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あの場所へ  作者: ナオ
4/14

4話 飯能の山道へ

 川越の朝は、前の夜が嘘みたいに普通だった。


 ホテルの窓から見える空は薄く晴れていて、通りにはすでに車が走っている。


 ナオはカーテンを少し開けたまま、テーブルの上のスマホを見ていた。

 サチが撮った、夜の時の鐘の写真。

 表示されている撮影時刻だけが、ほんの数分ずれている。


 それ以外は何もおかしくない。


 変な影もない。

 誰かが写っているわけでもない。

 ただ、夜の鐘楼が静かに立っているだけだった。


 それなのに、ナオはその写真を何度も見返していた。


「ナオくん、また見てる」


 ベッドの端で髪を整えていたサチが言った。


「見てるな」


「怖くないの?」


「怖いっていうより、気になる」


「ナオくんはだいたいそれだよね」


 サチは少し笑って、バッグの中を確認した。


「今日は飯能だよね」


「うん、川越から飯能へ行く」


「宿、良さそうなんだよね?」


「良さそうだよ」


「じゃあ今日はそれがメイン」


「一応、噂もある」


「一応でいいよ、一応で」


 サチはそう言って立ち上がった。

 ナオはスマホをしまい、荷物を持った。

 部屋を出ると、廊下の向こうからリュウとミカの声が聞こえた。


「リュウさん、昨日の鐘の話、朝からしないでよ」


「してないだろ」


「顔がしてた」


「顔で分かるのかよ」


「分かるよ、そういう顔だった」


 リュウは部屋の前で肩をすくめ、ミカは少し眠そうな顔をしていた。


 それでも昨日の井戸の翌朝よりは、かなり元気そうだった。


「おはよう」


 ナオが声をかけると、ミカがすぐに言った。


「ナオさん、今日は宿メインだよね?」


「宿メインだな」


「怖いところメインじゃないよね?」


「今日は宿が大事」


「よし、信じる」


 リュウが笑う。


「ミカ、毎朝確認してるな」


「確認しないと、いつ怖いところに連れてかれるか分かんないじゃん」


「まあ、ナオだからな」


「リュウさんも人ごとみたいに言わないで、一緒に行く側だから」


「俺はそこそこ楽しんでる」


「そこそこ禁止って言ったじゃん」


 サチがミカの横に並んで笑った。


「ミカちゃん、今日はビュッフェらしいよ」


「それ聞いて朝から頑張れる」


「大浴場もあるって」


「もうそれでいい、怪談なしでそこだけでいい」


 ナオは少し笑った。


「怪談なしではないかもしれない」


「ほら出た」


 ミカがすぐにリュウの腕を叩いた。


「リュウさん、ほら出たよ」


「出たな」


「止めてよ」


「俺が止められると思うか?」


「思わない」


「即答かよ」


 4人はホテルを出て、駐車場へ向かった。


 白いSUVの屋根には、朝の光が薄く反射している。


 荷物を積み、ナオが運転席へ乗る。

 サチが助手席。

 後ろにリュウとミカ。


 もう自然に決まった席だった。


 ナオはナビに飯能方面の宿を入れた。

 画面に表示されたルートは、川越から日高方面を抜け、飯能へ向かっている。


 埼玉の東から西へ、少しずつ町の景色が変わっていく。


 SUVは川越の市街地を抜け、郊外へ入っていった。

 建物の高さが低くなり、道沿いに畑や住宅が増える。

 車の窓から見える空が、少し広くなった。

