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あの場所へ  作者: ナオ
10/17

10話 青梅の路地で

 青梅の朝は、秩父の朝とは少し違っていた。


 山は近い。


 けれど、町の空気にはどこか東京の端という感じがあった。


 古い街道の名残と、生活の気配と、少しだけ観光地の匂い。


 ナオは宿の窓を開け、外を見ていた。


 昨日の夜は何も起きなかった。


 廊下は鳴らず、鈴の音もしなかった。


 ミカはそれだけで安心したらしく、朝から少し機嫌が良かった。


「ナオさん、今日は怖すぎないやつだよね?」


 朝食の席で、ミカが念を押すように聞いた。


「今日は青梅の町を歩く」


「町なら大丈夫」


「町にもいろいろあるぞ」


 リュウが言うと、ミカがすぐに睨んだ。


「リュウさん、そういうの本当にいらない」


「いや、青梅って古い町だろ。映画看板とか、昭和っぽい雰囲気があるって聞いたことある」


「そういう話ならいい」


 サチが味噌汁を飲みながら言った。


「今日はちょっと普通に観光したいね」


「青梅は普通に歩いても面白いと思う」


 ナオは頷いた。


「青梅街道もあるし、多摩川も近い。山へ入る前の町って感じがいい」


「で、怖い話は?」


 ミカが警戒する。


 ナオは少しだけ考えた。


「今日は、町にある古い道の話くらいかな」


「古い道?」


「昔の街道や裏路地には、今の地図に載ってないような抜け道や、いつの間にか使われなくなった道がある」


 ミカは箸を止めた。


「ナオさん、それもうちょっと怖いやつじゃん」


「まだ怖くない」


「まだ、って言った」


「言ったな」


 リュウが笑う。


「今日は面白くなりそうだな」


「リュウさんはすぐそっちに行く」


「昨日何もなかったしな」


「何もない日も大事って言ってたじゃん」


「でも、そろそろ何か欲しいだろ」


 ミカは少し黙ったあと、悔しそうに言った。


「……ちょっとだけ分かる」


 サチが笑う。


「ミカちゃんも染まってきた」


「違う、怖いのは嫌。でも、何もなさすぎると、それはそれでナオさんの旅っぽくないなって思っただけ」


「それを染まってるって言うんだよ」


 リュウが言うと、ミカは箸で小皿を軽くつついた。


「うるさいな」


 朝食を終えると、4人は青梅の町へ出た。


 駅周辺には、古い建物と新しい店が混ざっていた。


 看板、細い路地、商店街の入口。


 秩父の山に囲まれた感じとは違い、青梅にはどこか街道沿いの町らしい横への広がりがあった。


 歩けば、古いものと今の生活がすぐ隣にある。


 サチは通りの建物を見ながら言った。


「なんか懐かしい感じするね」


「昭和っぽい雰囲気が残ってる場所もあるからな」


 ナオが答える。


「古い映画看板とかも有名だったし、町そのものに少しレトロな印象がある」


「それはいいね」


 ミカも少し安心したように言った。


「こういう町歩き好き」


「安全寄りか?」


 リュウが聞く。


「今のところ安全寄り」


「今のところな」


「余計なこと言わない」


 4人は古い商店街を歩き、店を覗き、途中で菓子を買った。


 ナオとサチは相変わらずよく食べた。


 ミカもそれにつられ、リュウは少し早い時間から飲める店を探していたが、まだ開いていなかった。


「リュウさん、朝から探さないで」


「探してるだけだろ」


「探す時点で飲む気あるじゃん」


「旅だからな」


「その言い訳、ナオさんの旅だから食べると同じくらい便利」


 サチが笑う。


「私たちは食べる担当だから」


「私は怖がる担当から卒業したい」


「無理だろ」


 リュウが即答した。


「リュウさん、早い」


 町歩きは穏やかだった。


 それなのに、ナオは途中から少しだけ気になるものを見つけていた。


 古い案内板だ。


 商店街の脇、細い路地の入口に、錆びた金属の案内板が立っていた。


 表面はかなり古く、文字もところどころ薄れている。


 けれど、そこには手書きのような矢印と、かすれた文字があった。


 ――旧多摩道。


 ナオは足を止めた。


 サチも気づいて振り返る。


「ナオくん?」


「ちょっと見てた」


「何?」


「旧多摩道って書いてある」


 リュウが近づいて、案内板を覗いた。


「古いな」


「かなり古い」


 ミカも少し離れた場所から見た。


「その路地に入るの?」


「少しだけ」


「ナオさん、少しだけって言う時だいたい長い」


「今日は本当に少しだけだ」


「信じていい?」


「昼だしな」


「昼でも嫌な路地は嫌だよ」


 路地は細かった。


 人が2人並ぶには少し狭い。


