3話 川越えの鐘
さいたま市を出る頃には、空の色が少しずつ夜へ寄っていた。
大宮の街明かりを背にして、ナオの白いSUVは西へ向かう。
前回の川口とは違い、この日は何も起こらなかった。
氷川参道を歩き、食事をして、少しだけ散歩をして、それだけで終わった。
ミカはそれがよほど安心だったのか、後部座席でいつもより機嫌がよかった。
「今日は平和だったね」
ミカが窓の外を見ながら言った。
リュウが少し笑う。
「まだ終わってないけどな」
「リュウさん、そういうこと言うのやめて、今日はもう平和で締めたいんだけど」
「明日は川越だろ」
「川越は楽しそうじゃん、小江戸でしょ、食べ歩きでしょ」
サチが助手席で振り返った。
「ミカちゃん、川越は私も楽しみ」
「だよね、サチさん、絶対楽しいよね」
「お芋系のもの食べたいな」
「それは食べる」
ナオはハンドルを握ったまま、前を見ていた。
大宮から川越方面へ向かう道は、夜でも車が多い。
国道17号方面から西へ抜ける道に入り、ナビは川越の宿泊先へ案内している。
川口から始まった旅は、さいたま市を抜けて、少しずつ埼玉の西側へ向かっていた。
リュウが後部座席から身を乗り出す。
「で、川越では何を見るんだ?」
「昼は普通に町並み、時の鐘、蔵造り、菓子屋横丁あたりだな」
「普通に観光じゃん」
「昼はな」
ミカがすぐに反応した。
「ほら……昼はって言った、ナオさん今、昼はって言った」
「夜は少しだけ、時の鐘の噂を見る」
「見るってなに、鐘を見るだけならいいけど」
「鳴るはずのない時間に、鐘が鳴るって話がある」
車内が一瞬だけ静かになった。
リュウが少し楽しそうに言う。
「それは都市伝説っぽいな」
「川越らしいだろ」
サチが窓の外を見ながら言った。
「時の鐘って、川越のシンボルみたいなところだよね」
「そう、江戸時代から城下町に時を知らせてきた鐘だな、今の鐘楼も古い町並みに馴染んでる」
「ナオくん、ちゃんと調べてるね」
「PDFに書いたからな」
ミカが少し呆れた顔をした。
「ナオさん、そのPDFって旅行のしおりなのか怪談資料なのか分かんないんだよね」
「両方だな」
「1番怖いやつじゃん」
リュウが笑った。
「でも、昨日の井戸よりは良くないか、鐘ならまだきれいだろ」
「リュウさん、音系は昨日のでちょっと嫌になった」
「たしかに、水音の後に鐘は嫌か」
「嫌だよ」
ナオは少しだけ笑った。
怖い話を追う旅なのに、4人の空気は重くなりきらない。
それが、ナオには心地よかった。
ただ怖がるためだけなら、1人でもできる。
けれど、こうして誰かと一緒に走り、くだらない話をしながら、知らない夜へ向かう。
それは、若い頃にやりたくてもできなかったことだった。
川越に着いたのは、夜の入口だった。
この日は無理に歩き回らず、駅から少し離れたホテルに入ることにした。
駐車場にSUVを停めると、リュウはすぐに伸びをした。
「今日は飲めるな」
ミカも少し笑った。
「飲む、今日は怖くなかったし」
「明日怖いかもしれないぞ」
「リュウさん、明日の話は明日でいい」
サチはホテルの入口を見ながら言った。
「ナオくん、今日は夜の調査なし?」
「なし、明日ちゃんと歩く」
「よかった」
リュウとミカは近くのコンビニで缶のお酒を買い、ナオとサチは夜食を買った。
部屋に入ってから、サチは窓際に立ち、電子タバコを手にしながら外を見た。
喫煙できる場所まであとで行くつもりで、まだ吸ってはいない。
「川越か、なんか旅っぽくなってきたね」
「そうだな」
「ナオくん、明日楽しみ?」
「楽しみだな」
「怖い方?」
「町の方」
サチは少し意外そうに見た。
「時の鐘じゃなくて?」
「もちろんそれもあるけど、川越は町そのものが面白い、古いものと観光地が一緒になってる感じがする」
「そういうの好きだよね」
「好きだな」
サチは笑った。
「明日は食べ歩きも入れてね」
「入れてある」
「そこは本当に信用できる」
翌朝。
川越の空は少しだけ曇っていた。
