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あの場所へ  作者: ナオ
7/14

7話 三峯へ向かう道

 古い旅館の朝は、昨日より少し静かだった。


 廊下の床が鳴る音も、女将の声も、窓の外を走る車の音もある。


 けれど昨夜のように、耳の奥へ残る鈴の音は聞こえなかった。


 ナオは布団の中で目を開け、天井の木目を見ていた。


 昨日の夜。


 秩父神社。


 番場通り。


 赤い髪飾りの女の子。


 路地の奥の小さな影。


 旅館の廊下で聞こえた鈴の音。


 そして、遠くで鳴った太鼓のような音。


 ひとつひとつを分けて考えれば、説明できないことはない。


 神社にいた女の子が、町の中を歩いていた。


 旅館の廊下で、何か金具の音が鳴った。


 外の車の低い音が、太鼓のように聞こえた。


 それだけのことかもしれない。


 ただ、全部が同じ夜に重なった。


 それが、少しだけ引っかかっていた。


 隣の布団で、サチが寝返りを打った。


「ナオくん、起きてる?」


「起きてる」


「昨日のこと考えてた?」


「少しな」


「やっぱり」


 サチは布団から顔だけ出した。


「私、あの鈴の音、ちょっと残ってる」


「聞こえたな」


「聞こえたよね」


「ああ」


「でも、今日は三峯なんだよね?」


「そう」


 ナオは体を起こした。


「今日は三峯神社の方へ行く」


 サチは少しだけ真面目な顔になった。


「そこは怖いところじゃないんだよね」


「怖がる場所じゃない」


「うん、それは分かった」


 サチはゆっくり起き上がり、髪を整えた。


「でも、山の方なんだよね」


「山の奥だな」


「ミカちゃん、絶対聞くね」


「聞くだろうな」


 朝食の部屋に行くと、リュウとミカはすでに座っていた。


 リュウは湯呑みを持っていて、ミカは焼き魚を見ながら少し眠そうにしている。


 ナオとサチが座ると、ミカはすぐに顔を上げた。


「ナオさん、今日って山の方行くんだよね?」


「三峯の方だな」


「山だよね?」


「山だな」


「怖いところ?」


「怖がる場所じゃない」


「それ、昨日も聞いたけど、山ってだけでちょっと怖いんだよ」


 リュウが味噌汁を飲みながら言った。


「ミカ、昨日は町でも怖がってただろ」


「赤い髪飾りの子は町だったけど怖かったじゃん」


「まあ、それはちょっとな」


 リュウの声は、昨日より少しだけ弱かった。


 ミカはすぐにそこへ突っ込んだ。


「ほら、リュウさんも怖かったんじゃん」


「怖いっていうより、気になる感じだな」


「ナオさんみたいなこと言い始めた」


「それは嫌だな」


 ナオは箸を取りながら言った。


「今日は三峯神社へ行くけど、境内で怪談っぽく扱うつもりはない。ちゃんと参拝する場所だ」


 サチが頷く。


「昨日の秩父神社と同じだね」


「うん」


 ミカは少し安心したように見えたが、すぐに言った。


「でも、帰り道とかで何か出るパターンじゃない?」


 リュウが笑った。


「だいぶ読めるようになってきたな」


「この旅で鍛えられてるから」


「何に?」


「警戒心」


 朝食を終えると、4人は旅館を出た。


 女将に三峯方面へ行くことを話すと、女将は少しだけ目を細めた。


「三峯さんですか、今日はお天気も良さそうでよかったですね」


 ナオが軽く頭を下げる。


「はい、行ってみようと思って」


「山道ですから、気をつけて行ってらっしゃいませ」


 その言い方は普通だった。


 けれど、ミカは小さくリュウの袖を引いた。


「山道だって」


「そりゃ山だからな」


「分かってるけど、言われると怖い」


「何言われても怖いんじゃないか」


「今日はちょっとそうかも」


 荷物は旅館に置いたまま、車で三峯方面へ向かった。


 秩父市街を抜けると、少しずつ道の表情が変わっていく。


 町の建物が減り、山の斜面が近くなる。


 荒川の流れが見え隠れし、道路は谷に沿うように伸びていた。


 サチが窓の外を見ながら言った。


「昨日の秩父の町とは全然違うね」