 奥には古い家と、低い石垣が見える。


 観光地として整えられた道ではない。


 生活道路のようで、でも何かが少し古い。


 リュウが先を見ながら言った。


「本当に入っていい道か?」


「私道っぽかったら戻る」


 ナオはそう言って、ゆっくり歩き始めた。


 4人は路地に入った。


 大通りの音が一気に遠くなる。


 さっきまで聞こえていた車の音や店の声が、曲がり角ひとつで薄くなった。


 代わりに、足元の砂利の音が聞こえる。


 じゃり。


 じゃり。


 ミカはすぐにリュウの近くへ寄った。


「ねえ、急に静かじゃない?」


「路地だからな」


「昨日からリュウさんの説明、全部それで済ませてるよね」


「実際そうだろ」


 サチは低い石垣に手を触れないようにしながら歩いた。


「でも、雰囲気あるね」


「昔の道の名残かもしれないな」


 ナオは前を見ながら答えた。


「地図上では普通の路地でも、昔は別の使われ方をしていた道ってある」


「ナオくん、楽しそう」


「こういうのは好きだな」


 路地は思ったより長かった。


 曲がって、また細くなり、古い民家の間を抜けていく。


 突き当たりかと思うと、左へ折れる道があった。


 そこにも、小さな案内板が立っていた。


 さっきより小さい。


 木製で、文字はほとんど消えている。


 ただ、矢印だけが残っていた。


 奥へ。


 リュウが眉をひそめる。


「これ、誰が立てたんだ?」


「古い観光案内か、地元の案内か」


 ナオは近づいた。


 矢印の下に、かすかな文字が見える。


 ――戻り道。


 ミカがそれを読んで、固まった。


「戻り道?」


「そう書いてあるな」


「いや、戻るなら逆じゃない?」


 サチも首を傾げた。


「奥に進む矢印なのに、戻り道って変だね」


 リュウは軽く笑おうとして、うまく笑えなかった。


「昔の案内だから、向きが変わったんじゃないか?」


「そういうこともある」


 ナオは答えたが、自分でも少し引っかかっていた。


 奥へ進む矢印。


 戻り道という文字。


 道に関する違和感は、妙に気になる。


 ミカが小さく言った。


「これ、戻った方がいいやつじゃない?」


「もう少しだけ見る」


「出た、もう少しだけ」


「私も少し気になる」


 サチが言うと、ミカは驚いたように見た。


「サチさんまで?」


「昼だし、人の家の敷地じゃなさそうだし、少しだけなら」


「みんなナオさん側に行きすぎ」


 リュウが肩をすくめた。


「俺は正直、ちょっと気になってる」


「リュウさんもか」


「まあ、戻り道って言われたらな」


「それ絶対変な方向に好奇心出てるじゃん」


 4人はさらに奥へ進んだ。


 路地はゆるやかに下っているように感じた。


 不思議なことに、来た時よりも町の音が遠い。


 まだ昼なのに、空が少し狭く見える。


 家の壁が近く、木の枝が路地の上に伸びているせいか、薄暗かった。


 やがて、古い階段が現れた。


 石段。


 幅は狭い。


 上ではなく、下へ続いている。


 ミカが完全に足を止めた。


「無理」


「まだ何も言ってない」


 ナオが言うと、ミカは首を振った。


「階段を下りるのは無理。路地の奥で下りる階段は無理」


 リュウも階段を見下ろした。


「これはちょっとな」


「だろ?」


 ミカが言った。


「リュウさんが同意すると本当に怖い」


 サチも少し不安そうに階段を見ていた。


「ここ、どこに出るんだろう」


「地図を見る」


 ナオはスマホを出した。


 地図アプリを開く。


 現在地は、青梅の町の中を示している。


 だが、路地の形はきちんと表示されていなかった。


 細い道はある。


 でも、今立っている階段は載っていない。


「載ってないの?」


 サチが聞く。


「少なくとも、はっきりとは出ていない」


「それ、嫌なやつじゃん」


 ミカが言った。


「じゃあ戻るか」


 リュウが提案した。


 その瞬間だった。


 下の階段の奥から、声が聞こえた。


「すみません」


 4人は同時にそちらを見た。


 女の声だった。


 若いようにも、年配のようにも聞こえる。


 階段の下は薄暗く、途中で曲がっていて、その先は見えない。


 ミカがリュウの腕をつかんだ。


「今の、聞こえたよね」


「聞こえた」


 リュウの声は固い。


 サチもナオを見る。


「人、いる?」


 ナオは階段の下へ向かって声をかけた。


「どうかしましたか?」


 返事はすぐにあった。


「道が、分からなくなって」


 声は下から聞こえる。


 けれど、姿は見えない。


 ナオは少し考えた。


