8話 秩父を離れる朝
朝になっても、ミカは布団からなかなか出てこなかった。
古い旅館の部屋には、障子越しの白い光が差している。
廊下では、旅館の人が歩く音がしていた。
きし。
きし。
昨日ならその音だけでミカが反応していたはずだが、今朝は布団を頭の方まで引き上げて、声だけ出した。
「今日はもう山行かないよね?」
リュウが畳の上で荷物をまとめながら答える。
「昨日行っただろ」
「神社も行ったよね?」
「三峯行っただろ」
「赤い髪飾りの子も出たよね?」
「……出た、というか、見たな」
ミカが布団から少しだけ顔を出した。
「リュウさん、認め方が昨日より弱い」
「強く認めると怖いだろ」
「弱くしても怖いんだよ」
サチは窓際で髪を整えながら、小さく笑った。
「ミカちゃん、今日は秩父の町を少し歩いて、それから移動するんだよね?」
「移動?」
ミカがようやく上半身を起こした。
「どこ行くの?」
ナオはタブレットを閉じた。
「今日はまだはっきり決めてない。ただ、秩父は今日で一度離れる」
「本当に?」
「ああ」
ミカの表情が少しだけ明るくなった。
「じゃあ、あの子もここまで?」
「それは分からない」
「ナオさん、そこは嘘でもここまでって言ってよ」
「嘘はよくないだろ」
「こういう時は優しい嘘がいるんだよ」
リュウが苦笑した。
「ナオにそれ求めるのは難しいな」
「分かってるけどさ」
昨夜、旅館の廊下で聞こえた鈴の音。
小さな足音。
きしむ床。
誰もそれを確かめに行かなかった。
ナオは今でも、その判断でよかったと思っていた。
追えば、何かが分かったかもしれない。
だが、夜の古い旅館で、小さな足音を追う大人4人というのは、どう考えてもまともではない。
分からないものを、分からないままにしておく。
この旅では、それも必要だった。
朝食の席で、女将が味噌汁を置きながら言った。
「今日はお発ちですか?」
ナオが頷く。
「はい、午前中に少し町を見てから、次へ向かおうと思っています」
「そうですか。秩父は歩くと、また違って見えますからね」
女将は穏やかに笑った。
サチが聞いた。
「夜祭の時は、この辺りも賑やかになるんですか?」
「ええ、とても。普段は静かな町ですけど、あの時ばかりは夜まで人も音も絶えません」
ミカの箸が一瞬止まる。
「音……」
リュウが小声で言う。
「今のは普通の話だろ」
「分かってる」
女将は気づいていない様子で続けた。
「昔は、遠くの方からでもお囃子が聞こえましてね。子どもの頃は、その音だけで落ち着かなかったものです」
ナオは少し顔を上げた。
「子どもの頃から、この辺りに?」
「ええ。生まれも育ちもこの町です」
「夜祭の時、子どもが鈴を持って歩くようなことはありますか?」
その問いに、女将は少し考えた。
「鈴ですか。祭りの飾りや、お守りで鈴を持つ子はいたかもしれませんね。昔は今より、子どもも夜遅くまで町にいましたから」
ミカがナオを見る。
ナオはそれ以上聞かなかった。
女将はただ、懐かしそうに言った。
「祭りの日は、子どもにとって特別でした。夜なのに外にいられるでしょう。親に手を引かれていても、心だけ先に行ってしまうような」
サチが静かに頷いた。
「分かる気がします」
女将は微笑んで、部屋を出ていった。
残された4人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。
最初に口を開いたのはミカだった。
「今の、ちょっと嫌だった」
「普通の思い出話だろ」
リュウが言う。
「分かってるけど、昨日の後に聞くとさ」
「まあ、タイミングはな」
サチが味噌汁を手に取りながら言った。
「でも、あの女の子が悪いものって感じはしないんだよね」
ミカは少し驚いたように見た。
「サチさん、怖くないの?」
「怖いよ。でも、なんか、ただ立ってるだけに見える」
「それが怖いんだけど」
「うん、それも分かる」
ナオはご飯を食べながら、昨夜の鈴の音を思い出していた。
赤い髪飾り。
小さな鈴。
秩父神社。
番場通り。
三峯の木陰。
夜の路地。
旅館の廊下。
もしあの子が何かを伝えたいのだとして、それが何なのかは分からない。
ただ、追いかけてはいけない気がした。
こちらから暴くものではない。
そんな気がした。
旅館を出る時、女将は玄関先まで見送ってくれた。
「また秩父へいらしてくださいね」
「はい」
ナオが頭を下げる。
サチも笑顔で言った。
「ご飯、美味しかったです」