「同じ秩父でも、市街と山側で空気が変わる」


 ナオは前を見たまま答えた。


「三峯は山の信仰が強い場所だ。山犬、お犬様の話もある」


 ミカがすぐに反応した。


「犬?」


「狼に近いな」


「狼?」


「三峯では、狼が眷属として信仰されてきた。山の神の使いとして、火事や盗難、獣害から守る存在として見られてきたんだ」


 リュウが窓の外を見ながら言う。


「お犬様って聞いたことあるな」


「秩父や奥多摩の方にも、そういう信仰はある。山に暮らす人たちにとって、狼は怖いだけの存在じゃなくて、守ってくれる存在でもあった」


 ミカは少し複雑そうな顔をした。


「怖いけど、守ってくれるってこと?」


「そういう感じだな」


「それなら、ちょっとだけ安心」


 リュウが笑う。


「ちょっとだけか」


「狼は普通に怖いじゃん」


「まあな」


 道はさらに山へ入っていった。


 カーブが増え、木々の影が車内に流れ込む。


 時々、対向車が来るたびに、ナオは慎重にハンドルを切った。


 山道は、昼でも少し緊張感がある。


 ミカは外を見たり、前を見たり、落ち着かない。


「ナオさん、こういう道よく平気で運転するね」


「平気ではない、ちゃんと見てる」


「そういう冷静なのが逆にすごい」


 サチが助手席で地図を見ていた。


「けっこう登ってるね」


「ああ」


「山の中って、距離より時間がかかる感じする」


「それはあるな」


 しばらく走ると、駐車場の案内が見えてきた。


 三峯神社に着いた頃には、空気がさらに冷たく感じられた。


 車を降りると、木々の匂いが濃い。


 観光客はいる。


 売店もある。


 けれど、秩父神社や番場通りとは全く違う。


 町の神社ではなく、山の上に来たという感じが強かった。


 ミカは上着の前をぎゅっと合わせた。


「ここ、空気違う」


「山の上だからな」


 リュウが答える。


「いや、そういう物理の話じゃなくて」


「じゃあ何の話だよ」


「なんか、ちゃんとしなきゃって感じ」


 ナオは少しだけ頷いた。


「それでいいと思う」


 4人は参道へ向かった。


 鳥居の前でナオが少し足を止める。


「ここも、ちゃんと参拝する」


「分かってる」


 リュウが言った。


 ミカも小さく頷いた。


「怖がる場所じゃない」


「そう」


 サチも静かに手を合わせるようにした。


 参道を歩くと、木々の間を風が抜けた。


 鳥居のそばには、狛犬ではなく狼のような姿が見える。


 ミカがすぐに気づいた。


「あれ、犬?」


「お犬様だな」


 ナオが答える。


「本当に狼っぽいね」


「山犬信仰だからな」


 リュウが像を見ながら言った。


「普通の狛犬より、目が鋭いな」


「守ってる感じがする」


 サチが静かに言う。


 ミカは少し離れて像を見た。


「怖いけど、嫌な怖さじゃない」


「それはいい感じ方だと思う」


 ナオはそう言って、先へ進んだ。


 境内は、観光地としての明るさもありながら、どこか静かだった。


 人の声はある。


 足音もある。


 けれど、木々と山の気配がそれを包んでいる。


 秩父神社の時のような町の中心ではなく、山そのものに近い場所だった。


 参拝を済ませ、4人は境内をゆっくり歩いた。


 ナオは由緒や山犬信仰の話を少しずつ説明する。


「昔の山里では、狼は畑を荒らす獣を追ってくれる存在でもあった。だから、怖いものとしてだけじゃなくて、守護として信仰されたんだ」


 サチが木々を見上げる。


「山で暮らす人にとっては、動物との距離も近かったんだね」


「そうだな」


 ミカが少し考え込む。


「昨日の小熊の話もそうだけど、人間だけの場所じゃないって感じする」


「三峯は特にそう感じるな」


 リュウが言う。


「町の神社と違って、山の中に入ってきた感じが強い」


「うん」


 ミカは頷いたが、そのあとふと、参道の脇を見た。


 木の根元。


 少し離れたところに、小さな人影があった。


 赤い髪飾り。


 ミカの表情が止まる。


「……ねえ」


 リュウが振り向く。