 助けを求める声なら、無視するのは違う。


 でも、今の状況はあまりにも変だった。


 昼間の町中。


 地図にない階段。


 戻り道と書かれた案内板。


 その下から聞こえる、道に迷ったという声。


 ミカが小声で言う。


「ナオさん、行かないでよ」


「確認だけする」


「それが怖いんだって」


 リュウがナオの横に来た。


「俺も行く」


「リュウさん」


 ミカが不安そうに言う。


「下まで行くとは言ってない。見えるところまで」


 サチもナオの袖を軽く引いた。


「無理しないでね」


「ああ」


 ナオとリュウは数段だけ階段を下りた。


 石段は少し湿っていた。


 足元に苔がある。


 昼なのに、そこだけ空気が冷たい。


 曲がり角の先を覗く。


 誰もいない。


 さらに下へ続く石段があるだけだった。


 ナオはもう一度声をかけた。


「どこにいますか?」


 返事はなかった。


 リュウが眉をひそめる。


「おい」


 その時、階段の下の方から、かすかに足音がした。


 とん。


 とん。


 軽い足音。


 人が階段を下りていく音のようだった。


 しかし、姿は見えない。


 ナオは動かなかった。


 リュウも息を殺している。


 上からミカの声がした。


「ナオさん、戻って」


 ナオは階段の下を見たまま、少しだけ迷った。


 声は助けを求めていた。


 だが、今は追うべきではない。


 秩父の女の子の時と同じだった。


 追いかけてはいけないものがある。


「戻る」


 ナオが言うと、リュウはすぐ頷いた。


「それがいい」


 2人は階段を上がった。


 ミカは本当にほっとした顔をした。


「戻ってきた」


「戻るって言っただろ」


「ナオさんの確認だけする、は信用できない時ある」


 サチが階段の下を見ながら言った。


「でも、声は聞こえたよね」


「ああ」


 リュウが答えた。


「聞こえた」


「姿は?」


「見えなかった」


 ミカは顔をこわばらせた。


「もう戻ろう。絶対戻ろう」


 ナオも頷いた。


「戻る」


 4人は来た道を引き返した。


 はずだった。


 しかし、曲がり角を戻った先に、さっきの木製案内板がなかった。


 代わりに、別の細い道が右へ伸びている。


 リュウが足を止めた。


「……ここ、来た道か?」


「違う」


 ナオはすぐに答えた。


 ミカが泣きそうな声を出した。


「やだ、そういうの本当に無理」


 サチも周囲を見回す。


「さっき案内板あったよね?」


「あった」


「ないね」


「ないな」


「ナオくん、冷静に言わないで」


 ナオはスマホを確認した。


 地図アプリは開いている。


 現在地は変わらず青梅の町中。


 だが、GPSの青い点が少しずつ揺れている。


 右へ。


 左へ。


 道が定まらない。


 リュウが舌打ちした。


「電波悪いのか?」


「町中でここまでズレるのは変だな」


「言うなよ」


「事実だ」


 ミカが後ろを見る。


「さっきの階段は?」


 振り返ると、階段もなかった。


 ただ、低い石垣と古い塀が続いているだけだった。


 4人はしばらく黙った。


 青梅の町の中。


 昼。


 まだ人の生活があるはずの場所。


 なのに、道だけが少しずつ入れ替わっているようだった。


 サチが小さく言った。


「これ、まずい?」


 ナオは深く息を吸った。


「落ち着こう」


「落ち着いてる場合?」


 ミカが言う。


「落ち着かないと余計迷う」


「それはそうだけど」


 ナオは周囲を見た。


 空は見える。


 建物もある。


 完全な山の中ではない。


 だから必ずどこかへ出る。


 問題は、どちらへ進むかだった。


 その時、遠くでまた声が聞こえた。


「こっち」


 今度は、子どもの声だった。


 ミカが固まる。


「今の」


 リュウも顔をこわばらせる。


「女の子か?」


 ナオは声の方向を見る。


 細い道の先。


 そこに、小さな影が立っていた。


 赤い髪飾り。


 ミカが息を止めた。


「嘘でしょ」


 秩父の女の子だった。


 そう見えた。


 青梅にいるはずがない。


 それなのに、細い路地の先で、赤い髪飾りが小さく揺れている。


 手には、小さな鈴。


 しゃりん。


 音がした。


 サチがナオの腕をつかむ。


「ナオくん」


 リュウが低い声で言った。


「追うのか?」


 ナオは女の子を見た。


 女の子は、こちらを見ていた。


 表情は分からない。


 でも、逃げるようには見えなかった。


 まるで、道を示しているように見えた。