雨は降っていない。
ただ、空全体が薄い雲に覆われていて、町の色が少し落ち着いて見えた。
4人はホテルを出て、SUVで川越の中心部へ向かった。
道沿いの建物が古い町並みに近づくにつれて、サチとミカの声が少し明るくなった。
「見えてきた、これテレビで見るやつだ」
ミカが窓に顔を寄せる。
リュウが横から言った。
「ミカ、子供みたいになってるぞ」
「いいじゃん、こういうの好きなんだよ」
「昨日怖がってた人と同じ人か?」
「怖いのと観光は別」
サチが頷いた。
「わかる、怖い場所は怖いけど、こういう町歩きは楽しい」
ナオは駐車場を探しながら、蔵造りの町並みへ近い場所に車を停めた。
車を降りると、川越の空気が一気に近くなった。
古い建物の黒い壁。
瓦屋根。
通りを歩く人の声。
観光客の持つ紙袋。
どこかで焼きたての匂いがする。
ミカはすぐにリュウの袖を引いた。
「リュウさん、これ絶対楽しい」
「昨日より顔が明るいな」
「昨日が暗すぎたんだよ」
サチも通りを見渡して、嬉しそうに言った。
「ナオくん、まずどこ行く?」
「時の鐘の方へ歩こう、その途中で食べたいものがあれば食べる」
「最高」
リュウが笑う。
「サチさん、完全に食べ歩きモードだな」
「リュウさんは飲める店探してるでしょ」
「まあな」
ミカが横から言う。
「まだ朝だからね」
「わかってるよ」
「絶対わかってない」
4人は川越の町を歩いた。
ナオは先頭に立つというより、少し横にずれながら、周囲を見ていた。
古い町並みの中に、観光地として整えられた明るさがある。
人も多い。
店も多い。
怖い空気はほとんどない。
それでもナオには、古い町が持つ独特の重なりが感じられた。
今の観光地としての川越。
江戸に近い城下町としての川越。
火事や商人の町として残ってきた川越。
その上を、自分たちが歩いている。
「川越って、小江戸って呼ばれるけど、ただ古い建物があるだけじゃないんだよ」
ナオが言うと、ミカが少し警戒したように見た。
「ナオさん、急に怖い話?」
「違う、普通の話」
「ほんと?」
「川越は江戸に近くて、城下町としても大事だった、商人の町でもあったから、蔵造りの建物が残ってる」
リュウが建物を見上げた。
「蔵みたいな家ってことか」
「火事に強い造りだな、昔の町は火事が怖かったから、こういう重厚な建物が町の顔になった」
サチが頷く。
「なるほどね、見た目がかっこいいだけじゃないんだ」
「ちゃんと理由がある」
ミカが少し安心したように笑った。
「こういう説明ならいい、怖くない」
「今日は昼だからな」
「夜は?」
ナオは答えず、少しだけ笑った。
「ほら、黙った」
ミカがリュウの腕を軽く叩く。
「リュウさん、ナオさん黙った」
「夜の分は夜に聞けってことだな」
「聞きたくないんだけど」
時の鐘が見える場所に着くと、4人は自然と足を止めた。
観光客が写真を撮っている。
店の声が聞こえる。
通りを歩く人の流れがある。
昼の時の鐘は、怖いものではなかった。
むしろ町の中心で、人を引き寄せる目印のようだった。
サチがスマホを構えた。
「写真撮ろうよ」
「4人で?」
「うん」
近くにいた観光客に頼み、4人は時の鐘を背景に並んだ。
ナオは少し後ろに立ち、リュウはミカの隣で軽く笑い、サチはナオの横で自然に肩を寄せた。
写真を撮ったあと、ミカが画面を確認して言った。
「普通の旅行っぽい」
「今日は普通の旅行だろ」
リュウが言う。
「夜まではね」
「リュウさんまでそれ言うのやめて」
昼は楽しかった。
芋菓子を食べ、団子を食べ、細い路地を歩き、菓子屋横丁へ向かった。
ナオとサチはよく食べた。
リュウは途中で甘いものに少し飽き、しょっぱいものを探し始めた。
ミカは最初こそはしゃいでいたが、歩き疲れるとリュウの横で少し不機嫌になった。
「足疲れた」
「昨日より全然歩きやすいだろ」
「昨日は怖くて疲れた、今日は楽しくて疲れた」
「種類が違うのか」
「全然違う」
サチが笑いながら、買った芋けんぴの袋を差し出した。