「どうした?」


「あの子」


 サチもそちらを見る。


 女の子が立っていた。


 昨日の秩父神社で見た子に似ている。


 赤い髪飾り。


 手元に小さな鈴のようなもの。


 服は、やはりどこか古い雰囲気がある。


 木の陰に半分隠れるように立ち、こちらを見ているのか、ただ境内を見ているのか分からない。


 リュウが眉をひそめた。


「似てるな」


「似てるっていうか、同じじゃない?」


 ミカの声が小さくなる。


「秩父神社にいた子だよ」


「ここまで来るか?」


「観光で来てる家族なら、来ることもあるんじゃない?」


 サチがそう言ったが、自分でも少し自信がなさそうだった。


 ナオは女の子を見た。


 昨日と同じように、赤い髪飾りだけが妙に目に残る。


 人は周りにいる。


 だから、そこに子どもがいてもおかしくはない。


 それでも、何かが少しだけずれている。


 ナオは視線を外さずに言った。


「追わない」


 ミカがナオを見る。


「やっぱり気になる?」


「気になる。でも追わない」


「なんで?」


「子どもかもしれないから」


 昨日と同じ答えだった。


 リュウが少し息を吐く。


「まともだな」


「当たり前だろ」


 その時、参拝客の一団が前を通った。


 人の影が重なり、赤い髪飾りが隠れる。


 次に見えた時、そこには誰もいなかった。


 ミカが小さく息を吸った。


「いない」


「奥に行ったんだろ」


 リュウはそう言ったが、声は昨日よりさらに弱かった。


 サチはナオの横で、木の根元を見つめていた。


「鈴、持ってたよね」


「見えた」


 ナオは答えた。


 ミカが少し震えた声で言う。


「昨日の音、あの鈴じゃない?」


 誰もすぐには答えなかった。


 境内のどこかで、風が木々を揺らした。


 葉が擦れる音。


 遠くの人の声。


 小さな鈴の音は聞こえない。


 けれど、聞こえないことがかえって気になる。


 しばらくして、ナオは歩き出した。


「行こう」


「え、もう?」


「境内で騒ぐことじゃない」


 サチが頷いた。


「そうだね」


 ミカはまだ気にしていたが、リュウに促されて歩き出した。


「リュウさん、今の、絶対同じ子だよ」


「似てたな」


「似てたじゃなくて」


「……同じに見えた」


 ミカが目を丸くした。


「リュウさんが認めた」


「見えただけだ」


「だいぶ進歩」


「何の進歩だよ」


 境内を出る前に、4人は少しだけ景色の開けた場所へ向かった。


 山並みが見える。


 秩父の町は遠く、山の向こうに沈んでいるようだった。


 サチが深く息を吸った。


「すごい場所だね」


「来てよかっただろ」


 ナオが言うと、サチは頷いた。


「うん、怖いとかじゃなくて、ちゃんと来てよかった」


 ミカも山を見ていた。


「私も、ここは来てよかったかも」


「かも?」


 リュウが聞く。


「まだ赤い髪飾りの子が怖いから、かも」


「正直だな」


「でも、神社自体は嫌じゃない」


 ナオはその言葉に頷いた。


「それでいい」


 昼を少し過ぎた頃、4人は駐車場へ戻った。


 売店で軽く食べ物を買い、休憩を取った。


 ミカは温かい飲み物を持ち、リュウは土産物を見ていた。


 サチは木々の方を見ながら、静かに言った。


「ナオくん」


「うん」


「あの子、本当に何なんだろうね」


「分からない」


「でも、ナオくんも見たんだよね」


「見た」


「だったら、ミカちゃんの気のせいじゃないね」


「気のせいではないと思う」


「それ言われると怖いね」


「すまん」


 サチは少し笑った。


「謝るところじゃないよ」


 帰り道。


 車は山道をゆっくり下っていった。


 行きよりも、道の影が濃く見える。


 午後の光が木々の間に斜めに入って、カーブの先を一瞬だけ明るくする。


 ミカは後部座席で、何度も窓の外を見ていた。


「ミカ、どうした?」


 リュウが聞く。


「いや、さっきの子が道にいたら嫌だなって」


「さすがにいないだろ」