 ミカが震える声で言った。


「今まで追わなかったじゃん」


「ああ」


「今回も追わないよね?」


 ナオはすぐには答えなかった。


 今までの女の子は、ただ現れて消えた。


 でも今は違う。


 こちらが迷っている。


 そしてあの子は、こっち、と言った。


 ナオは静かに言った。


「追うんじゃない」


「じゃあ何?」


「道を借りる」


 ミカは口を開けたまま固まった。


「それ、絶対ナオさんしか言わない」


 リュウが息を吐く。


「俺は反対したいけど、他に道が分からないのも事実だな」


 サチは少し迷ってから頷いた。


「ゆっくり行こう。変だと思ったら止まろう」


 ナオは女の子の方へ歩き出した。


 4人は距離を取りながら、その赤い髪飾りを追った。


 女の子は走らない。


 歩いているようにも見えない。


 気づくと少し先にいる。


 角を曲がるたび、そこにいる。


 鈴の音だけが、細い路地に小さく響いた。


 しゃりん。


 しゃりん。


 道はいつの間にか少し明るくなっていた。


 町の音が戻ってくる。


 車の音。


 自転車のブレーキ音。


 誰かの話し声。


 細い路地を抜けると、4人は見覚えのある通りに出た。


 さっき歩いていた商店街の裏だった。


 ミカが立ち止まり、大きく息を吐いた。


「出た」


 リュウも周囲を見回す。


「戻ってきたな」


 サチは振り返った。


 路地の奥に、女の子が立っていた。


 赤い髪飾り。


 小さな鈴。


 秩父で見た姿のまま。


 けれど、次の瞬間、通行人が前を横切る。


 その人が通り過ぎると、女の子はいなかった。


 ミカは言葉を失っていた。


 リュウも黙っている。


 ナオは、女の子がいた場所を見ていた。


 サチが小さく言う。


「あの子、助けてくれたのかな」


「分からない」


 ナオは答えた。


 けれど、今までとは少し違った。


 分からない。


 でも、悪意ではなかった。


 少なくとも今は、そう思えた。


 ミカが震えた声で言った。


「ついてきてるじゃん」


 誰も否定できなかった。


 リュウはようやく口を開いた。


「でも、出られた」


「そうだけど」


「怖いけど、出られた」


「リュウさん、それ励ましてる?」


「半分な」


「残り半分は?」


「俺も怖い」


「よし」


 ミカは少しだけ笑った。


 その笑いで、固まっていた空気がほんの少しほどけた。


 ナオは路地の入口をもう一度見た。


 そこには、古い案内板が立っていた。


 最初に見たものとは違う。


 錆びた金属板ではなく、小さな木製の札。


 文字はかすれている。


 けれど、今度は読めた。


 ――帰り道。


 ナオはその文字を見て、しばらく黙った。


 リュウが気づく。


「何だ?」


「帰り道、って書いてある」


 ミカが顔をしかめる。


「もうやめて、今日は本当にもうやめて」


 サチも小さく息を吐いた。


「戻り道じゃなくて、帰り道」


「そうだな」


 ナオは頷いた。


 戻る道ではなく、帰る道。


 それが何を意味するのかは分からない。


 けれど、さっき彼らは確かに帰ってきた。


 商店街の表へ。


 人のいる場所へ。


 昼の青梅へ。


 リュウが言った。


「今日はもう路地なしだな」


「賛成」


 ミカが即答した。


「ナオさんもいい?」


「いい」


「本当に?」


「本当に」


「助かった」


 4人は近くの店に入った。


 とにかく座りたかった。


 温かい飲み物を頼み、少し遅めの昼食も取ることにした。


 ナオとサチは普通に食べた。


 リュウも食べた。


 ミカは最初手が止まっていたが、途中からしっかり食べ始めた。


「ミカ、食えてるな」


 リュウが言う。


「怖かったから食べる」


「便利だな」


「今日は本当に怖かったから」


「それは認める」


 サチは飲み物を両手で持ちながら言った。


「秩父の子、青梅まで来たね」


 ミカがすぐに顔を上げる。


「言っちゃった」


「言わない方がよかった?」


「いや、もう言わないと無理」


 リュウは腕を組んだ。


「ついてきてるのか、あの路地だけで見えたのか」


「それ、違うの?」


「分からん」


「リュウさんもナオさん化してる」


 ナオは静かに言った。


「あの子が何なのかは分からない。でも、今はただ怖がるだけじゃ違う気がする」


 ミカが少し不満そうに見る。


「怖いものは怖いよ」


「それはそうだ」


「でも、助けてくれたかもしれない」


「そうだな」


「じゃあ、どうすればいいの?」