「ミカちゃん、食べる?」
「食べる」
「疲れたって言った直後なのに」
リュウが言うと、ミカはすぐに返した。
「食べるのは別」
ナオはそのやり取りを聞きながら、ふと遠くの山の方を思った。
川越の次は飯能。
その先は秩父。
PDFの中では、秩父のページに武甲山の写真を入れてある。
ナオとリュウは、前に2人で武甲山に登ったことがあった。
まだ今ほど仕事に余裕がある前で、何かの区切りのように2人で行った。
あの時、山頂から見た秩父の町は、不思議なくらい静かだった。
削られた山肌と、町の屋根と、遠くに続く山並み。
きれいだと思った。
同時に、少しだけ怖いとも思った。
山はそこにあるだけで、人よりずっと長く何かを見ている。
リュウがナオの視線に気づいた。
「どうした?」
「いや、秩父のこと考えてた」
「気が早いな」
「川越の次は飯能、その先は秩父だからな」
「ああ、武甲山の近く通るんだっけ」
サチが反応した。
「武甲山?」
リュウが少し懐かしそうに笑った。
「前にナオと2人で登ったんだよ」
「そうなんだ」
ミカも興味を持ったように言った。
「リュウさん、山登るんだ」
「たまにな、っていうか、ナオに連れてかれた」
「俺が連れていったみたいに言うな」
「ほぼそうだろ」
ナオは少し笑った。
「武甲山は、秩父に行くとかなり目立つ山なんだよ、町の向こうにどんと見える」
サチが聞く。
「怖い山なの?」
「怖いというより、存在感がある山だな、信仰の対象でもあるし、石灰岩の採掘で山の形も変わってる」
ミカが少し眉を寄せた。
「山の形が変わってるって、なんかすごいね」
「人が削ってきた山だからな、でもそれだけで終わらない感じがする、あの山は」
リュウが頷いた。
「登った時、ナオがしばらく黙ってたの覚えてる」
「そうだったか?」
「そうだった、景色見ながら、ずっと何か考えてた」
サチがナオを見る。
「ナオくんが黙るのはいつもでしょ」
「まあな」
ミカが少し笑った。
「ナオさんが本当に驚くところ、ちょっと見てみたいかも」
リュウが言った。
「なかなか見れないぞ」
「そうなの?」
「こいつ、だいたいのことは観察に入るからな」
サチが頷く。
「驚く前に、見ようとするんだよね」
ナオは否定しなかった。
そういう自覚はあった。
怖いと思うより先に、何が起きているのかを知りたくなる。
それが良いことなのか悪いことなのかは、自分でも分からない。
夕方になり、観光客の数が少しずつ減り始めた。
昼の熱が落ち着き、蔵造りの町並みの影が長く伸びる。
店じまいを始めるところもあり、通りの空気が少し変わっていく。
ナオは一度ホテルへ戻るか迷ったが、リュウが言った。
「どうせ夜の時の鐘見るんだろ?」
「少しだけな」
「じゃあ飯食ってから行こうぜ」
ミカがすぐに口を挟む。
「食べてから怖いの行くの?」
「腹減った状態で怖いの行くよりいいだろ」
「リュウさん、それはそうかもしれないけど」
サチは落ち着いて言った。
「私も先に食べたい」
「決まりだな」
4人は川越の町で夕飯を食べた。
リュウとミカは少しだけ酒を飲んだ。
ナオとサチはしっかり食べた。
サチは店を出た後、喫煙できる場所を見つけて電子タバコを吸った。
リュウも横に立って吸う。
夜の川越の空気に、2人の吐いた薄い蒸気がすぐ消えた。
「サチさん、怖くなる前に吸ってる?」
ミカが聞く。
「うん、先に落ち着いておこうと思って」
「やっぱ怖いやつじゃん」
「ミカちゃん、鐘が鳴るかどうかだけだよ」
「その、だけ、がもう怖いんだよ」
リュウが電子タバコをしまいながら笑った。
「大丈夫だろ、鐘だし」
「昨日は水だったじゃん」
「たしかに」
「音だけでも怖いって分かったでしょ」
「分かった、そこそこ分かった」
「そこそこ禁止」
夜の時の鐘の周辺は、昼とは違っていた。
完全に人がいないわけではない。
けれど昼の賑やかさは消え、店の明かりも減っている。
古い建物の影が濃くなり、路地の奥が見えにくくなる。
