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あの場所へ  作者: ナオ
2/13

2話 さいたま市へ

 朝のホテルの部屋は、思っていたより静かだった。


 窓の外では、まだ車の音がしている。

 けれど昨夜の外環道の高架下で聞いた、あの水音とはまるで違った。

 ただの朝の音だった。


 ナオはカーテンを少しだけ開けて、外の明るさを確認した。


 川口の空は薄く白んでいる。


 昨日の夕方にリュウの家を出て、赤山陣屋跡へ行き、そのあと外環横の井戸跡の噂を追った。

 まだ川口市内から出てもいないのに、ミカは完全に疲れた顔をしていた。


 ナオ自身は、怖かったかと聞かれれば、怖くはなかった。


 けれど、あの動画に残っていた水音は、まだ耳の奥にある。


 ……ちゃぽん。


 ……きい。


 ただそれだけの音だった。

 それだけなのに、思い出すと場所の空気まで一緒に戻ってくる。


 サチはベッドの端に座り、コンビニで買ったパンの袋を開けていた。


「ナオくん、朝からまた考えてる顔してる」


「そうか?」


「そう、昨日の動画のこと?」


「少しね」


「私はあんまり見返したくないな」


「無理に見なくていいよ」


 ナオはテーブルの上に置いたスマホを見た。

 ミカから、昨日の夜に送られてきた動画。


 保存はした。

 けれど、朝になってからは再生していない。

 朝の光の中で聞くと、あの音が少し安っぽくなりそうな気がした。


 サチがパンを半分に割って、ナオに差し出した。


「食べる?」


「食べる」


「即答だね」


「昨日歩いたしな」


「私も食べるけどね」


 サチは笑いながら、もう1つ袋を開けた。


 ナオとサチは酒を飲まない。

 その代わり、旅先ではよく食べた。


 怖い場所を歩いた後でも、朝になれば腹は減る。

 それが少しだけ、現実に戻してくれる。


 部屋を出る前、サチはバッグから電子タバコを取り出した。


「外で少し吸ってから行く」


「下で待ってる」


「うん」


 ホテルの外に出ると、リュウとミカはもう駐車場にいた。


 リュウはSUVの横で電子タバコを吸っている。

 ミカは缶コーヒーを両手で持って、眠そうな顔をしていた。


「おはよう」


 ナオが言うと、リュウが軽く手を上げた。


「おう、昨日よりはまともな朝だな」


「昨日も朝はまともだっただろ」


「夜がまともじゃなかったんだよ」


 ミカがナオを見た。


「ナオさん、今日も怖いところ行くの?」


「今日は怖くない」


「本当に?」


「本当に」


「ナオさんの本当に、昨日で信用度下がったんだけど」


 リュウが笑った。


「わかる」


「リュウさんも一緒に笑ってるけど、昨日けっこうビビってたじゃん」


「そこそこだな」


「そこそこって言えば済むと思ってる」


 サチが少し遅れて出てきた。

 ホテルの端にある灰皿の前で、電子タバコを軽く吸ってから戻ってくる。


「ミカちゃん、眠れた?」


「寝たけど、夢見た気がする」


「どんな?」


「なんか、井戸をずっと上から見てる夢、でも底が見えないやつ」


「それは朝から聞きたくないな」


「私も言いたくなかった」


 リュウが電子タバコをしまいながら、ナオに聞いた。


「で、今日はどこ?」


「さいたま市」


「お、やっと川口から出るな」


「まずは大宮の氷川参道あたりを歩く」


 ミカが少し安心した顔をした。


「神社の参道なら大丈夫そう」


「夜でも人がいる場所だしな、今日は散歩くらいでいい」


「よかった、ほんとに助かった」


 リュウがニヤッと笑う。


「ミカ、昨日でもう旅やめたくなった?」


「やめたくはない、でも怖いところは毎日じゃなくていい」


「それは俺も同意」


 サチが助手席に乗りながら言った。


「私も、今日は普通に歩きたい」


「今日は普通に歩く」


 ナオは運転席に乗り込んだ。

 エンジンをかけると、白いSUVはゆっくり駐車場を出た。


 ホテルの前の道を抜け、川口市内の朝の道へ出る。


 昨日の夜とは違い、街には生活の音があった。


 自転車に乗る学生。

 開店準備をする店。

 信号待ちのバス。


 ナオは国道122号方面へ車を走らせた。


 道は少し混んでいたが、朝の光の中では、それも旅の始まりに見えた。


 後部座席で、リュウが窓の外を見ながら言う。