「その、さすがに、が信用できなくなってきた」


 サチも少し振り返る。


「私も、ちょっと外見ちゃう」


「サチさんまで」


「だって、あれは見ちゃうよ」


 ナオは何も言わず、道に集中していた。


 山道では、余計なことを考えすぎると危ない。


 カーブ。


 対向車。


 落ち葉。


 路肩。


 それでも、視界の端に赤いものが入るたび、少しだけ意識が動いた。


 何度かカーブを抜けた時だった。


 道路脇のカーブミラーに、後ろの道が映った。


 ほんの一瞬。


 ミラーの端に、小さな赤が映った気がした。


 赤い髪飾り。


 ナオは視線を前に戻した。


 すぐにブレーキを踏むような場所ではない。


 何かを見間違えた可能性もある。


 けれど、後ろでミカが小さく声を出した。


「今、見た?」


 リュウが振り返る。


「何を?」


「ミラー」


「ミラー?」


「赤いの、映った」


 サチが少し息を飲む。


「私も、見えた気がした」


 リュウは後ろを見た。


 道には車が1台ついてきているだけだった。


 子どもの姿など、どこにもない。


「見間違いじゃないか?」


 リュウが言った。


 ミカはすぐ返す。


「リュウさん、それ昨日から何回目?」


「分かってる」


「本当は見たでしょ」


「俺は見てない」


「ナオさんは?」


 ナオは少しだけ間を置いた。


「赤いものは見えた」


「ほら」


「ただ、髪飾りかどうかは分からない」


「また分からない」


「運転中だったからな」


 ミカは不満そうにしたが、それ以上は言わなかった。


 山道は続いている。


 車内の空気が、少しだけ重くなった。


 リュウはそれを変えるように言った。


「市街に戻ったら、何か食うか」


 ミカは一瞬考えてから答えた。


「食べる」


「切り替え早いな」


「怖いから食べる」


 サチが笑った。


「それは分かる」


「サチさんとはやっぱり分かり合える」


 秩父市街に戻る頃には、空が少し夕方に近づいていた。


 町へ戻ると、人の気配があるだけでほっとする。


 4人は旅館の近くに車を置き、少し早めの夕食に出ることにした。


 昼間の山の空気を、町の食事で少しずつ上書きしていく。


 リュウとミカは軽く酒を飲み、ナオとサチはしっかり食べた。


 ミカは食事の途中で、ようやく少し笑った。


「やっぱり町はいい」


「三峯も良かっただろ」


 リュウが言う。


「良かった。でも山は濃い」


「濃い?」


「空気が濃い」


 サチが頷く。


「なんとなく分かる」


 ナオも水を飲みながら言った。


「山の神社は、場所そのものが強いんだよ」


「ナオさん、それ褒めてるんだよね?」


「もちろん」


「でも怖い」


「それも含めてだな」


 食後、旅館へ戻る道で、番場通りの方から少しだけ人の声が聞こえた。


 昼間よりも店の明かりは減り、通りの奥は暗い。


 ミカは自然とリュウの近くを歩いていた。


 サチもナオの横に並ぶ。


「今日はもう、旅館でゆっくりしたいね」


 サチが言う。


「そうだな」


 ナオが答える。


 その時、通りの向こうから、かすかに音がした。


 しゃりん。


 4人は同時に足を止めた。


 昨日と同じ鈴の音。


 ミカの顔が強ばる。


「また」


 リュウは通りの奥を見る。


「どこだ」


 音は、古い店の並びの奥から聞こえたようだった。


 人の姿はない。


 ただ、街灯の弱い光が路面に落ちている。


 その光の外側に、小さな赤が見えた。


 女の子が立っていた。


 昨日の神社で見た。


 番場通りの路地で見た。


 三峯の木のそばで見た。


 同じ赤い髪飾り。


 小さな鈴。


 今度は、はっきりこちらを向いているように見えた。


 サチが小さく言う。


「あの子」


 ミカはリュウの袖を強くつかんだ。


「同じ子だって」


 リュウは黙っていた。


 ナオは女の子を見ていた。


 距離はある。


 表情は分からない。


 けれど、目が合っているような感覚があった。


 ほんの数秒。


