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あの場所へ  作者: ナオ
5/13

5話 あしがくぼから秩父の夜へ

 奥むさし休暇の森の朝は、窓の外の緑がやけに近かった。


 ナオはカーテンを少しだけ開けて、外を見ていた。


 昨日の夜、宿の外で聞いた風の音は、朝になるとただの森の音に戻っていた。


 鳥の声。

 遠くを走る車の音。

 国道299号の気配。

 夜には少し怖く聞こえたものが、朝になると旅の音になる。


 サチはベッドの端に座り、髪を整えながら言った。


「ナオくん、朝からまた外見てる」


「いい朝だからな」


「今日はどこまで行くの?」


「秩父市街まで行く」


「けっこう進むね」


「途中であしがくぼに寄る、道の駅があるから、そこで休憩しようと思ってる」


 サチの手が少し止まった。


「あしがくぼって、前に氷柱見に行ったところ?」


「そう」


「懐かしいね」


 ナオは頷いた。


 とても寒かった冬の日。

 サチと見に行った、あしがくぼの氷柱。


 山の斜面に広がる氷が、ライトに照らされて青く白く浮かび上がっていた。


 寒かった。

 足元も冷たかった。

 それでもサチは、帰ろうとは言わなかった。


「サチ、あの時ずっと寒いって言ってたな」


「寒かったよ、本当に」


「でも帰らなかった」


「きれいだったからね」


 サチは少し笑った。


「ナオくん、あの時も氷ばっかり見てたよね」


「見たかったからな」


「私は途中から温かいもの探してた」


「結局、帰りに肉まん食べたな」


「そう、それが1番覚えてるかも」


 ナオは笑った。


 氷柱より肉まん。

 それも、サチらしい思い出だった。


 部屋を出ると、リュウとミカは廊下で待っていた。

 リュウは少し眠そうだったが、昨日の酒は残っていなさそうだった。


 ミカは昨日の宿と夕食でだいぶ機嫌が戻ったのか、朝から表情が明るい。


「ナオさん、今日は怖いところ行く?」


「今日は道の駅に寄る」


「最高じゃん」


 ミカは即答した。


 リュウが笑う。


「道の駅って言葉だけで安心してるな」


「当たり前じゃん、道の駅は安全、明るい、食べ物ある」


「3拍子そろってるな」


「怖い場所に足りないものが全部ある」


 サチが横から言った。


「ミカちゃん、今日はあしがくぼだって」


「あしがくぼ?」


「冬に氷柱がきれいなところ」


「氷柱?」


 ミカが目を丸くした。


 リュウが少し反応する。


「あしがくぼって、国道299号沿いの道の駅だろ」


「そう」


 ナオが答えると、リュウは少し懐かしそうに頷いた。


「あの辺も通ったな、武甲山の時」


「通った」


 ミカがリュウを見る。


「また山の話?」


「今日は登らない」


「ならいい」


「判断が早いな」


「登るか登らないかは大事」


 4人はチェックアウトを済ませ、駐車場へ出た。


 朝の空気は少し冷たく、車のフロントガラスには森の影が薄く映っていた。


 荷物を積み、ナオはエンジンをかけた。


 車は宿を出て、国道299号へ戻った。


 飯能の山側の道は、昨日よりも少し深く見えた。


 道の両側に緑が迫り、カーブの先に小さな集落が見える。


 窓の外には、山の斜面と川の気配。


 川越の町並みとも、大宮の参道とも違う。


 旅が西へ進んでいることが、はっきり分かる景色だった。


「山っぽくなってきたね」


 サチが窓の外を見ながら言った。


「ここから秩父に向かう感じがいいんだよ」


 ナオはハンドルを握ったまま答えた。


「国道299号は、町から山に入って、また秩父の町へ抜ける感じが分かりやすい」


 ミカが後ろから少し身を乗り出した。


「ナオさん、そういう道の説明は普通に好き」


「怖くないからか?」


「うん、山の話はちょっと怖いけど、道の話はいい」


 リュウが笑った。


「境界線が細かいな」


「大事だよ、怖い話と旅の話は違う」


「この旅、けっこう混ざってるけどな」


「そこが問題なんだよ」


 しばらく走ると、ナオがふと思い出したように言った。


「あしがくぼの近くで、前に小熊を見たことがある」


 車内の空気が、少しだけ変わった。


 ミカがすぐに反応する。


「え、小熊?」


「うん」


「本物の?」


「本物」


