6話 秩父の町へ
古い旅館の朝は、スマホのアラームより先に、廊下を歩く足音で始まった。
きし。
きし。
誰かが廊下を歩いている。
急いでいるわけではない。
ゆっくり、一定の間隔で、古い床板を踏んでいく音だった。
ナオは布団の中で目を開けた。
天井の木目が薄明かりの中に見える。
最初の一瞬だけ、昨夜のことを思い出した。
秩父の古い旅館。
廊下の床が鳴る音。
窓の外にあった山の黒い影。
けれど、すぐに廊下の向こうから女将の声が聞こえた。
「おはようございます」
その声に、ナオは息を吐いた。
ただの朝だった。
ただの旅館の朝。
サチは隣の布団でまだ目を閉じていたが、足音には気づいたらしく、少しだけ眉を動かした。
「……ナオくん、今の」
「旅館の人だな」
「だよね」
サチは小さくあくびをした。
「古い旅館って、朝も雰囲気あるね」
「夜よりはいいだろ」
「まあね」
障子の向こうが、ぼんやり明るくなっている。
ナオは起き上がり、窓際へ行った。
窓を少し開けると、冷えた空気が部屋に入ってくる。
外には秩父の町があった。
派手ではない。
けれど、山に囲まれた町独特の落ち着きがある。
昨日、国道299号を進んで、あしがくぼで休み、武甲山を見て、西武秩父駅前の湯に入って、この旅館へ来た。
川口を出た時には、まだ近場を回っているような気分もあった。
でも今は違う。
旅は、ちゃんと秩父まで来ていた。
廊下から、今度はリュウの声がした。
「ナオ、起きてるか」
「起きてる」
「朝飯、もうすぐだってよ」
そのすぐ後に、ミカの声が続いた。
「ねえ、ここの廊下、朝でも鳴るんだけど」
サチが布団の中で笑った。
「ミカちゃん、朝から言ってる」
ナオが襖を開けると、リュウとミカが廊下に立っていた。
リュウは少し眠そうで、ミカは寝癖を直しきれていない。
「おはよう」
ナオが言うと、ミカは廊下の奥を見ながら小声で返した。
「おはよう、ナオさん、ここ夜より朝の方がまだマシ」
「朝だからな」
「でも床は鳴る」
「古いからな」
「その説明、便利すぎない?」
リュウが肩をすくめた。
「実際古いんだから仕方ないだろ」
「分かってるけど、音が鳴るたびにこっちの心臓も鳴るんだよ」
サチが部屋の奥から声をかけた。
「ミカちゃん、朝ご飯食べたら元気出るよ」
「それは出る」
「分かりやすいな」
リュウが笑った。
朝食は、旅館らしい和食だった。
焼き魚。
味噌汁。
漬物。
卵。
小鉢。
湯気の立つご飯。
ナオとサチは朝からよく食べた。
リュウも普通に食べたが、ミカは最初眠そうに箸を持っていたのに、途中からきちんとおかわりまでしていた。
「ミカ、朝からしっかり食うな」
リュウが言うと、ミカは味噌汁を飲みながら答えた。
「昨日、山と古い旅館で体力使った」
「登ってないけどな」
「精神的に登った」
「便利な言い方だな」
サチが笑った。
「今日は秩父神社だよね」
「そう」
ナオは箸を置き、湯呑みを持った。
「まずは秩父神社に行く、そのあと番場通りを歩いて、町を見ようと思ってる」
ミカが少し警戒する。
「神社は怖いやつじゃないよね?」
「怖がる場所じゃない」
「それ、昨日も聞いた」
「大事なことだからな」
リュウがナオを見る。
「秩父神社って、夜祭のところだよな」
「そう、秩父夜祭は秩父神社の例祭だな、冬の大きな祭りで、山車が出て、屋台囃子があって、町全体が祭りになる」
「夜祭って響きがいいよな」
「いい」
ミカが少し首を傾げた。
「夜のお祭りなら、楽しそうじゃん」