 風が吹いた。


 店先の暖簾が揺れた。


 その隙に、女の子の姿は消えた。


 ミカが息を呑む。


「消えた」


「路地に入ったのかもしれない」


 リュウが言った。


 けれど、その声にはもう、いつもの軽さがなかった。


 ナオは歩き出さなかった。


 見に行くべきか。


 行かないべきか。


 夜の町で、得体の知れない子どもの影を追う。


 それは、どう考えても良い判断ではない。


「行かない」


 ナオは静かに言った。


 サチが頷いた。


「うん」


 ミカは少し震えた声で言う。


「でも、あの子、絶対私たち見てた」


「そう見えたな」


 ナオは認めた。


 リュウが小さく息を吐く。


「お前が認めると、けっこう怖いんだよ」


「分からないことは多い。でも、見ていたようには見えた」


「言い直しても怖い」


 旅館に戻ると、女将が玄関で迎えてくれた。


 その普通の明るさに、4人は少しだけ救われた。


 部屋に戻る途中、廊下がきしんだ。


 昨日と同じ音。


 でも今日は、その音の方がまだ安心できた。


 部屋に入ると、ミカはすぐ畳に座り込んだ。


「もう今日は外出たくない」


「出ない」


 ナオが答える。


「絶対?」


「絶対」


「それは信じる」


 リュウは窓際に座り、外を見た。


「何なんだろうな、あの子」


 サチが静かに言う。


「町の子って感じじゃなかったね」


「でも、幽霊って決めつけるのも違う」


 ナオが言った。


 ミカがすぐ顔を上げる。


「ナオさん、まだその段階?」


「断定できないからな」


「私はもうだいぶ怖いよ」


「怖いのは分かる」


「分かってくれるだけマシ」


 ナオはタブレットを開いた。


 秩父夜祭。


 三峯神社。


 山犬信仰。


 赤い髪飾りの女の子につながるような話は、そこにはない。


 ただ、町と山の記憶だけがある。


 それでも、あの女の子はその記憶の隙間から出てきているような気がした。


 小さな鈴の音が、また聞こえるのではないか。


 そんなことを考えた瞬間。


 廊下の向こうで、かすかに鳴った。


 しゃりん。


 ミカが顔を上げた。


「聞こえた」


 リュウも黙って廊下を見る。


 サチはナオの腕にそっと触れた。


 今度は、誰もすぐに説明しなかった。


 古い旅館の廊下。


 畳の匂い。


 窓の外の山。


 夜の秩父。


 鈴の音は、一度だけで消えた。


 しばらくして、廊下を歩く足音が聞こえた。


 きし。


 きし。


 ゆっくりと、部屋の前を通り過ぎていく。


 人の足音のようにも聞こえる。


 けれど、その歩幅は小さかった。


 ミカは小声で言った。


「子どもみたい」


 リュウが何か言おうとして、やめた。


 足音は廊下の奥へ消えた。


 ナオは立ち上がらなかった。


 追いかけない。


 今夜も、追いかけない。


 ただ、耳だけが音の行き先を追っていた。


 しばらくして、遠くでまた鈴が鳴った。


 しゃりん。


 その後、旅館は静かになった。


 ミカは布団に入りながら、ぽつりと言った。


「明日も出るのかな」


「分からない」


 ナオが答える。


「でも、出る気がする」


 サチが小さく言った。


「私も、そんな気がする」


 リュウは天井を見上げたまま、低い声で言った。


「秩父を出るまで、ついてくるとかやめてほしいな」


 その言葉に、誰も笑わなかった。


 ナオは窓の外を見た。


 山の黒い影。


 町の灯り。


 そして見えないどこかで、赤い髪飾りの女の子がまだ立っている気がした。


 明日は、もう一度秩父の町を歩く。


 そして、どこかでこの町を離れる準備をする。


 けれどその前に、まだ何かを見ることになる。


 ナオには、そんな予感があった。


 あの場所へ。


 旅は進んでいる。


 けれど今だけは、こちらが進んでいるのか、何かに誘われているのか、少しだけ分からなくなっていた。

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