それでも、川口の赤山や外環横の井戸とは違う。
ここには町の気配があった。
人が暮らしている気配。
観光地として残っている気配。
夜になっても、完全には死なない町の明るさ。
ナオは時の鐘を見上げた。
「今の時間、本来なら鳴らない」
ミカが小声で言った。
「わざわざ確認しなくていいって」
「確認は大事だろ」
「怖い確認はいらない」
サチがスマホで時間を見た。
「じゃあ、少し待つの?」
「5分くらいでいい」
リュウが腕を組んだ。
「5分待って鳴らなかったら終わり?」
「終わり」
「本当に?」
ミカがナオを見る。
「本当に」
「ナオさんの本当、今日は信じたい」
4人は時の鐘が見える場所で、少し離れて立った。
周囲には数人の観光客がいたが、すぐに通り過ぎていった。
やがて、通りが静かになる。
遠くの車の音。
店の片付けの音。
誰かの笑い声。
何も起こらない。
ミカが小さく息を吐いた。
「ほら、何もなさそう」
リュウが言う。
「まあ、そんな毎回起きてもな」
サチも少し安心したようだった。
「今日はこのまま帰ろうか」
ナオは時の鐘を見上げたまま、何も言わなかった。
その時だった。
ごん、と。
低い音が、夜の町に落ちた。
大きい音ではない。
でも、たしかに鐘の音だった。
ミカが固まる。
リュウが目を開く。
サチがスマホの画面を見たまま、動きを止めた。
「……今、鳴ったよね?」
ミカの声が震えていた。
リュウは時の鐘を見上げた。
「鳴ったな」
「リュウさん、今の本当に鳴ったよね?」
「鳴った」
サチが小さく言った。
「この時間、鳴る時間じゃないよね」
「違う」
ナオは静かに答えた。
町は何事もなかったように続いている。
通りの奥を自転車が走り抜けた。
近くの店の人が片付けをしている。
誰も騒いでいない。
まるで、鐘の音を聞いたのが4人だけだったみたいに。
ミカは周囲を見回した。
「なんで誰も反応してないの?」
「聞こえなかったのかもな」
リュウが言う。
「そんなことある?」
「分からん」
ナオは時の鐘をじっと見ていた。
めったに驚かない顔。
けれど、何かを考えている時の目だった。
サチがナオの横顔を見た。
「ナオくん」
「うん」
「今の、何?」
「分からない」
「分からないって言われる方が怖いんだけど」
「でも、分からない」
ミカがスマホを取り出した。
「動画撮っとけばよかった」
「撮ってないのか?」
リュウが聞く。
「だって、何も起きないと思ってたし」
「俺もだ」
サチはふと、自分のスマホを見た。
さっき時の鐘を撮った写真が表示されている。
そこには、夜の時の鐘が写っていた。
けれど、画面の上に表示されている撮影時刻が、今の時刻より少しだけずれているように見えた。
サチは眉を寄せた。
「ナオくん、これ」
ナオがスマホを覗き込む。
「時刻?」
「うん、さっき撮った写真なんだけど、時間変じゃない?」
リュウとミカも寄ってくる。
表示された時刻は、今より少し先だった。
ほんの数分。
けれど、確かにおかしい。
「スマホの表示バグじゃないのか?」
リュウが言う。
ミカがすぐに首を振った。
「いや、今は普通に合ってるじゃん、その写真だけ変」
サチの顔から少し血の気が引いた。
「これ、消した方がいい?」
ナオはしばらく写真を見ていた。
夜の時の鐘。
暗い空。
町の明かり。
そして、少しだけずれた時刻。
「消さなくていい」
「またそれ?」
「残しておこう」
ミカが小さく言った。
「ナオさん、ほんとそういうとこあるよね」
「あるな」
リュウが苦笑した。
「否定しないのがナオだよな」
鐘の音は、それきり鳴らなかった。
4人はしばらくその場にいたが、何も起こらない。
町は普通だった。
観光地の夜。
片付けの音。
遠くの車。
少し冷えた空気。
ただ1回だけ鳴った鐘の音が、耳の奥に残っている。
帰り道、ミカはリュウの腕をつかんでいた。
「今日も音じゃん」
「そうだな」
「昨日は水で、今日は鐘じゃん」
「次は何だろうな」
「リュウさん、ほんとそういうのやめて」