「ナオさん、それ朝の車内でする話?」


「思い出したから」


「思い出しても黙ってていいやつだよ」


 サチも驚いたようにナオを見る。


「それ、私も初めて聞いたかも」


「話してなかったか」


「聞いてたら覚えてるよ、熊でしょ?」


 リュウも後ろから言った。


「俺も聞いてないな」


「そうか」


 ナオは前を見たまま、ゆっくり話した。


「芦ヶ久保から登れる山に行った時、登山道の少し先の斜面で黒っぽいものが動いた、最初は犬かと思ったけど、違った」


「怖い怖い怖い」


 ミカが小さく言った。


「小熊自体より、近くに親がいるかもしれない方が怖い」


「もっと怖くするじゃん」


「だからすぐ離れた、走らず、音を立てすぎず、でも止まらず」


 サチが真面目な顔になる。


「ナオくんでも緊張した?」


「した、熊は別だろ」


「そこ普通でよかった」


 ミカが胸に手を当てる。


「ナオさんが熊見て観察し始めたらどうしようかと思った」


「さすがにしない」


「本当に?」


「本当に」


「その本当は信じる」


 ナオはその時の感覚を思い出していた。


 登山道の脇。


 木漏れ日。


 落ち葉の音。


 斜面を横切る小さな黒い影。


 山に入っているのは自分の方だ。


 そう分かった瞬間、観光でも散歩でもなく、そこが生き物の場所なのだと強く感じた。


「山って、道があると人間の場所みたいに思えるけど、本当は入らせてもらってるだけなんだよな」


 ナオが言うと、車内が少し静かになった。


 リュウが窓の外を見ながら頷く。


「それは分かる気がする」


 ミカは山の方を見て、少しだけ眉を寄せた。


「怪談じゃないのに怖い」


「現実の方が怖い時もある」


「ナオさん、それ今日の名言みたいに言わないで」


 そんな話をしているうちに、道の駅 果樹公園あしがくぼが見えてきた。


 国道299号沿いにあるその場所は、山道の途中に現れる安心できる休憩所のようだった。


 駐車場。


 売店。


 トイレ。


 食べ物の匂い。


 人の声。


 ミカの顔が分かりやすく明るくなった。


「着いた、道の駅」


「助かったな」


 リュウが言う。


「助かった、小熊の話でちょっと山が怖くなってた」


 車を降りると、山の空気が近かった。


 けれど人の気配がある。


 それだけで、さっきまでの山道の緊張が少しほどけた。


 サチは周囲を見回し、懐かしそうに言った。


「ここ、やっぱり来たことあるね」


「氷柱の時だな」


 ナオが答える。


 ミカがすぐに聞いた。


「氷柱って、どこにあるの?」


「冬になると、ここの近くの山の斜面に氷柱ができるんだ、ライトアップもあって、夜はかなりきれいだよ」


 サチが嬉しそうに続ける。


「すごく寒かったけど、本当にきれいだった、山の中に氷の壁があるみたいで」


「サチさんとナオさんで来たの?」


「うん、2人で」


 ミカはリュウを見る。


「リュウさん、そういうところ連れてってくれたことない」


「急に俺に来たな」


「きれいなところ、私も行きたい」


「じゃあ冬に来るか」


「寒い?」


「寒いだろ」


「寒いの嫌だけど、行きたい」


「難しいな」


 サチが笑った。


「寒いけど、見たら来てよかったって思うよ」


「サチさんが言うなら、ちょっと行きたい」


 4人は売店を見て回った。


 地元の野菜や果物、秩父らしい土産物が並んでいる。


 リュウは酒の棚を見つけて立ち止まり、ミカは甘いものの方へ流れていった。


 ナオとサチは、加工品や菓子を見ながら、いくつか買うものを選んだ。


「これ美味しそう」


 サチが言う。


「買うか」


「こっちも良さそう」


「買うか」


「ナオくん、止めないね」


「旅だからな」


「便利な言葉」


 外の軽食スペースで少し休むことにした。


 ナオとサチはしっかり食べるつもりで選び、リュウとミカは軽くと言いながら、結局それなりに頼んだ。


 席に座ると、国道を走る車と、その向こうの山が見えた。


 ミカは食べ物を前に、ようやく完全に安心したようだった。


「道の駅っていいね」


「今日何回目だ」


 リュウが言う。


「何回でも言う、道の駅はいい」


 サチが笑いながら頷いた。


「私も好き、旅の途中って感じがする」


 ナオはスマホを取り出し、昔の写真を探した。