「ありがとうございます」
ミカは少しだけ旅館の廊下を振り返った。
昨日の夜、小さな足音が通った場所。
今は朝の光が差し込んでいて、ただ古い床が続いているだけだった。
「ミカ、行くぞ」
リュウが声をかける。
「うん」
ミカは小さく頷いて、外へ出た。
秩父の町は、朝の空気の中で穏やかだった。
昨日より少し雲がある。
山の輪郭はやわらかく、町の音も落ち着いている。
4人は荷物を車に置き、最後にもう少しだけ市街を歩くことにした。
番場通りへ向かう途中、サチが言った。
「秩父、もう少しいたい気もするね」
「また来ればいい」
ナオが答える。
「夜祭の時?」
「それもいいな」
リュウがすぐに反応した。
「冬に来るなら、酒と温かいものが必要だな」
ミカが言う。
「あと、怖くない宿」
「昨日の旅館も悪くなかっただろ」
「悪くなかったよ。でも夜に鈴が鳴らない宿がいい」
「それは条件として難しいな」
「難しくないでしょ」
ナオは町を見ながら歩いた。
昨日も歩いた道なのに、朝になると違って見える。
店の人が準備をしている。
観光客が少しずつ増えている。
昨日の夜、赤い髪飾りの女の子が立っていた路地の前を通る。
ミカは足を少し遅くした。
「ここだよね」
「昨日の?」
サチが聞く。
「うん」
リュウは路地の奥を見た。
何もない。
細い道。
室外機。
古い壁。
朝の光が少しだけ入っている。
「普通だな」
リュウが言う。
「普通なのが逆に嫌」
ミカが小さく返す。
ナオも路地を見た。
そこには誰もいない。
鈴の音もしない。
ただ、昨夜あの子が立っていたという記憶だけが、道の端に薄く残っているような気がした。
サチがそっと言った。
「行こう」
4人は路地の前を離れた。
午前中の番場通りは、昨日より明るかった。
店を覗き、土産を少し買い足し、ナオとサチは軽く食べるものを探した。
リュウは呆れたように笑った。
「朝飯食ったばっかだぞ」
「軽く」
サチが答える。
「サチさんの軽くは信用できるのか?」
「できるよ、たぶん」
「たぶんか」
ミカも少し笑った。
「でも食べてる方が安心する」
「ミカちゃんも食べる?」
「食べる」
「ほら」
リュウが肩をすくめた。
「結局みんな食うのか」
明るい町の中で、少しずつ昨夜の怖さが薄れていった。
あの子のことも、鈴の音も、旅館の廊下も。
完全に消えるわけではない。
けれど、朝の匂いや湯気や人の声に包まれると、少し遠くなる。
ナオはそれでいいと思った。
怖さだけを大事にすると、旅は続かない。
楽しい時間も、うまい飯も、くだらない会話も、同じくらい必要だった。
秩父神社の前をもう一度通った。
今日は中までは入らない。
鳥居の前で、サチが足を止めた。
「昨日、ここで最初に見たんだよね」
「赤い髪飾りの子?」
ミカが聞く。
「うん」
鳥居の向こうには、参拝客が何人か見える。
子どもの姿もある。
赤い髪飾りは見えない。
リュウが言った。
「今日は普通だな」
「普通って言われると、何か探しちゃう」
ミカが答える。
ナオは鳥居の奥を見た。
境内は穏やかだった。
昨日のような違和感はない。
小さな鈴の音も、聞こえない。
「行こう」
ナオが言った。
4人は神社の前を離れた。
昼前、そろそろ秩父を出ようということになった。
次の目的地は、まだはっきり決めていない。
秩父からさらに西へ進むか。
いったん飯能方面へ戻り、別の場所へ向かうか。
ナオは地図を見ながら考えていた。
サチが横から覗き込む。
「今日は長距離移動?」
「そこまで無理はしない。道の駅に寄りながら、次の場所を決める」
「それくらいがいいね」
ミカは少し安心したように言った。
「とりあえず、秩父から離れるんだよね」
「離れる」
「じゃあ、あの子もここまで」
誰もすぐには答えなかった。
リュウが少しだけ無理に明るく言う。
「まあ、秩父の子ならな」
「秩父の子ってことでいい?」
「いいんじゃないか」
ミカは納得しきれない顔だったが、それでも頷いた。
「じゃあ、そういうことにしておく」
車に戻り、荷物を確認した。
エンジンをかける前に、ナオは一度だけ周囲を見た。
旅館。
通り。
山。
この町で、彼らは何かを見た。
何かに見られた。
けれど、それが何だったのかは分からない。
分からないまま、旅は進む。
車はゆっくりと秩父市街を出た。
窓の外を、町の景色が流れていく。
古い店。
民家。
山の影。
信号待ちで、ミカがふと窓の外を見た。
小さな駅前のような場所。