「楽しいと思うよ」
サチが言う。
「でもナオくんが話すと、ちょっと不穏に聞こえるんだよね」
「俺のせいか?」
「うん」
ミカもすぐ頷いた。
「ナオさんが夜祭って言うと、なんか誰もいない夜に太鼓だけ聞こえそう」
「それはそれで良い話になりそうだな」
「良くない、怖い方に育てないで」
リュウが笑い、湯呑みを置いた。
「今日は町歩きだろ、ミカも平気だろ」
「昼なら平気」
「夜は?」
「夜は宿に戻る」
「正しい判断だな」
朝食を終えて、4人は旅館を出た。
玄関先で女将が丁寧に頭を下げる。
外に出ると、朝の秩父は少しひんやりしていた。
山が近いせいか、空気が澄んでいる。
通りには車が走り、店の人が準備を始めていた。
観光地の顔と、普通の町の顔が重なっている。
サチが上着の前を合わせながら言った。
「朝の秩父、いいね」
「いいな」
ナオは頷いた。
歩いて行ける距離だったので、車は旅館に置いたままにした。
古い通りを歩きながら、4人は秩父神社へ向かう。
ところどころに、夜祭に関係する案内や、古い店構えが見える。
ミカは少し眠そうだった顔をだんだん明るくしていった。
「こういう町歩きは好き」
「昨日も言ってたな」
リュウが言う。
「道の駅と町歩きは安全」
「神社は?」
「神社は、昼なら安全」
「基準ができてきたな」
「この旅で学んでるから」
サチが道の先を見ながら言った。
「でも、古い町って、歩いてるだけで少し静かな気持ちになるね」
「秩父は祭りの町でもあるけど、山に囲まれてるからな」
ナオが答えた。
「町そのものが、少し内側に守られてる感じがする」
「ナオくん、またちょっと良いこと言った」
「そうか?」
「うん、でもちょっと怖くもある」
「何を言っても怖くなるな」
ミカが笑った。
「ナオさんの説明は、だいたい最後に山が出てくるから」
「秩父だからな」
「それはそう」
秩父神社に着く頃には、観光客も少しずつ増えていた。
境内には朝の光が差し込んでいる。
参拝する人の姿もあり、子どもを連れた家族もいた。
川口の赤山陣屋跡のような静けさとは違う。
人の祈りが今も続いている場所だった。
鳥居をくぐる前、ナオは少し足を止めた。
「ここは、ちゃんと参拝する」
リュウが頷いた。
「分かってる」
ミカも少し真面目な顔になった。
「怖がる場所じゃない、ってやつだね」
「そう」
サチが小さく頷いた。
「ちゃんと行こう」
4人は鳥居をくぐり、境内へ入った。
木々の影が石畳に落ちている。
朝の神社特有の、少し冷えた空気があった。
ナオは歩きながら、社殿の方を見た。
「秩父神社は、秩父地方の総鎮守として古くから信仰されてきた場所だ。今の秩父の町にとっても、夜祭にとっても中心になる場所だな」
リュウが社殿を見上げる。
「町の中心って感じがするな」
「そうだな」
サチが静かに言う。
「人が多いのに、落ち着いてるね」
「神社ってそういうところあるよね」
ミカも少し声を落とした。
「なんか、普通にきれい」
その時だった。
社殿の横、少し離れた場所に、小さな女の子が立っていた。
小学生くらい。
赤い髪飾りをつけている。
服は派手ではない。
けれど、少し古い雰囲気があった。
手元に、小さな鈴のようなものを持っている。
ミカが一瞬そちらを見た。
「……あの子、かわいい髪飾りしてる」
サチもそちらを見る。
「あ、本当だ、赤いやつ」
女の子は社殿の方を見ていた。
家族らしい人は近くにいない。