 少し時間がかかったが、氷柱の写真は残っていた。


 夜のあしがくぼ。


 ライトに照らされた氷柱。


 白い息を吐くサチの横顔。


 サチは画面を覗き込んで、少し驚いた。


「これ残ってたんだ」


「残ってる」


「私、若い」


「そんなに変わらないだろ」


「こういう時だけ優しいね」


 ミカが写真を見て目を丸くした。


「すご、これ本当に埼玉?」


「横瀬町だな」


「めちゃくちゃきれいじゃん」


「寒いぞ」


 サチが言う。


「寒くてもこれは見たいかも」


 リュウも写真を見ながら言った。


「冬にもう1回ここ来るのもありだな」


「ありだな」


 ナオは答えた。


 その時、写真フォルダの端に別の写真が見えた。


 登山道。


 木々の間。


 斜面の奥に、ぼんやりとした黒い影。


 ナオは指を止めた。


 サチが気づく。


「それ、小熊の時?」


「たぶん」


 写真は鮮明ではなかった。


 見ようによってはただの影にも見える。


 けれどナオは、その時の緊張をはっきり覚えていた。


 ミカは画面を見て、少し体を引いた。


「これ、怖い」


「はっきり写ってないけどな」


「はっきり写ってないから怖いんだよ」


 リュウも覗き込む。


「これ、よく撮ったな」


「撮ろうと思って撮ったわけじゃない、何枚か撮って、後で見たら写ってた」


「それ怪談みたいな言い方じゃん」


 ミカがすぐに言った。


「本当にそういうのやめて」


 ナオはスマホをしまった。


「今日は登らない」


「絶対登らないで」


「登らない」


 あしがくぼでの休憩は、思っていたより長くなった。


 食べて、買って、昔の写真を見て、山の話をする。


 怖いことは何も起きていない。


 それでも、山の気配はすぐそばにあった。


 道の駅の安心感の向こう側に、人が見ていない斜面がある。


 そこに、動物の道がある。


 車に戻る途中、ミカが聞いた。


「ナオさん、この後どこまで行くの?」


「秩父市街まで行く」


「今日もう?」


「ここまで来たら近い、明日、朝から秩父を歩きたいからな」


 サチが頷いた。


「あしがくぼで休んだし、その方が良さそうだね」


 リュウが窓の外を見た。


「西武秩父駅の方か?」


「そう、駅前の温浴施設で風呂に入って、食事してから、近くの古い旅館に泊まる」


 ミカの顔が明るくなる。


「風呂ある?」


「ある」


「ご飯は?」


「ある」


「古い旅館って怖くない?」


「普通の旅館だ」


「ナオさんの普通、ちょっと信用ならないんだけど」


 サチが笑う。


「でも、お風呂とご飯が先にあるから大丈夫だよ」


「それなら行ける」


 車は道の駅の駐車場を出て、再び国道299号へ戻った。


 山は、さっきよりも近い。


 道の先に、秩父の町へ降りていく気配がある。


 そして遠くに、独特の形をした山が見え始めた。


 リュウが少し身を乗り出した。


「ナオ」


「うん」


「あれ、見えてきたんじゃないか」


 ナオは視線を上げた。


 山並みの中に、片側が削られたような強い輪郭。


 秩父の町を見下ろすように立つ山。


 武甲山だった。


「見えてきたな」


 サチが前を覗き込む。


「どれ?」


「あの形が少し違う山」


「あ、あれ?」


「そう」


 ミカも後ろから見た。


「本当だ、なんか目立つ」


 リュウは懐かしそうに笑った。


「久しぶりだな」


「だな」


 ナオは短く答えた。


 前にリュウと2人で登った山。


 朝早く車を出して、秩父へ向かい、登り始めた時は2人ともまだ余裕があった。


 途中からリュウの口数が減った。


 ナオも平気そうに見えたかもしれないが、実際はかなりきつかった。


 それでも、山頂から見た秩父の町は忘れられなかった。


 町の屋根。


 道路。


 遠くの山並み。


 そして、人に削られてもなおそこに立つ山。


 リュウが言った。


「俺、山頂で座り込んだよな」


「座ってたな」


「お前は立ったまま景色見てた」


「座ると立ちたくなくなる気がした」


「そういう理由だったのかよ」


 サチが笑う。


「リュウさん、登山きつかった?」


「きつかったですよ、いや、きつかった」


 ミカがすぐに言った。


「リュウさん、サチさんにだけちょっと敬語になるの面白い」