 ナオは少し考えた。


「今まで通り、追わない。でも、見えたら無視もしない」


 サチが頷いた。


「それがいいかも」


 リュウは苦笑した。


「だいぶ変な旅になってきたな」


「最初から変な旅だろ」


 ナオが言うと、リュウは少し笑った。


「まあな」


 夕方まで、4人は青梅の表通りだけを歩いた。


 路地には入らなかった。


 古い建物を見て、店を覗き、川の方へ少し歩く。


 多摩川の流れが見えた時、ミカは少し安心したように息を吐いた。


「水の音は、今日は普通に聞こえる」


「外環の井戸と比べるなよ」


 リュウが言う。


「比べるよ、あれから水音もちょっと怖いもん」


 サチが川を見ながら言った。


「でも、川はいいね」


「うん」


 ナオも川を見た。


 多摩川。


 東京の西から都心へ、そして海へ向かう川。


 これからの旅は、この川の流れとどこかで重なるかもしれない。


 山から町へ。


 町から都市へ。


 都市から海へ。


 青梅は、その入り口だった。


 夜になる前に宿へ戻った。


 ミカは部屋に入るなり言った。


「今日はもう外出ない」


「出ない」


 ナオが答える。


「路地も入らない」


「入らない」


「赤い髪飾りの子を探さない」


「探さない」


「よし」


 リュウが笑った。


「ミカ、条件が増えてるぞ」


「必要だから」


 サチは荷物を置きながら、少しだけ窓の外を見た。


「でも、あの子がいなかったら、出られなかったのかな」


「別の道でも出られたかもしれない」


 ナオが答える。


「でも、あの時はあの子の方へ行って出られた」


「そうだね」


 サチは少し考え込んだ。


「怖いけど、悪い子じゃないのかも」


 ミカは布団の上で膝を抱えた。


「悪くないなら、もうちょっと普通に出てきてほしい」


「普通に出てきたら、それはそれで怖いだろ」


 リュウが言う。


「確かに」


 夜は静かだった。


 青梅の宿の廊下は鳴らない。


 鈴の音もしない。


 外から車の音と、遠くの川の気配が少し聞こえるだけだった。


 ナオはタブレットを開き、今日の場所をメモした。


 青梅の路地。


 旧多摩道。


 戻り道。


 帰り道。


 女の声。


 赤い髪飾りの女の子。


 分かったことは少ない。


 けれど、今日の出来事は明らかに今までと違っていた。


 秩父で見たものが、秩父を出ても現れた。


 しかも、ただ見えるだけではなく、道を示した。


 ミカが布団の中から言った。


「ナオさん」


「うん」


「あの子、名前とかあるのかな」


「分からない」


「だよね」


「でも、名前があるなら、いつか分かるかもしれない」


「それ、また出る前提じゃん」


「出るかもしれない」


「やだなあ」


 ミカはそう言ったが、声には昨日までとは違う響きがあった。


 怖い。


 でも、ただ怖いだけではない。


 その変化は、ナオにも分かった。


 リュウが天井を見ながら言った。


「赤い髪飾りって呼ぶか」


「そのまますぎる」


 ミカが言う。


「じゃあ鈴の子」


 サチが言った。


 部屋が少し静かになった。


 鈴の子。


 名前ではない。


 けれど、呼び名としては妙にしっくりきた。


 ナオは小さく頷いた。


「鈴の子、か」


「勝手に呼んでいいのかな」


 サチが少し心配そうに言う。


「呼ばなきゃ話せないだろ」


 リュウが答えた。


「それもそうだね」


 ミカは布団の中で丸まりながら言った。


「じゃあ、鈴の子。怖いけど、今日だけはありがとう」


 誰も笑わなかった。


 窓の外で、風が少しだけ吹いた。


 その時。


 遠くで、本当に遠くで。


 しゃりん。


 小さな鈴の音がした。


 ミカが布団の中で固まる。


 リュウが上半身を起こす。


 サチがナオを見る。


 ナオは窓の外を見た。


 暗い青梅の町。


 その向こうに、山の影。


 鈴の音は、それきり聞こえなかった。


 ミカが小さく言った。


「今の、返事?」


 ナオは答えなかった。


 分からない。


 でも、そうかもしれない。


 そう思ってしまった。


 旅は、また少しだけ形を変えた。


 場所を巡る旅から、何かに導かれる旅へ。


 ナオはそのことを、まだ誰にも言わなかった。


 ただ、タブレットのメモに短く書き足した。


 ――鈴の子。


 その文字を見て、ナオは静かに画面を閉じた。


10話お願い


改めて第10話として、青梅で“鈴の子”がただの目撃から一段進む回にします。旅情は残しつつ、ここで読者が「この子、秩父だけじゃ終わらないんだ」と分かる展開にします。


