゃない?」


「うん、たぶん」


 ミカは自分でそう言って、窓の外をもう一度見た。


 駐車場の端。


 そこに赤い髪飾りはない。


 小さな女の子の姿もない。


 ミカは少しだけ息を吐いた。


「いなかった」


「もう秩父出たからな」


 リュウが言う。


「うん」


 ナオは何も言わず、車を出した。


 聞こえた気がする音。


 見えた気がする影。


 それが実際にあったのか、心が勝手に引きずっているのか。


 旅には、そういう余韻が残ることがある。


 特に、あの町のように何かが薄く積み重なった場所を出た後には。


 青梅に近づくにつれて、道沿いの雰囲気が変わった。


 住宅が増え、店が増え、電車の駅が近い気配が出てくる。


 それでも、背後には山がある。


 東京なのに、まだ山の入口にいる。


 ミカは看板を見て、少し驚いた顔をした。


「本当に東京なんだ」


「東京だな」


 リュウが言う。


「なんか、東京に入ったら急に都会になると思ってた」


「多摩は広いからな」


 ナオが答えた。


「ここから都心へ向かうには、まだ距離がある」


 サチが窓の外を見ながら言った。


「でも、ちょっと安心感あるね。秩父の山から降りてきた感じがする」


「そうだな」


 ナオは頷いた。


 秩父の山の濃さ。


 三峯の空気。


 古い旅館の夜。


 それらと比べると、青梅の町は少し明るく感じる。


 けれど、それは完全な安心ではなかった。


 多摩には多摩の古い話がある。


 奥多摩には奥多摩の山がある。


 青梅には古い街道と町の気配がある。


 東京の顔をしながら、山の記憶を持っている場所。


 ナオには、そこが面白かった。


「今日は青梅あたりで泊まる?」


 サチが聞いた。


「そのつもり。奥多摩まで行くかは、時間を見て決める」


「温泉は?」


「探せばある」


「ご飯は?」


「ある」


「じゃあ大丈夫」


 ミカが後ろから言う。


「サチさん、判断が私と近くなってきた」


「旅に必要なものは決まってるからね」


「温泉、ご飯、怖すぎない場所」


「最後だけミカちゃん寄りだね」


 リュウが笑う。


「俺は酒も入れたい」


「リュウさんはそうだよね」


 青梅の町へ入った時、ナオは少しだけ車をゆっくり走らせた。


 古い建物が残る通り。


 駅の近くの賑わい。


 山へ向かう道。


 すぐ先に、奥多摩へ続く気配がある。


 ここから東京編が始まる。


 しかし、まだ都心の都市伝説には行かない。


 まずは多摩の山と町。


 秩父の余韻を引きずったまま、次の土地へ入る。


 それが自然だった。


 夕方になる前に、4人は青梅周辺の宿を取った。


 古い旅館ではなく、少し落ち着いた民宿のような宿だった。


 建物は新しくはないが、秩父の宿ほど床は鳴らない。


 ミカは部屋に入るなり、足で畳を軽く踏んだ。


「鳴らない」


 リュウが笑う。


「確認するな」


「大事だよ」


 サチも笑った。


「今日は安心して寝られそう?」


「まだ分かんない」


「まだ?」


「ナオさんが夜にどこ行くって言うか分かんないし」


 ナオは荷物を置きながら答えた。


「今日は夜に出ない」


 ミカがすぐ顔を上げる。


「本当?」


「本当」


「絶対?」


「絶対」


「助かった」


 リュウが窓の外を見ながら言った。


「まあ、今日は移動日だったしな」


「秩父から多摩まで来たからな」


 ナオは窓を開けた。


 外には、青梅の町の空気があった。


 山はまだ近い。


 けれど、秩父とは違う。


 どこか街道の匂いがする。


 人が山へ入り、山から町へ戻り、町からまた都心へ向かう。


 そういう境目の場所。


 サチが隣に来た。


「ナオくん、次はここ?」


「ここから東京へ入っていく」


「奥多摩から?」


「たぶんな。山の東京を少し見てから、都心へ行く」


「いいね。いきなり新宿とか行くより自然かも」


「そう思う」


 ミカが後ろで布団に転がりながら言った。


「新宿とかの方が明るくて安心じゃない?」


 リュウがすぐ返す。


「でも都市伝説は多そうだぞ」


「それはそれで嫌」


「どこならいいんだよ」


「温泉街」


「結局そこか」


 夜、4人は近くの店で夕飯を取った。


 リュウとミカは軽く飲み、ナオとサチはしっかり食べた。


 秩父の話は何度も出た。


 赤い髪飾りの女の子の話も出た。


 けれど、昨日ほど重くはならなかった。


 場所が変わると、怖さの形も変わる。


 店の明かり。


 人の声。


 皿の音。


 そういうものが、あの鈴の音を少しだけ遠ざけていた。


 宿に戻った後、ミカは窓を少し開けて外を見た。


「鈴、聞こえないね」


「聞こえないな」


 リュウが答えた。


「よかった」


「寂しくはないのか?」


「ない」


 即答だった。


 サチが笑う。


「でも、ミカちゃん、最後にちょっと寂しいって言ってたよね」


「あれは、ちょっとだけ」


「今は?」


「今は安心が勝ってる」


 ナオは部屋の隅でタブレットを開いた。


 地図。


 青梅。


 奥多摩。


 御岳山。


 奥多摩湖。


 青梅街道。


 多摩川。


 次に向かう場所はいくつもある。


 山の伝承。


 古い街道の話。


 湖の噂。


 橋やトンネルの話。


 ナオはページをめくり、次の候補を見た。


 サチが覗き込む。


「次、決まった?」


「まだ」


「でも楽しそうな顔してる」


「そうか?」


「してる」


 ミカが布団の上から言った。


「怖すぎないやつでお願い」


「怖さ控えめの候補もある」


「本当に?」


「本当に」


「ナオさんの本当、半分信じる」


「半分か」


 リュウが笑った。


「だいぶ信頼度戻ったな」


「秩父で一回下がったからね」


 夜が更けていく。


 青梅の宿は静かだった。


 廊下は鳴らない。


 鈴の音もしない。


 窓の外には、秩父とは違う山の影がある。


 ナオは布団に入る前に、もう一度だけ外を見た。


 赤い髪飾りはない。


 小さな鈴もない。


 秩父の女の子は、あの町に残った。


 そう思いたかった。


 けれど、完全に消えたとも思えなかった。


 旅の中で出会ったものは、場所を離れても少しだけついてくる。


 思い出として。


 音として。


 あるいは、次の場所を見る目として。


 ナオは静かに窓を閉めた。


 明日は、多摩の山を見る。


 そして少しずつ、東京へ入っていく。


 川口から始まった旅は、秩父を越え、今度は東京の西の端へ来た。


 次の場所は、もう目の前にあった。

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