「年上だからな」


「私には?」


「ミカには普通」


「知ってる」


 武甲山が見える場所に少しだけ車を停め、4人は外に出た。


 風が吹いていた。


 飯能の森とは違う、少し乾いた風だった。


 武甲山は近かった。


 山肌の線が見える。


 削られた部分が、空の下で白っぽく浮かんでいる。


 ミカは黙って山を見ていた。


「本当に大きいね」


「秩父に来た感じがするだろ」


 ナオが言うと、ミカは小さく頷いた。


「怖いっていうより、すごい」


 リュウが少し嬉しそうに言った。


「ミカがそう言うの珍しいな」


「うるさいな、すごいものは分かるよ」


 サチはナオの横に立った。


「ナオくん、ここに来たかったんだね」


「うん」


「怖い場所じゃなくても?」


「ここは、俺にとってはちゃんとした場所だから」


 サチはそれ以上聞かなかった。


 ナオは武甲山を見ていた。


 山は何も言わない。


 ただ、そこにある。


 人が道路を作り、町を作り、山を削り、そのふもとで暮らしている。


 それでも山はそこにある。


 人が山を見ているつもりで、本当は山の方がずっと長く人を見てきたのかもしれない。


 そんなことを、前にリュウと登った時も考えた。


「写真撮ろうぜ」


 リュウが言った。


 4人は武甲山を背景に並んだ。


 川越の時の鐘の前で撮った写真とは、空気が違った。


 観光地の明るさではなく、山の前に立っている感じがある。


 写真には、特に変なものは写っていない。


 ただ、4人と武甲山が写っていた。


 ミカが画面を確認して言った。


「今日は変な写真じゃないね」


「よかったな」


 リュウが言う。


「うん、本当に」


 再び車に乗り、秩父市街へ向かった。


 町に入ると、山に囲まれているのに人の生活がしっかりあるのが分かった。


 駅の案内。


 店の看板。


 観光客。


 住宅。


 そして、少し顔を上げると山が見える。


 ナオは西武秩父駅前へ車を進めた。


 駅前の温浴施設は明るく、人の出入りもあった。


 ミカは駐車場で車を降りるなり、安心したように息を吐いた。


「駅前、明るい、助かる」


「風呂入るぞ」


 リュウが言う。


「入る、絶対入る」


 サチも嬉しそうに建物を見上げた。


「ここでお風呂入れるのいいね」


「今日は風呂と飯で落ち着いてから、旅館に行く」


 ナオが言うと、ミカが少し眉を上げた。


「その古い旅館がちょっと気になるんだけど」


「怖い宿じゃない」


「それ、信じるよ?」


「信じていい」


 4人は温浴施設に入った。


 男湯と女湯に分かれる前、リュウが軽く肩を回した。


「山見た後の風呂はいいな」


「登ってないけどな」


 ナオが言う。


「見ただけでも疲れた気がする」


「それは分かる」


 風呂は広く、旅の疲れをゆっくりほどいてくれた。


 ナオは湯に浸かりながら、さっき見た武甲山を思い出していた。


 リュウは隣で、深く息を吐いた。


「秩父まで来たな」


「ああ」


「前に2人で来た時と、全然違うな」


「4人だからな」


「だな」


 リュウは少し黙ってから言った。


「悪くないな、こういうの」


「悪くないどころか、かなりいいだろ」


「まあな」


 女湯では、サチとミカが湯に浸かっていた。


 ミカは肩までしっかり沈み、目を閉じている。


「生き返る」


「ミカちゃん、今日けっこう怖がってたもんね」


「小熊と山の圧が強かった」


「でも武甲山、すごかったね」


「うん、怖いけど、すごかった」


 サチは湯気の向こうを見た。


「ナオくんとリュウさん、前にあそこ登ったんだって思うと、ちょっといいよね」


「分かる、男2人の昔の思い出って感じ」


「ミカちゃん、リュウさんのこと少し見直した?」


「少しじゃなくて、けっこう」


「言ってあげたら喜ぶよ」


「調子に乗るから、ちょっとだけ言う」


 風呂を出た後、4人は食事を取った。


 リュウとミカは軽く飲み、ナオとサチはしっかり食べた。


 温浴施設の明るさと人の声で、昼間の山の緊張はだいぶ薄れていた。


 けれど完全には消えない。


 食後、外へ出ると、秩父の夜が待っていた。


 駅前は明るい。


 けれど、少し離れれば山の黒い影がある。


 サチが上着の前を合わせた。