 ミカが後部座席で伸びをした。


「なんか、昨日と全然違う景色になってきた」


「川越から西に行くと、だんだん山が近づくからな」


 ナオが答える。


「山かあ」


 ミカの声に、少しだけ不安が混ざる。


 リュウが窓の外を見ながら言った。


「飯能はまだ入口だろ、秩父ほどじゃない」


「リュウさん、山に詳しい風に言ってる」


「一応、武甲山登った男だからな」


「その話、昨日もしてたね」


 サチが振り返った。


「ナオくんとリュウさん、2人で登ったんだよね」


「そう」


 ナオは前を見たまま答えた。


「秩父に行く途中で、武甲山の近くを通る、その時にちゃんと見えると思う」


 ミカが少し興味を持ったように身を乗り出した。


「そんなに目立つ山なの?」


「かなり目立つ、秩父の町に入ると、あの山がどんと見える」


 リュウが頷く。


「ナオ、山頂でやたら静かだったよな」


「景色見てただけだろ」


「いや、あれは考え込んでた」


「そうだったか?」


「そうだったよ、俺が腹減ったって言っても、しばらく返事しなかったし」


 サチが笑った。


「ナオくんらしい」


「登った時、どんな感じだったの?」


 ミカが聞いた。


 リュウは少し懐かしそうに窓の外を見た。


「疲れた」


「そこから?」


「いや、ほんとに疲れたんだよ、ナオは妙に平気そうな顔してたけど」


「平気ではなかった」


 ナオが言う。


「嘘つけ、山頂で風に吹かれながら、なんか悟ったみたいな顔してただろ」


「そんな顔はしてない」


「してた」


 サチがナオの横顔を見て言った。


「見たかったな、それ」


「大したものじゃないよ」


 ナオは静かに答えた。


 けれど、頭の中にはあの時の風が戻っていた。

 武甲山の山頂。

 秩父の町を見下ろす場所。

 削られた山肌。

 遠くまで続く山並み。

 人が暮らす町と、人が削ってきた山。


 その両方が同じ景色の中にあることが、不思議だった。


 美しいとも思った。

 少し怖いとも思った。

 リュウが後ろから言う。


「あの時、ナオが言ったんだよな」


「何を?」


「山って、見られてる感じがするって」


 サチがナオを見る。


「そんなこと言ったの?」


「言ったかもしれない」


 ミカが少し肩をすくめた。


「ナオさん、それ普通に怖いやつじゃん」


「山に登ると、そういう感覚になる時があるんだよ」


「私はならなくていいかな」


 リュウが笑う。


「ミカは山より宿だろ」


「うん、私は宿とご飯とお風呂でいい」


「今日はそれで合ってる」


 ナオはそう言って、少しだけアクセルを踏んだ。

 日高方面を抜けると、道の空気がさらに変わった。


 街の密度がゆるくなり、緑が近くなる。

 道路標識には飯能の文字が出始める。

 やがて、国道299号方面へと入っていった。


 道はまっすぐではなく、少しずつ山へ寄っていく。


 飯能市街を抜ける頃には、空気がほんの少し冷たく感じられた。


 サチが窓の外を見ながら言った。


「ここから山っぽくなるんだね」


「飯能は、埼玉の山の入口みたいな感じだな」


 ナオが答えた。


「ここから秩父へ向かう国道299号が続いてる」


「国道299号って、なんか旅っぽいね」


「旅っぽい道だな」


 ミカが前の座席の間から顔を出す。


「今日の宿って、どの辺?」


「もう少し先、国道299号沿い」