でも境内には人がいたし、子どもが1人で立っていても、不自然とまでは言えなかった。
リュウが軽く言う。
「親が近くにいるんじゃないか?」
「そうだよね」
ミカはすぐに視線を戻した。
「ちょっと古風な感じだったから見ちゃった」
ナオも女の子を見た。
女の子は、こちらを見てはいなかった。
ただ、社殿を見ていた。
朝の光の中で、赤い髪飾りだけが小さく目立っている。
ナオは深追いしなかった。
4人は手水を済ませ、参拝した。
手を合わせる間、周囲の音が少しだけ遠くなる。
風の音。
誰かの足音。
小さな鈴の音。
しゃりん。
ナオは目を開けた。
拝殿の前には、普通に参拝客がいる。
鈴の音は、どこからでも聞こえそうな音だった。
ミカが横で少しだけ首を傾げる。
「今、鈴鳴った?」
「神社だからな」
リュウが答える。
「それもそうか」
「何でも怖くするなよ」
「リュウさんが言う?」
「俺は今日はちゃんとしてる」
「今日は?」
参拝を終え、4人は境内を少し歩いた。
ナオは彫刻や建物を見ながら、秩父夜祭の話をする。
「夜祭は、ただの観光イベントっていうより、町の中でずっと続いてきた祭りなんだよ。山車が町を動いて、屋台囃子が鳴って、冬の夜に人が集まる」
サチが想像するように言った。
「冬の夜にお祭りって、寒そうだけど綺麗そう」
「綺麗だと思う」
リュウが言う。
「酒もうまそうだな」
「リュウさん、やっぱりそこ」
ミカが呆れる。
「祭りの酒は特別だろ」
「それ、どこの祭りでも言いそう」
ナオは少し笑い、境内の奥へ視線を向けた。
さっきの女の子が、別の木のそばにいた。
赤い髪飾り。
小さな鈴。
さっきより少し遠い。
でも同じ子に見えた。
ナオが見ていることに気づいたのか、サチもそちらを見た。
「あれ、さっきの子?」
「たぶん」
ミカが振り返る。
「え、またいた?」
「さっきと同じ子じゃない?」
リュウは少し見てから言った。
「まあ、境内を歩いてるだけだろ」
「だよね」
ミカはそう言ったが、少しだけ目を細めていた。
女の子は木の影に半分隠れるように立っていた。
顔はよく見えない。
けれど、赤い髪飾りだけは見える。
次に人が前を通った時、女の子の姿は見えなくなっていた。
「ほら、どっか行った」
リュウが言った。
「うん」
ミカは頷いた。
「観光客だよね」
「だろ」
ナオは何も言わなかった。
秩父神社を出ると、町の音が戻ってきた。
車の音。
店のシャッターが開く音。
観光客の話し声。
神社の中とは違い、番場通りの方へ歩くと、古い町並みと店の気配が近くなる。
サチはすぐに楽しそうな顔になった。
「ここ歩くのいいね」
「食べ歩きできそう」
ミカも周囲を見回す。
「道の駅とは違うけど、ここも安全寄り」
「安全寄りってなんだ」
リュウが笑う。
「人がいる、店がある、食べ物がある」
「結局そこか」
「大事」
ナオは番場通りを歩きながら、古い建物や看板を見ていた。
通りには秩父らしい落ち着きがあった。
観光客向けの明るさもある。
でも、少し奥へ入ると、昔からの町の影が残っているように見えた。
「番場通りは、夜祭の時も人が多くなる通りだな」
ナオが言うと、リュウが辺りを見た。
「ここを山車が通るのか」
「そういう感じだな」
サチが目を輝かせる。
「見てみたいね、夜祭」
「いつか来るか」
ナオが言うと、サチは少し笑った。
「寒いんでしょ?」
「冬だからな」
「じゃあ温かいもの必須」
「サチはそこだよな」
「大事だよ」
ミカも頷く。
「私も寒いのは嫌だけど、祭りは見たい」