ベンチ。
自動販売機。
道路の向こう側に、子どもが1人立っていた。
赤い髪飾り。
小さな鈴を手にしている。
ミカが息を止めた。
「……いた」
リュウが窓の外を見る。
「どこ」
「あそこ」
サチも振り向いた。
ナオは前方の信号を見ながら、視界の端でその姿を捉えた。
女の子は、こちらを見ていた。
今までで一番はっきりと。
表情は分からない。
けれど、目が合っているように見える。
風もないのに、手元の鈴が小さく揺れた。
しゃりん。
信号が青に変わった。
ナオはすぐにはアクセルを踏まなかった。
後ろの車はいない。
ほんの数秒。
その数秒の間、4人は誰も話さなかった。
女の子は道の向こうに立っている。
赤い髪飾り。
小さな鈴。
少し古い雰囲気の服。
そして、まばたきのような一瞬の後。
通り過ぎたトラックが視界を遮った。
トラックが抜けた時、そこには誰もいなかった。
ミカが震えた声で言った。
「消えたよね」
リュウは何も言わなかった。
サチも言葉を失っていた。
ナオは静かにアクセルを踏んだ。
車はゆっくりと進み始める。
「追わないの?」
ミカが聞いた。
「追わない」
「でも」
「追わない」
ナオの声は、静かだったが、はっきりしていた。
サチが小さく頷いた。
「うん、それでいいと思う」
リュウはようやく息を吐いた。
「何だったんだろうな」
「分からない」
ナオは答えた。
今度は、誰もその言葉に文句を言わなかった。
秩父の町が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
ミカはしばらく窓の外を見ていた。
「ついてこないよね」
誰に聞いたのか分からない声だった。
リュウは少し間を置いて言った。
「たぶん、秩父の子だろ」
「たぶん?」
「たぶん」
ミカは小さく笑った。
「リュウさんのたぶん、今日だけは信じたい」
「信じとけ」
サチは前を見ながら言った。
「でも、悪い感じはしなかった」
「そうだな」
ナオは頷いた。
「あの子が何だったのかは分からない。でも、悪意みたいなものは感じなかった」
「じゃあ何?」
ミカが聞く。
「町の記憶みたいなものかもしれない」
リュウが苦笑する。
「お前、またそういうこと言う」
「それくらいしか言えない」
サチは少しだけ笑った。
「でも、秩父っぽい気がする」
「分かるのか?」
リュウが聞く。
「分かるっていうか、山と祭りと古い町が混ざった感じ」
ミカはまだ窓の外を見ていた。
「私は怖かったけど、ちょっと寂しい感じもした」
車内が少し静かになった。
それは、誰も予想していなかった感想だった。
ナオはミラー越しにミカを見た。
ミカは続けた。
「なんか、追いかけてきたっていうより、見送ってたみたいだった」
リュウがミカを見る。
「お前、たまにちゃんと核心つくな」
「たまにって何」
「褒めてる」
「雑」
サチが笑った。
少しだけ空気が戻った。
道は秩父の町から離れ、また山の方へ続いていく。
ナオは地図を確認しながら、次の目的地を考えた。
まだ関東だけでも、行きたい場所はいくらでもある。
奥多摩。
群馬。
栃木。
茨城。
千葉。
神奈川。
都市伝説、怪談、妖怪、伝承。
それに温泉、道の駅、宿、ご当地の飯。
旅はまだ始まったばかりだった。
けれど、秩父はきっと忘れない。
赤い髪飾りの女の子。
小さな鈴の音。
夜祭の残響。
三峯の山の空気。
武甲山の影。
古い旅館の廊下。
それらが、胸の奥に少しずつ残っている。
リュウが後部座席から聞いた。
「で、次どこ行くんだ?」
「まだ決めてない」
「珍しいな」
「候補が多い」
ミカが少しだけ元気を取り戻した声で言った。
「次は怖さ控えめでお願い」
「それ、毎回言ってるな」
リュウが笑う。
「毎回必要だから」
サチが地図を見ながら言った。
「温泉か道の駅があるところがいいな」
「そこは入れる」
ナオが答える。
「信用できる」
「怖い方は?」
リュウが聞く。
「それは現地次第だな」
ミカがすぐに声を上げる。
「出た」
車内に笑いが戻った。
窓の外では、秩父の山が少しずつ遠くなっていく。
もう赤い髪飾りは見えない。
鈴の音も聞こえない。
それでもナオには、あの音が完全に消えたとは思えなかった。
しゃりん。
どこかで、ほんの小さく鳴った気がした。
だが、誰も何も言わなかった。
ナオは前を見たまま、静かに車を進めた。
あの場所へ。
次の場所が、また少しずつ近づいている。