「山の中?」


「山の入口くらい」


「入口ならまだ大丈夫」


 リュウが笑う。


「境界線が細かいな」


「大事だよ、山の入口と山の中は違う」


「違うか?」


「違う」


 少し走ると、道沿いに緑が濃くなってきた。


 川の気配も近い。


 車窓に木々の影が流れ、町の音が遠ざかる。


 やがて、ナオがウインカーを出した。


「着くぞ」


 白いSUVは、国道299号沿いの宿へ入っていった。


 看板には、奥むさし休暇の森、と書かれていた。


 実在の施設ではない。

 けれど、森に囲まれたその宿は、名前通りの雰囲気を持っていた。

 駐車場の向こうに、木々が広がっている。


 建物は新しすぎず、古すぎず、落ち着いていた。

 怖い宿ではない。

 むしろ、普通に泊まってみたくなる宿だった。


 ミカが車を降りて、すぐに言った。


「ここ、いいじゃん」


「だろ」


 ナオが答える。


「ナオさん、こういうのだけ選ぶ才能もあるんだね」


「こういうのだけ?」


「怖いのも混ぜるから」


 サチが宿の入口を見ながら嬉しそうに言った。


「いいね、こういう宿好き」


 リュウは荷物を持って、周囲を見回した。


「夜、飲むのも良さそうだな」


「リュウさん、結局そこ」


「宿に来たら飲むだろ」


「まあ、それはそう」


 チェックインを済ませると、4人は部屋へ向かった。


 廊下には木の香りが少し残っている。

 窓の外には緑が見えた。

 部屋は広すぎないが、落ち着いていた。

 畳ではなくベッドの部屋だったが、窓際には小さなテーブルと椅子があり、そこから木々が見える。


 サチは荷物を置くなり、窓に近づいた。


「いいね、これは当たり」


「だな」


 ナオも窓の外を見た。


 木々の向こうに、川の音らしきものがわずかに聞こえる。


 昼のうちは、ただ気持ちいい音だった。

 リュウが部屋に入ってすぐ、パンフレットを開いた。


「夕飯、ビュッフェだな」


 ミカがすぐに寄ってくる。


「何ある?」


「地元野菜、天ぷら、鉄板焼き、寿司っぽいの、デザート」


「勝った」


「何にだよ」


「昨日の鐘に」


 サチが笑った。


「ミカちゃん、分かる、怖いものはご飯で上書きしよう」


「そう、上書き大事」


 ナオはパンフレットの別ページを見た。


 大浴場。

 木を使った内風呂。

 広い窓。

 森を見ながら入れる湯。


 温泉とまでは書いていないが、十分だった。


「風呂も良さそうだな」


 リュウが言う。


「飯の前に入るか?」


 サチが考える。


「私は先に少し休みたい」


「私も」


 ミカがベッドに腰を下ろした。


「移動しただけなのに眠い」


「昨日も夜更かしだったしな」


 リュウが言った。


「リュウさん、酒飲んでただけじゃん」


「旅の夜だからな」


「それ毎回言いそう」


 ナオは少しだけ笑い、窓の外を見た。


 国道299号沿い。

 飯能の山の入口。

 ここから先へ進めば、秩父に近づく。


 けれど今日は、無理に進まない。

 宿を楽しむ。

 飯を食べる。

 風呂に入る。


 怪談を追う旅だからといって、毎晩暗い場所へ行く必要はない。


 むしろ、こういう普通の良い夜があるから、次の闇が深く見える。


 夕方になるまで、4人は部屋でゆっくり過ごした。


 サチは持ってきた服を畳み直し、ミカはスマホで宿の写真を撮った。