リュウが言った。
「じゃあ冬にまた秩父か」
「それはあり」
ミカは少しだけ楽しそうに笑った。
その時、通りの先の路地に、小さな赤が見えた。
赤い髪飾り。
ほんの一瞬だった。
路地の角に、小さな女の子が立っている。
人混みの隙間に見えた姿。
神社で見た子と、同じように見えた。
ミカが足を止めた。
「……あれ」
リュウが振り返る。
「どうした?」
「今、さっきの子いた気がした」
「神社の?」
「うん、赤い髪飾りの子」
サチも路地を見る。
でも、もう誰もいなかった。
「見えないね」
「今いたんだけど」
ミカは少しだけ不安そうに言った。
リュウは軽く肩をすくめた。
「同じ通り歩いてるんじゃないか? 観光客なら移動するだろ」
「そうだよね」
ミカはそう言いながらも、路地の奥をしばらく見ていた。
ナオも路地を見た。
店の裏口。
細い道。
朝の光が届きにくい影。
そこにはもう、誰もいない。
ただ、風に揺れた小さな飾りの音のようなものが、耳の奥に残った。
しゃりん。
気のせいかもしれない。
ナオは何も言わず、歩き出した。
昼は、秩父の町を楽しむ時間になった。
4人は古い店を覗き、土産を見て、軽く食べ歩きをした。
ナオとサチは昼食もしっかり取った。
リュウとミカは少し早めの時間から、軽く飲める店を探していたが、サチに止められた。
「リュウさん、まだ昼だよ」
「昼飲みも旅だろ」
「それ、毎回言ってる」
ミカが笑った。
「私は夕方まで待つ」
「偉いな」
「秩父の夜に備える」
「何に備えるんだよ」
「分かんないけど」
ナオはそのやり取りを聞きながら、通りの向こうを見た。
秩父は、歩いているだけで山の気配が消えない町だった。
建物と建物の隙間から、山が見える。
明るい通りの向こうに、古い影がある。
神社。
祭り。
山。
町。
それぞれが別々ではなく、同じ場所に重なっている。
夕方が近づく頃、4人は一度旅館へ戻った。
荷物を置き、少し休む。
ミカは畳に座って、買った小物を並べていた。
「秩父、普通に楽しい」
「普通に、ってつけるのか」
リュウが言う。
「だって最初はもっと怖いと思ってたから」
「今日は町歩きだしな」
「でも、赤い髪飾りの子、ちょっと気になる」
サチが湯呑みを持ったまま顔を上げた。
「やっぱり同じ子だった?」
「分かんない、でも似てた」
リュウは畳に寝転がりかけながら言った。
「子どもなんて、同じくらいの背なら似て見えるだろ」
「服も似てた気がする」
「気がする、だろ」
「そうだけど」
ナオは窓際に座っていた。
外は少しずつ暗くなっている。
昼間の町の音が、夜の音へ変わりかけていた。
「赤い髪飾りは目立つからな」
ナオが言うと、ミカがすぐに見る。
「ナオさんも見たよね?」
「見た」
「同じ子だと思った?」
「分からない」
「また分からないって言う」
「分からないものは分からない」
サチが少し笑う。
「ナオくんらしい」
リュウが起き上がった。
「まあ、神社にいた子が町歩いてても変じゃないだろ」
「そうなんだけどさ」
ミカはまだ少し納得していない顔だった。
その夜、4人は旅館近くの店で夕食を取った。
秩父らしい料理を少しずつ頼み、リュウとミカは酒を飲んだ。
ナオとサチはよく食べた。
店を出た頃には、秩父の町はすっかり夜になっていた。
昼の観光客は減り、通りは静かになっている。
店の明かりがぽつぽつと残り、山の輪郭は黒く沈んでいた。
サチが腕をさする。
「夜の秩父、ちょっと雰囲気あるね」
「あるな」