思考時間: 12s

あの場所へ

第10話 青梅の迷い道


 青梅の朝は、秩父よりも少しだけ軽かった。


 山は近い。


 けれど、秩父のように町全体が山に包まれている感じではない。


 古い街道の気配と、生活の音と、東京の端にいるという不思議な感覚が混ざっていた。


 ナオは宿の窓を少し開けて、外を見ていた。


 遠くに山がある。


 近くに町がある。


 その間を、車が普通に走っていく。


 昨夜、鈴の音は一度だけ聞こえた。


 ミカが「返事?」と言った音。


 サチが「鈴の子」と呼んだ直後に、遠くで小さく鳴った音。


 秩父を出たはずなのに、あの子は消えていなかった。


 そう思うには、十分すぎる音だった。


 朝食の席で、ミカはパンを持ったまま、少し眠そうに言った。


「ナオさん、今日は絶対に路地入らないよね?」


「まだ何も言ってない」


「言ってないのが怖い」


 リュウがコーヒーを飲みながら笑う。


「ミカ、先回りしすぎだろ」


「この旅、先回りして警戒しないと危ないんだよ」


「だいぶ学習したな」


「青梅の路地とか、古い道とか、そういう言葉が出たら私は止めるから」


 サチが笑った。


「ミカちゃん、今日は普通に町歩きしたいね」


「そう、それ。普通の町歩き。お店見て、ご飯食べて、できれば温泉かお風呂」


「温泉は後で探そう」


 ナオが答えると、ミカは少しだけ安心した顔をした。


「じゃあ、今日は安全寄り?」


「安全寄りにはしたい」


「したい、なんだ」


「町を歩く以上、何があるかは分からない」


「ナオさん、そういう正直さ今いらない」


 リュウが窓の外を見た。


「でも、青梅って普通に面白そうだな。昭和っぽい看板とか、古い商店街とか」


「うん」


 ナオは頷いた。


「青梅街道、多摩川、古い町並み。奥多摩へ入る前の町として見ると、かなり面白い」


 サチが少し楽しそうに言った。


「昨日は移動が多かったし、今日は歩きたいかも」


「歩くのは賛成」


 ミカがすぐに言った。


「ただし、細い暗い道は却下」


「昼だぞ」


 リュウが言う。


「昼でも嫌な道は嫌」


 宿を出ると、青梅の町はすでに動き始めていた。


 商店街には、古い店と新しい店が混ざっている。


 看板の文字。


 シャッターの絵。


 少し年季の入った建物。


 観光地として作り込まれすぎていない、生活のある古さがあった。


 サチは通りを眺めながら言った。


「こういう町、好きだな」


「落ち着くよね」


 ミカも少し表情を緩めた。


「秩父も良かったけど、青梅はちょっと軽い感じがする」


「山が近いけど、町の空気が強いからな」


 ナオが答える。


「ここから奥多摩へ行けば、また山の感じが強くなる」


「今日は奥多摩まで行くの?」


「まだ決めてない」


「決めてないの怖い」


 リュウが笑う。


「ミカ、今日は何でも怖がるな」


「昨日から鈴の子がついてきてるかもしれないのに、普通にできる方がおかしいでしょ」


 その名前が出ると、少しだけ空気が変わった。


 鈴の子。


 赤い髪飾りの女の子。


 秩父神社で見て、番場通りで見て、三峯で見て、青梅でも鈴の音だけが聞こえた。


 名前をつけたことで、存在が少しだけ近くなった気がした。


 サチは静かに言った。


「でも、昨日の感じだと悪い子じゃなさそうだった」


「助けてくれたかもしれないしな」


 リュウが言う。


 ミカは小さく首を振った。


「助けてくれたとしても、怖いものは怖い」


「それはそう」


 ナオは通りを歩きながら、周囲を見ていた。


 青梅の町には、古いものが少しずつ残っている。


 今の店の隣に、昔の名残。


 看板の下に、古い柱。


 人の生活の裏に、使われなくなった小さな道。


 そういう場所は、ただ歩いているだけでも気配がある。


 4人はしばらく商店街を歩いた。


 サチは菓子を買い、ミカは雑貨の店を覗き、リュウは早くも飲めそうな店の気配を探していた。


 ナオはその少し後ろを歩き、細い路地の入口にある古い案内板に目を留めた。


 錆びた金属の板。


 文字はかすれている。


 そこには、手書きのような矢印と、薄くなった文字があった。


 旧多摩道。


 ナオの足が止まった。


 サチがすぐに気づく。


「ナオくん?」


「この案内板」


 リュウも近づいた。


「古いな」


「旧多摩道って書いてある」


 ミカは少し離れたところから、嫌そうに目を細めた。


「ナオさん、そこ入る顔してる」


「少しだけ見たい」


「出た」


「私道っぽかったら戻る」


「その前に、入らないって選択肢あるよ」


 サチも案内板を見た。


「でも、ちょっと気になるね」


「サチさんまで」


 ミカが両手を下げた。


「だめだ、みんな好奇心側だ」


「ミカが正しいかもしれないけどな」


 リュウが言った。


「でも俺もちょっと見たい」


「リュウさんもか」


 路地は細かった。


 人が2人並ぶには狭い。


 奥には古い家と低い石垣が見える。


 大通りの音はすぐそばにあるはずなのに、一歩入ると少しだけ遠くなった。


 じゃり。


 じゃり。


 足元の砂利が鳴る。


 ミカはリュウの横にぴったりくっついて歩いた。


「これ、普通の道だよね?」


「普通の路地だろ」


 リュウが答える。


「昨日までならその説明で終わったけど、今は信用できない」


「俺も少し信用してない」


「じゃあ戻ろうよ」


「もう少しだけ」


「みんなそれ言う」


 路地は予想より長く続いた。


 古い民家の壁。


 小さな庭。


 苔のついた石。


 それ自体は怖いものではない。


 けれど、道が曲がるたびに、大通りの音がさらに薄くなる。


 途中に、小さな木製の案内板が立っていた。


 矢印が奥を指している。


 その下に、かすれた文字があった。


 戻り道。


 ミカが声を低くした。


「戻り道?」


 サチが首を傾げる。


「奥に向かう矢印なのに?」


「変だな」


 リュウが言った。