 リュウはすでに売店で買った地元の酒を確認していた。


 ナオはPDFを少しだけ開いたが、すぐに閉じた。

 今日の主役は、PDFではない。

 17時を過ぎる頃、窓の外の緑が少し暗くなってきた。


 4人は夕食会場へ向かった。

 ビュッフェダイニングは明るく、思っていたより広かった。


 料理台には小鉢、サラダ、温かい料理、揚げたての天ぷら、肉料理、魚料理、デザートが並んでいる。


 鉄板の前では、料理人が肉を焼いていた。

 湯気と香りが立ちのぼる。

 ミカの顔が一気に明るくなった。


「これはやばい」


「怖い話の時と声が違うな」


 リュウが言う。


「当たり前じゃん、こっちは幸せなやつ」


 サチも目を輝かせていた。


「ナオくん、天ぷらある」


「あるな」


「揚げたてっぽい」


「食べよう」


「食べよう」


 リュウとミカは飲み物を取りに行き、ナオとサチは最初から料理を多めに取った。


 席に戻ると、ミカがナオの皿を見て笑った。


「ナオさん、最初から本気じゃん」


「本気だな」


「サチさんも本気」


「ビュッフェは本気で行かないともったいないよ」


「名言っぽい」


 リュウはビールを1口飲んで、満足そうに息を吐いた。


「いいな、ここ」


「でしょ」


 ミカも軽く飲みながら頷く。


「ここは怖くない、最高」


「宿は怖くない」


 ナオが言うと、ミカはじっと見た。


「その言い方、外は怖いみたいに聞こえる」


「今日は外に出ない」


「絶対?」


「絶対」


「それは信じる」


 サチが天ぷらを食べながら言った。


「ミカちゃん、ナオくんが絶対って言った時は、だいたい守るよ」


「だいたい?」


「うん、だいたい」


「そこ濁さないで」


 食事は楽しかった。


 ナオとサチはよく食べた。

 リュウとミカは酒を飲みながら、料理を少しずつ楽しんだ。

 途中、ミカがデザートの前でかなり迷い、結局3種類取ってきた。


 リュウがそれを見て笑う。


「ミカ、結局かなり食ってるな」


「甘いものは別」


「さっきも聞いたぞ、それ」


「大事なことは何回も言う」


 サチが頷いた。


「分かる」


「サチさんとは食の話なら仲良くなれる」


「怖い話でも仲良くなろうね」


「それは少しずつで」


 夕食の後、4人は大浴場へ向かった。


 男湯と女湯に分かれる前、ミカが少しだけ不安そうに廊下の奥を見た。


「こういう宿の廊下、夜になると急に雰囲気出るよね」


「今日は出さなくていい」


 サチが言う。


「だね」


 ナオとリュウは男湯へ入った。


 脱衣所には他の宿泊客もいて、普通の旅館の空気だった。


 浴場に入ると、木の香りがした。

 大きな窓の向こうには、暗くなり始めた森が見える。


 湯気の奥で、石の浴槽が静かに光っていた。

 リュウが肩まで湯に浸かって、深く息を吐いた。


「これはいい」


「いいな」


 ナオも湯に浸かり、窓の外を見た。


 森はもう夜に近い。

 人の声と湯の音があるから怖くはない。

 それでも、暗い木々はそこに立っていた。

 リュウが隣で言った。


「飯能って、思ったよりいいな」


「近いけど、ちゃんと山の入口って感じがするだろ」


「するな」


「ここから国道299号で秩父へ抜けると、もっと変わる」


「武甲山か」


「うん」


 少し沈黙があった。


 リュウは湯の中で肩を回しながら言った。

 