ナオが答える。
ミカはリュウの近くを歩いていた。
「今日の夜は何もなしでお願い」
「誰にお願いしてるんだ」
リュウが聞く。
「この町に」
「壮大だな」
「だって山も神社も祭りもあるじゃん、何かありそうじゃん」
ナオが通りの奥を見た。
「何かがある場所というより、何かが残ってる場所だな」
「ナオさん、それやっぱり怖い言い方」
「そうか」
「そうだよ」
旅館へ戻る途中、細い路地の奥から、小さな鈴の音がした。
しゃりん。
ミカが足を止めた。
「今の」
リュウも少しだけ止まる。
「鈴?」
サチが路地を見る。
「誰かいる?」
ナオもそちらを見た。
街灯の届かない路地の奥。
そこに、小さな影があった。
赤い髪飾り。
暗い中でも、その赤だけが妙に見えた。
女の子は、こちらを向いているようにも、横を向いているようにも見えた。
ミカの声が小さくなる。
「……あの子じゃない?」
リュウが目を細める。
「暗くて分からないだろ」
「でも、赤いやつ」
次の瞬間、通りを車が走り抜けた。
ヘッドライトの光が路地の入口を一瞬照らす。
光が消えた時、そこには誰もいなかった。
ミカはリュウの袖をつかんだ。
「いない」
「奥に入ったんじゃないか」
「そんな一瞬で?」
「子どもなら走るだろ」
「走る音、しなかった」
サチも少し顔をこわばらせていた。
「ミカちゃん、神社で見た子に似てた?」
「似てたっていうか、たぶん同じ」
リュウは少し困ったように頭をかいた。
「まあ、近所の子かもしれないしな」
言い方は軽かった。
けれど、その声は昼より少し弱かった。
ナオは路地の奥を見ていた。
闇の中に、何もない。
ただ、鈴の音だけが耳に残っている。
「行くぞ」
ナオが言った。
ミカが少し驚いた顔をする。
「見に行かないの?」
「行かない」
「ナオさんなら見に行くかと思った」
「子どもかもしれないだろ。夜に大人4人で追いかける方がおかしい」
サチが頷いた。
「それはそうだね」
リュウも息を吐いた。
「まともな判断だな」
「いつもまともだろ」
「どうだろうな」
ミカはまだ路地を見ていたが、リュウに軽く背中を押されて歩き出した。
「でも絶対あの子だよ」
「似てる子かもな」
「リュウさん、だんだん声弱くなってる」
「そんなことない」
「ある」
旅館に戻ると、玄関の明かりがやけに安心できた。
女将が奥から顔を出し、4人に軽く挨拶をする。
廊下を歩くと、床がきしんだ。
ミカはそれにも反応したが、さっきの路地のせいか、昼ほど文句は言わなかった。
部屋に入ると、サチはすぐに座布団に座り、息を吐いた。
「ちょっと怖かったね」
「サチさんもそう思った?」
ミカがすぐに言う。
「うん、さっきのはちょっとね」
リュウは窓際に立ち、外を見た。
「でも、子どもが外にいただけかもしれない」
「夜の路地に?」
「まあ、地元の子ならな」
「リュウさん、苦しくなってきてる」
「分かってる」
リュウは小さく言って、畳に座った。
ナオは部屋の隅に置いていたバッグから、PDFを入れたタブレットを出した。
秩父夜祭のページを開く。
山車。
屋台囃子。
冬の夜。
町を動く祭り。
そこに赤い髪飾りの女の子の話はない。
小さな鈴を持った子どもの話もない。
ただ、祭りの写真と、町の歴史だけがある。
「ナオくん、調べてる?」
サチが聞いた。
「少しだけ」
「何か分かった?」
「何も」
ミカが不安そうに言った。
「何も分からないのが1番嫌なんだけど」
「だな」
ナオはタブレットを閉じた。