 ナオは案内板の文字を見つめた。


 戻り道。


 矢印は、奥。


 意味が合っていない。


 あるいは、自分たちが立っている側が、すでに戻る側なのか。


「ナオさん、今すごい考えてるでしょ」


 ミカが言った。


「考えてる」


「考える前に戻ろう」


「あと少しだけ」


「その、あと少しだけ、禁止にしない?」


 ナオは答えず、先へ進んだ。


 路地は緩やかに下っているように感じた。


 空が狭い。


 左右の壁が近い。


 昼なのに、少し冷たい。


 やがて、石段が現れた。


 下へ続く階段だった。


 途中で曲がっていて、その先は見えない。


 ミカは即座に足を止めた。


「無理」


「まだ何もしてない」


「下へ行く階段は無理。細い路地の奥の下り階段は本当に無理」


 リュウも階段を見下ろして、少しだけ顔をしかめた。


「これは、俺も戻る方に1票だな」


「リュウさん、やっとこっち来た」


 サチも不安そうに階段を見た。


「ナオくん、ここはやめよう」


 ナオは頷いた。


「そうだな」


 その時だった。


 階段の下から、声がした。


「すみません」


 女の声だった。


 若いようにも、年配のようにも聞こえる。


 4人は固まった。


 ミカがリュウの袖をつかむ。


「聞こえた」


「聞こえたな」


 リュウの声も硬い。


 ナオは階段の下へ向かって声をかけた。


「どうかしましたか?」


 少し間があった。


 それから、また声がした。


「道が、分からなくなって」


 ミカは小さく首を振った。


「ナオさん、だめ」


「でも、人かもしれない」


「それが1番怖い言い方だって」


 リュウがナオの横に立った。


「俺も行く。見えるところまでだ」


 サチが静かに言った。


「無理しないで」


「ああ」


 ナオとリュウは数段だけ階段を下りた。


 石段は少し湿っていた。


 足元に苔がある。


 空気が変わる。


 曲がり角の先を覗く。


 誰もいない。


 さらに下へ続く階段があるだけだった。


 ナオはもう一度声をかけた。


「どこにいますか?」


 返事はない。


 代わりに、下の方から軽い足音が聞こえた。


 とん。


 とん。


 誰かが階段を下りていくような音。


 でも、姿は見えない。


 上からミカの声がした。


「ナオさん、戻って」


 ナオは少しだけ下を見つめた。


 声は助けを求めていた。


 だが、今は追うべきではない。


 追ってはいけないものがある。


「戻る」


 ナオが言うと、リュウはすぐ頷いた。


「それがいい」


 2人が上へ戻ると、ミカは本当にほっとした顔をした。


「よかった」


「戻るって言っただろ」


「ナオさんの確認だけする、は信用できない時ある」


 サチが階段の方を見ながら言った。


「でも、声は聞こえたよね」


「聞こえた」


 リュウが答えた。


「姿は?」


「見えなかった」


 ナオは階段を見た。


 下へ続く石段。


 曲がり角。


 湿った空気。


 ここにいると、良くない。


「戻ろう」


 4人は来た道を引き返した。


 はずだった。


 さっきの木製案内板があった場所まで戻ったつもりだった。


 だが、そこに案内板はなかった。


 代わりに、知らない細い道が右へ伸びている。


 リュウが足を止めた。


「……ここ、通ったか?」


「通ってない」


 ナオはすぐに答えた。


 ミカの声が震える。


「やだ、そういうの本当にやだ」


 サチも周囲を見回した。


「案内板、あったよね?」


「あった」


「ないね」


「ないな」


「ナオくん、冷静に言わないで」


 ナオはスマホを出した。


 地図アプリを開く。


 現在地は青梅の町中を示している。


 だが、青い点が定まらない。


 右へ。


 左へ。


 少しずつ揺れている。


 リュウが舌打ちした。


「電波悪いのか?」


「町中でここまでズレるのは変だな」


「言うなよ」


 ミカが後ろを振り返った。


「階段は?」


 階段も消えていた。


 そこには低い石垣と古い塀が続いているだけだった。


 完全に違う道だった。


 昼間の町中。


 数分歩いただけの路地。


 それなのに、4人は道を見失っていた。


「落ち着こう」


 ナオは静かに言った。


「落ち着ける状況じゃないよ」


 ミカが言う。


「落ち着かないと余計迷う」


「それはそうだけど」


 ナオは周囲を見た。


 空は見える。


 建物もある。


 どこかへ進めば、必ず町へ出る。


 そう思った時。


 遠くで声がした。


「こっち」


 子どもの声だった。


 4人が同時にそちらを見る。


 細い道の先に、小さな影が立っていた。


 赤い髪飾り。


 手には、小さな鈴。


 しゃりん。


 ミカが息を止めた。


「鈴の子」


 サチも声を失っていた。


 リュウは低く言った。


「青梅まで来てるのかよ」


 ナオは女の子を見た。


 秩父で何度も見た姿。


 赤い髪飾り。


 少し古い雰囲気の服。


 小さな鈴。


 けれど、今までとは違う。


 隠れているのではない。


 ただ立っているのでもない。


 こちらへ向かって、道を示しているように見えた。


 ミカが震えた声で言う。


「ナオさん、追わないよね?」


 ナオは少しだけ間を置いた。


「追うんじゃない」


「じゃあ何?」


「道を借りる」


 ミカは呆れたように口を開けた。


「そういう言い方、今ほんとナオさんすぎる」


 リュウが息を吐いた。


「でも、他に道が分からないのも事実だ」


 サチは不安そうに頷いた。


「ゆっくり行こう。変だと思ったら止まろう」


 ナオは女の子の方へ歩き出した。


 4人は距離を保ちながら、その後を進んだ。


 鈴の子は走らない。


 歩いているようにも見えない。


 気づくと少し先にいる。


 角を曲がるたび、そこに立っている。


 しゃりん。


 しゃりん。