「あの時さ、なんで武甲山登ろうと思ったんだっけ」


「お前が運動不足っていうか、何か始めたいって言ったからじゃなかったか」


「そうだっけ?」


「たぶん」


「俺、そんな余計なこと言ったのか」


「言ったな」


 リュウは苦笑した。


「でも、登ってよかったな」


「そうだな」


「山頂で見た秩父、なんか覚えてるわ」


 ナオは窓の外を見たまま頷いた。


「俺も覚えてる」


「今度は4人で近くを通るんだな」


「ああ」


「登らないよな?」


「今回は登らない」


「ミカが聞いたら安心するな」


「疲れるからな」


「サチさんも食べ物ないと怒りそうだし」


「怒りはしないだろ」


「いや、分からんぞ」


 ナオは少し笑った。


 その頃、女湯ではサチとミカが湯に浸かっていた。


 ミカは肩までしっかり浸かり、目を閉じている。


「サチさん、ここいいね」


「いいね、かなり当たり」


「昨日の鐘、だいぶ薄まった」


「温泉じゃなくても、お風呂って大事だね」


「ほんとに」


 サチは湯気の向こうにある窓を見た。


 外はもう暗い。

 森の形だけが見える。


「でも、夜の森ってちょっと怖いね」


 ミカが目を開けた。


「サチさん、今それ言う?」


「ごめん、でも本当にちょっと思った」


「思っても言わないで」


「ミカちゃん、怖いの苦手なのに旅ついてきて偉いね」


「温泉とご飯があるから」


「私と同じだ」


「あと、リュウさんがいるからかな」


 サチは少し優しく笑った。


「いいね」


「サチさんは、ナオさんが怖い場所好きでも平気?」


「平気ではないよ、でもナオくんが楽しそうだからね」


「愛じゃん」


「そういう言い方されると照れる」


「でもそうじゃん」


 サチは湯に視線を落とした。


「ナオくんって、怖いものを見に行きたいっていうより、その場所をちゃんと見たいんだと思う」


「場所を?」


「うん、なんで噂が残ったのか、そこに何があったのか、そういうのを知りたいんだと思う」


 ミカは少し考えた。


「だから説明が長いんだ」


「そう」


「怖いけど、ちょっと分かるかも」


 湯から上がる頃には、4人ともかなりくつろいでいた。


 部屋に戻る途中、リュウとサチは喫煙できる場所へ向かった。


 夜の宿の外に出ると、空気が冷たかった。

 国道299号を走る車の音が、遠くから聞こえる。

 木々の間に、宿の明かりがやわらかく漏れている。


 リュウは電子タバコを吸いながら、駐車場の方を見た。


「いい夜だな」


 サチも軽く吸ってから頷いた。


「怖くない夜、ありがたいね」


「ほんとにな」


 そこへ、ナオとミカも外へ出てきた。

 ミカは上着を羽織り、少しだけ寒そうにしている。


「2人とも、外いたんだ」


「吸ってた」


 リュウが答える。


「リュウさん、寒くない?」


「ちょうどいい」


「私は寒い」


 ミカはリュウの隣に立った。

 ナオは駐車場の奥を見ていた。

 宿の明かりが届かない場所は、思ったより暗い。


 木々の間に、黒い隙間がある。

 そこから何かが見えるわけではない。

 ただ、夜の森があるだけ。


 その時、国道の方から車が1台走っていった。


 ライトが木の幹を一瞬だけ白く照らし、すぐに消えた。


 ミカがその光を見て、少し肩をすくめた。


「びっくりした」


「車だな」


 ナオが言う。


「分かってるけど、急に光ると怖いんだよ」


 リュウが笑う。


「明日、名栗湖行ったらもっと怖いかもな」


 ミカが即座にリュウを見る。


「なにそれ」


「あ」


「リュウさん、今なに言った?」


 サチもナオを見た。


「名栗湖?」


 ナオは少しだけ黙った。

 隠しても仕方ない。


「明日、少しだけ名栗湖と有間ダムの方へ行こうと思ってる」


 ミカの顔が分かりやすく曇った。


「湖?」


「昼に行く」


「夜じゃない?」


「夜じゃない」


「絶対?」


「絶対」


 ミカは少し考えてから、リュウを睨んだ。


「リュウさんが先に変な言い方するから怖くなった」


「悪かった」


「で、何の噂なの?」


 ナオは駐車場の暗い方を見た。


「夜の名栗湖で、車のライトじゃない光が水面に映るって話がある」


「昼に行くんだよね?」


「昼に行く」


「じゃあ大丈夫じゃん」


 リュウが言う。


「それでも水辺はちょっと嫌」


 ミカがぼそっと言った。


 サチが頷く。


「昨日の井戸の後だと、水はちょっとね」