「夜になると、やっぱり空気変わるね」


「山が近いからな」


 ナオが答える。


 リュウがスマホで旅館の場所を確認した。


「ここから近いな」


「荷物があるから車で行く」


 ミカが小さく聞いた。


「古い旅館って、どんな感じ?」


「昔からある普通の旅館」


「普通って言った」


「普通だよ」


「廊下がギシギシ鳴るやつ?」


「たぶん鳴る」


「そこは否定してよ」


 サチが笑った。


「古い旅館なら鳴るよ、きっと」


「サチさんまで」


 少し移動して、4人は秩父市街の古い旅館へ向かった。


 駅前の明るさから少し離れると、町の音が落ち着いた。


 古い建物が並ぶ通りに、その旅館はあった。


 木造の玄関。


 少し年季の入った看板。


 磨かれたガラス戸。


 怖い宿というより、長く人を泊めてきた宿だった。


 女将は親切で、4人を普通に迎えてくれた。


 廊下を歩くと、床がきし、と小さく鳴った。


 ミカがすぐにリュウの袖をつかむ。


「鳴った」


「古いからな」


「分かってるけど鳴った」


 ナオは廊下の奥を見た。


 木の匂い。


 畳の匂い。


 古い旅館特有の、時間が少しだけゆっくり流れているような空気。


 部屋に入ると、窓の外には秩父の夜があった。


 遠くに山の黒い輪郭が見える。


 武甲山かどうかは、夜の中でははっきり分からない。


 ただ、山がそこにあることだけは分かった。


 リュウは荷物を置くなり、畳に座った。


「これはこれでいいな」


「うん」


 ミカも部屋を見回した。


「怖いけど、嫌な感じではない」


「古いだけだよ」


 サチが言う。


「古いだけって、けっこう大事だね」


 ナオは窓際に立った。


 外は静かだった。


 川口の足音。


 外環横の水音。


 川越の鐘。


 飯能の風。


 あしがくぼの小熊。


 武甲山の記憶。


 いろいろなものが、旅の中に積み重なっている。


 今夜は、古い旅館の床が鳴る音がそこに加わるのかもしれない。


 ミカが布団の上に座りながら言った。


「ナオさん、今日は何も起きないよね?」


「起きないと思う」


「思う、なんだ」


「古い建物は音がするからな」


「それを先に言わないで」


 リュウが笑った。


「ミカ、今日は山も登ってないし、怪談の場所にも行ってないぞ」


「でも旅館の廊下が鳴った」


「それは鳴る」


「分かってるけど」


 サチがミカの隣に座った。


「今日は移動の日だったね」


「うん、怖いっていうより、山の日だった」


「山の日、いいね」


 ナオは窓の外を見たまま頷いた。


 今日は怪異らしい怪異はなかった。


 けれど、ただの移動日でもなかった。


 あしがくぼの氷柱の記憶。


 小熊を見た登山道。


 武甲山を前にしたリュウの横顔。


 西武秩父駅前の湯。


 そして、古い旅館の夜。


 秩父は、もう始まっていた。


 ナオは静かに窓を閉めた。


 明日は朝から、秩父の町を歩く。


 山に囲まれたこの町に残る話を、少しずつ見ていく。


 布団の準備をしながら、リュウが言った。


「ナオ、明日はどこから行く?」


「まずは秩父神社の方かな」


「神社か」


「怖がる場所じゃない、ちゃんと見る場所だ」


 ミカが少しだけ安心したように息を吐いた。


「それならいい」


 サチが笑う。


「ミカちゃん、今日はよく頑張ったね」


「小熊と山と古い旅館、全部頑張った」


「確かに」


 廊下の向こうで、きし、と床が鳴った。


 4人は一瞬だけ黙った。


 すぐに、遠くで誰かの声がした。


 宿泊客か、旅館の人か。


 ミカは小さく息を吐いた。


「人だった」


「人だな」


 ナオが答える。


「今日は人で終わって」


「たぶん終わる」


「たぶん禁止」


 リュウが笑い、サチも笑った。


 古い旅館の夜は、静かに更けていく。


 外には秩父の山。


 中には畳の匂いと、木のきしむ音。


 怖いものは何も出てこない。


 それでも、ただの安心とは違う。


 この町には、まだ見ていないものがある。


 まだ聞いていない話がある。


 ナオは布団に入り、天井の木目を見上げた。

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