サチはスマホをしまいながら、ナオの隣を歩いていた。
「ナオくん」
「うん」
「この旅、本当に続けるんだよね」
「続けるよ」
「だよね」
「嫌になったか?」
サチは少し考えてから、首を振った。
「嫌ではない、怖いけど」
「怖いけど?」
「なんか、気になる」
ナオは少しだけ笑った。
「それは、いい傾向だな」
「ナオくんにとってはね」
ホテルへ戻る途中、リュウが言った。
「川越の次は飯能だったな」
「そうだな」
「その先が秩父」
「うん」
「武甲山、久しぶりに見るな」
ナオは少しだけ足を止めた。
夜の川越の道で、遠くの山はまだ見えない。
けれど、その名前だけで、ナオの中にあの山の形が浮かんだ。
リュウと2人で登った日のこと。
山頂から見下ろした秩父の町。
風の音。
黙って景色を見ていた時間。
「また近くを通るな」
ナオが言うと、リュウは軽く笑った。
「今度は4人でな」
ミカがすぐに顔を上げた。
「登らないよね?」
「今回はたぶん登らない」
ナオが答える。
「たぶんって何?」
「通るだけだ」
「それならいい」
サチが笑った。
「ミカちゃん、山登りは怖いより疲れるよ」
「どっちも嫌かも」
「正直でいいな」
ホテルに戻ると、リュウとミカは缶のお酒を開けた。
ナオとサチは、帰り道で買った夜食を広げた。
サチは時の鐘の写真をもう1度確認した。
表示時刻は、やはり少しずれている。
けれど、写真そのものに変な影はない。
人も写っていない。
ただ、夜の時の鐘が静かに立っているだけだった。
ミカが缶を持ったまま、ベッドの端に座る。
「ねえ、ナオさん」
「うん」
「何も映ってないのに怖いって、ずるくない?」
「そうだな」
「昨日の動画も、今日の写真も、見た目は普通じゃん」
「でも音と時間が残ってる」
「それが嫌なんだって」
リュウが酒を1口飲んだ。
「でも、ちょっと面白いよな」
ミカがリュウを見る。
「リュウさん、そっち側に行かないで」
「いや、怖いのは怖いけどさ、何もないよりは旅っぽいだろ」
「それはナオさんの考え方じゃん」
サチが笑う。
「リュウさん、少しずつ染まってる」
「昔からこいつに付き合ってるからな」
ナオは窓の外を見た。
川越の夜は静かだった。
昨日の川口とは違う。
けれど、やはり何かが残っている。
水音。
鐘の音。
足音。
旅はまだ始まったばかりなのに、4人の周りには、もう音がいくつも積み重なっていた。
ナオはPDFを開いた。
次のページには、飯能の地名。
国道299号。
奥むさし休暇の森。
畑トンネルの噂。
名栗湖。
有間ダム。
そして、その先に秩父。
武甲山の写真が、小さく貼ってある。
リュウがそれを横から覗き込んだ。
「懐かしいな」
「だな」
「またあの山、見に行くのか」
「見るだけかもしれないし、何か思い出すかもしれない」
「相変わらず、言い方が曖昧だな」
「旅だからな」
サチが夜食を食べながら言った。
「ナオくん、明日は怖い日?」
「明日は、まず良い宿の日だな」
ミカがすぐに反応した。
「それ聞いて安心した、良い宿、大事」
「飯能で泊まるところは、かなり良さそうだよ」
「温泉ある?」
「大浴場はある」
「ご飯は?」
「ビュッフェ」
サチの目が少し輝いた。
「ビュッフェ?」
「うん」
「ナオくん、明日はそれでいこう」
リュウが笑った。
「サチさん、今ので全部許したな」
「ご飯は大事だよ」
ミカも頷いた。
「私も明日は宿を楽しみにする、怖いところはその後で考える」
ナオはPDFを閉じた。
夜の川越で、鳴るはずのない鐘が鳴った。
それが本当に怪異だったのか、ただの聞き間違いだったのかは分からない。
けれど、写真の時刻はずれている。
その小さな違和感だけが、旅の次のページへ4人を押し出している。
明日は飯能へ向かう。
国道299号へ入れば、山は近くなる。
その先で、武甲山が待っている。
ナオは窓の外の暗さを見ながら、静かに思った。
あの場所へ。
行きたい場所は、少しずつ近づいている。