「だよね、サチさん分かってくれる」


 ナオは静かに言った。


「明日は無理しない、飯能の山側を少し見て、名栗湖を回って、それから秩父へ向かう準備をする」


「畑トンネルってやつは?」


 リュウが聞いた。


 ミカがまた顔を向ける。


「トンネル?」


 ナオは苦笑した。


「飯能には、そういうトンネル系の噂もある」


「行くの?」


「行かない」


 ミカが少し安心する。


「なんで?」


 リュウが聞いた。


 ナオは木々の暗さを見たまま言った。


「暗いトンネルって、入っても何も見えないからな」


「そこ?」


「怖がるだけならいいけど、俺は場所を見たい、何も見えないなら、無理に入る意味がない」


 サチが小さく笑った。


「ナオくんらしい」


 リュウも頷いた。


「たしかに、お前そういうやつだな」


 ミカは少しだけ安心したように息を吐いた。


「ナオさん、そういうところは信用できる」


「そういうところは?」


「怖いところに連れてくところ以外」


「それは難しいな」


「難しくしないで」


 4人はしばらく宿の外に立っていた。


 国道299号を走る車の音。

 木々のざわめき。

 遠くの川のような音。

 宿の明かり。


 何も起こらない。


 ただ、飯能の夜がそこにある。


 それは怖い夜ではなく、旅の途中の良い夜だった。


 部屋に戻ると、リュウとミカは売店で買った酒を開けた。


 ナオとサチは、夕食であれだけ食べたのに、まだ少しだけ菓子をつまんでいた。


 ミカがそれを見て笑う。


「ナオさんとサチさん、ほんと食べるよね」


「旅だから」


 ナオが答える。


「それ、リュウさんの酒と同じ言い訳じゃん」


「似てるな」


 リュウが缶を持ち上げる。


「旅だから飲む」


 サチも菓子を持ち上げた。


「旅だから食べる」


 ミカは笑って、缶に口をつけた。


「じゃあ私は、旅だから怖がる」


「ミカはそれが担当だな」


 リュウが言う。


「担当にしないで」


 夜が更けていく。


 部屋の窓の外には、暗い森が見える。


 川越の時の鐘の音も、川口の水音も、今は遠い。


 それでも消えたわけではない。


 旅の中に、音が積み重なっていく。


 足音。

 水音。

 鐘の音。


 そして今夜は、木々のざわめき。

 ナオは窓の外を見ながら、明日のことを考えた。


 名栗湖。


 有間ダム。


 畑トンネルの噂。


 そして、その先に続く国道299号。


 秩父。

 武甲山。


 前にリュウと2人で登ったあの山を、今度は4人で見ることになる。


 リュウがベッドに寄りかかりながら言った。


「ナオ」


「うん」


「明日、武甲山はすぐ見える?」


「たぶん、秩父に近づけば見える」


「久しぶりだな」


「だな」


 サチが2人を見た。


「その山、そんなに思い出あるんだね」


「思い出ってほどじゃないけどな」


 リュウは少し考えて言った。


「でも、あの時の景色は覚えてる」


 ミカが缶を置いて、リュウを見た。


「リュウさんがそう言うなら、ちょっと見てみたいかも」


「登らなくても見えるぞ」


「それならいい」


 ナオは笑った。


 旅は少しずつ山へ近づいている。


 川口の住宅街から始まり、さいたま市の参道を歩き、川越の鐘を聞き、今は飯能の森の宿にいる。


 明日、道はさらに山へ入る。

 怖いものを追いかけているのか。

 懐かしいものを取り戻そうとしているのか。


 ナオにも、まだはっきりとは分からなかった。


 ただ、ひとつだけ分かることがある。


 この旅は、もう止まらない。

 窓の外で、森がざわめいた。


 誰かの声ではない。

 ただの風だった。


 それでもミカが少しだけ顔を上げた。


「今の、風だよね?」


「風だな」


 ナオが答える。


「ほんとに?」


「ほんとに」


 ミカは少し安心して、缶を持ち直した。


「ならいい」


 サチが笑う。


「今日は風だけ」


「それくらいがいい」


 リュウが言った。


「明日は水かもな」


 ミカがすぐに睨む。


「リュウさん」


「悪い」


 ナオは窓の外の暗さを見たまま、静かに息を吐いた。


 奥むさし休暇の森。


 良い宿。

 良い食事。

 良い風呂。


 そして、山へ入る前の、最後のやわらかい夜。


 次の朝、4人は飯能の深くへ向かう。


 そこに何があるのかは明日わかる!

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