その時、廊下の向こうで、かすかに音がした。
とん。
とん。
床を踏む音。
続いて、遠くで小さな音。
しゃりん。
4人は黙った。
ミカが目だけでリュウを見る。
リュウも、今度は何も言わなかった。
サチがナオの袖を軽くつかむ。
「今の、鈴?」
ナオは廊下の方を見た。
古い旅館では、音が響く。
宿泊客の足音も、廊下のきしみも、どこかの部屋の物音も、大きく聞こえる。
そう説明することはできる。
できるが、さっき路地で聞いた音と、同じに聞こえた。
しゃりん。
また小さく鳴った。
ミカが小声で言う。
「同じ音じゃん」
誰もすぐには答えなかった。
廊下の向こうから、女将の声が聞こえた。
「失礼しました、お茶をお持ちしました」
4人は同時に少し息を吐いた。
襖が開き、女将がお盆を持って入ってきた。
「夜のお茶です。よろしければどうぞ」
柔らかい声だった。
ミカは少しぎこちなく笑う。
「あ、ありがとうございます」
女将が部屋を出ていくと、リュウが小さく息を吐いた。
「人だったな」
「人だった」
ミカも頷いた。
「でも、鈴みたいな音したよね?」
「お盆の何かじゃないか」
「そうかな」
サチはお茶を見ながら言った。
「今日は、そういうことにしよう」
「サチさん、それちょっと怖い」
「私も少し怖い」
ナオはお茶に手を伸ばした。
温かい湯呑みが、手の中で現実の重さを持っていた。
窓の外には秩父の夜がある。
山に囲まれた町。
祭りの記憶。
古い神社。
赤い髪飾りの女の子。
それらが全部、はっきりつながっているわけではない。
けれど、同じ町の中にある。
同じ夜の中にある。
しばらくして、旅館の外から、遠くの音が聞こえた。
太鼓のようにも聞こえる。
車の低い振動のようにも聞こえる。
どん。
どん。
ミカが湯呑みを持ったまま固まった。
「今度は何?」
リュウが耳を澄ませる。
「車じゃないか?」
「車ってあんな音する?」
「する時もある」
「リュウさん、今日ずっと苦しいよ」
「分かってる」
サチは窓の外を見た。
「祭り囃子みたいに聞こえた」
ナオは静かに答えた。
「今は夜祭の時期じゃない」
「だよね」
「でも、そう聞こえる音はある」
「ナオくん、それは説明になってるようでなってない」
「分からないからな」
ミカが布団の方へ移動した。
「今日はもう寝よう。起きてると全部怖い」
「それがいい」
リュウも頷いた。
布団を敷き、部屋の明かりを少し落とした。
旅館の夜は、完全な静けさにはならない。
どこかの部屋の音。
廊下のきしみ。
外を走る車。
遠くの山に吸い込まれていくような風。
その中に時々、祭りの太鼓のような音が混じる気がした。
聞こうとすると消える。
意識を逸らすと、また遠くで鳴る。
どん。
どん。
そして一度だけ、廊下の向こうで鈴が鳴った。
しゃりん。
ミカが布団の中から小さく言った。
「聞こえた?」
誰もすぐには答えなかった。
ナオは天井を見ていた。
赤い髪飾り。
小さな鈴。
神社。
路地。
旅館の廊下。
全部が偶然かもしれない。
同じ子ではないかもしれない。
音も、ただの建物の響きかもしれない。
それでも。
ナオは目を閉じる前に、心の中で思った。
秩父は、まだ何かを隠している。
明日は、山の方へ向かう。
三峯。
お犬様信仰。
山の奥にある神社。
怖がるためではない。
ちゃんと見るために行く。
廊下の向こうで、床が一度だけ鳴った。
きし。
その後は、何も聞こえなかった。
古い旅館の夜は、静かに深くなっていった。