 鈴の音が、路地の壁に小さく反射する。


 道は少しずつ明るくなった。


 遠くから車の音が戻ってくる。


 人の声。


 自転車のブレーキ。


 店の呼び込み。


 細い路地を抜けると、4人は見覚えのある通りに出た。


 さっきまで歩いていた商店街の裏側だった。


 ミカがその場で大きく息を吐いた。


「出た」


 リュウも周囲を見回す。


「戻ってきたな」


 サチは振り返った。


 路地の奥に、鈴の子が立っていた。


 赤い髪飾り。


 小さな鈴。


 表情はやはり分からない。


 しかし、こちらを見ているのだけは分かった。


 次の瞬間、通行人が前を横切った。


 その人が通り過ぎると、鈴の子はいなかった。


 ミカはしばらく何も言えなかった。


 リュウも黙っている。


 ナオは、鈴の子がいた場所を見つめていた。


 サチが小さく言った。


「あの子、助けてくれたのかな」


「分からない」


 ナオは答えた。


 けれど、今までの「分からない」とは少し違った。


 分からない。


 でも、少なくとも悪意ではなかった。


 ミカがぽつりと言った。


「怖いけど、ありがとうって言うべきなのかな」


「言ってもいいんじゃないか」


 リュウが言った。


「聞こえるか分かんないけど」


 ミカは路地の奥へ向かって、小さく言った。


「……ありがとう」


 風が少しだけ抜けた。


 しゃりん。


 遠くで、鈴が鳴った気がした。


 4人は近くの店に入った。


 とにかく座りたかった。


 温かい飲み物を頼み、昼食も取ることにした。


 ナオとサチは普通に食べた。


 リュウも食べた。


 ミカは最初手が止まっていたが、途中からしっかり食べ始めた。


「ミカ、食えるのか」


 リュウが言う。


「怖かったから食べる」


「便利だな」


「今日は本当に怖かったから」


「それは認める」


 サチはカップを両手で包みながら言った。


「秩父の子、青梅まで来たね」


 ミカはすぐ顔を上げた。


「言っちゃった」


「言わない方がよかった?」


「いや、もう言わないと無理」


 リュウは腕を組んだ。


「ついてきてるのか、あの路地だけで見えたのか」


「それ、違うの?」


「分からん」


「リュウさんもナオさん化してる」


 ナオは静かに言った。


「あの子が何なのかは分からない。でも、今はただ怖がるだけじゃ違う気がする」


 ミカは少し不満そうに見る。


「怖いものは怖いよ」


「それはそうだ」


「でも、助けてくれたかもしれない」


「そうだな」


「じゃあ、どうすればいいの?」


 ナオは少し考えた。


「今まで通り、追わない。でも、見えたら無視もしない」


 サチが頷いた。


「それがいいかも」


 リュウは苦笑した。


「だいぶ変な旅になってきたな」


「最初から変な旅だろ」


 ナオが言うと、リュウは少し笑った。


「まあな」


 夕方まで、4人は青梅の表通りだけを歩いた。


 路地には入らなかった。


 古い建物を見て、店を覗き、多摩川の方へ少し歩く。


 川の音が聞こえた時、ミカは少し安心したように息を吐いた。


「水の音は、今日は普通に聞こえる」


「外環の井戸と比べるなよ」


 リュウが言う。


「比べるよ、あれから水音もちょっと怖いもん」


 サチが川を見ながら言った。


「でも、川はいいね」


「うん」


 ナオも川を見た。


 多摩川。


 山から町へ、そして都市へ流れていく水。


 これからの旅は、この川の流れとどこかで重なるかもしれない。


 山から町へ。


 町から都市へ。


 都市から海へ。


 青梅は、その入り口だった。


 夜になる前に宿へ戻った。


 ミカは部屋に入るなり言った。


「今日はもう外出ない」


「出ない」


 ナオが答える。


「路地も入らない」


「入らない」


「鈴の子を探さない」


「探さない」


「よし」


 リュウが笑った。


「条件が増えてるぞ」


「必要だから」


 サチは荷物を置きながら、少しだけ窓の外を見た。


「あの子がいなかったら、出られなかったのかな」


「別の道でも出られたかもしれない」


 ナオが答える。


「でも、あの時はあの子の方へ行って出られた」


「そうだね」


 夜は静かだった。


 青梅の宿の廊下は鳴らない。


 外から車の音と、遠くの川の気配が少し聞こえるだけだった。


 ナオはタブレットを開き、今日のことをメモした。


 青梅の路地。


 旧多摩道。


 戻り道。


 女の声。


 消えた階段。


 鈴の子。


 帰り道。


 分かったことは少ない。


 けれど、今日の出来事は明らかに今までと違っていた。


 秩父で見たものが、秩父を出ても現れた。


 しかも、ただ見えるだけではなく、道を示した。


 サチが布団の上で言った。


「鈴の子って、名前みたいになってきたね」


「勝手に呼んでるだけだけどな」


 リュウが答える。


「でも、呼び名がないと話せない」


 ミカは布団の中で丸まりながら言った。


「鈴の子、怖いけど、今日はありがとう」


 誰も笑わなかった。


 窓の外で、風が少しだけ吹いた。


 その時。


 遠くで、本当に遠くで。


 しゃりん。


 小さな鈴の音がした。


 ミカが布団の中で固まる。


 リュウが上半身を起こす。


 サチがナオを見る。


 ナオは窓の外を見た。


 暗い青梅の町。


 その向こうに、山の影。


 鈴の音は、それきり聞こえなかった。


 ミカが小さく言った。


「今の、返事?」


 ナオは答えなかった。


 分からない。


 でも、そうかもしれない。


 旅は、また少しだけ形を変えた。


 場所を巡る旅から、何かに導かれる旅へ。


 ナオはそのことを、まだ誰にも言わなかった。


 ただ、タブレットのメモに短く書き足した。


 ――鈴の子。


 その文字を見て、ナオは静かに画面を閉じた。

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