「川口からさいたま市って、近いけど、こうやって旅として走るとちょっと違うな」


「だろ」


「お前、こういうの好きだよな」


「近い場所を、遠くへ行くみたいに見るのは好きだな」


 サチが助手席で頷いた。


「わかるかも、いつもの道でも目的が違うと旅行っぽくなるよね」


 ミカが後ろから身を乗り出した。


「今日は本当に怖くないんだよね?」


「怖くない」


「じゃあ、普通にカフェとか寄りたい」


「いいな」


 リュウがすぐ反応した。


「俺は昼から飲める店でもいいけど」


「リュウさん、朝だよ」


「言ってみただけだよ」


「絶対本気だった」


 車はさいたま市へ入っていった。

 住宅街の密度が変わり、道沿いの建物も少し大きくなる。


 ナオは産業道路方面へ進み、大宮方面へ向かった。


 大宮に近づくにつれて、車の量が増える。

 商業施設の看板、マンション、細い路地。


 そして、その中にふっと長い緑の帯が現れる。


 氷川参道だった。

 ナオは近くの駐車場にSUVを停めた。


 4人は車を降りた。


 昨日とはまるで違う空気だった。


 人がいる。

 自転車が通る。

 散歩している人もいる。


 木々は大きく、参道は長い。


 けれど、不気味さよりも、街の中に残された静かな道という印象の方が強かった。


 ミカは周囲を見て、ほっと息をついた。


「こういうのなら全然いい」


「だろ」


 ナオが言うと、ミカはすぐに指を立てた。


「ただし夜の墓地とか山道とかじゃないからね」


「今日は違う」


「なら信じる」


 サチが参道の木々を見上げた。


「きれいだね、普通に散歩で来たい感じ」


「氷川参道は長いんだよ、大宮の町の中にこういう道が残ってるのが面白い」


 ナオは歩きながら、落ち着いた声で話した。


「氷川神社は武蔵国の古い神社として有名だし、大宮の地名も神社が大きいから大宮って呼ばれるようになったって話がある」


 リュウが横を歩きながら言った。


「大きい宮ってことか」


「そういうことだな」


「わかりやすい」


「昨日の赤山陣屋跡もそうだけど、埼玉って、今の道路や住宅街の下に古い道や信仰がけっこう残ってる」


 ミカが少し顔をしかめる。


「ナオさん、それ昨日と同じ流れになってない?」


「今日は怖くしない」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 サチが笑う。


「ミカちゃん、ナオくん今日はたぶん本当に散歩モードだよ」


「たぶんが怖いんだよ、サチさん」


 参道を歩くと、空気が少しだけ変わった。


 車の音は近くにあるのに、木々がそれをやわらかくしている。


 落ち葉を踏む音。

 人の話し声。

 自転車のベル。


 昨日聞いたような、後ろからついてくる足音はない。


 ただ、人が歩いている音があるだけだった。

 ナオはその普通さが、むしろよかった。

 旅は、怖い場所へ行くだけでは続かない。

 道を歩いて、腹が減って、どこかで休む。


 そういう時間があるから、夜が来た時に空気が変わる。


 リュウが参道沿いの店を見ながら言った。


「普通に腹減ったな」


「早くない?」


 ミカが言う。


「朝軽かったからな」


「リュウさん、飲むことと食べることしか考えてない時あるよね」


「旅だぞ」


「それナオさんが言いそう」


 ナオは少し笑った。


「俺も腹は減ってる」


 サチがすぐに反応した。


「私も」


 ミカが2人を見た。


「ナオさんとサチさん、ほんとよく食べるよね」


「酒飲まないからね」


 サチがさらっと言った。


「関係ある?」


「あるよ、ミカちゃんたちは飲むでしょ、私たちは食べる」


「なるほど、分かるような分からないような」


 4人は参道近くの店に入り、少し遅めの朝食のような、早めの昼食のような食事を取った。


 ナオとサチはしっかり食べた。

 リュウは軽く済ませるつもりが、結局追加で頼んだ。


 ミカは最初は控えめだったが、途中からデザートまで頼んだ。


「ミカ、怖いの忘れてるな」


 リュウが言うと、ミカはスプーンを持ったまま答えた。


「今日は怖くないって言われたから」


「わかりやすいな」


「昨日が怖すぎたんだよ」


 サチが頷いた。


「私も、今日はこういう日でいい」


「そうだな」


 ナオは水を飲みながら、窓の外の参道を見た。


「何も起きない場所も、ちゃんと見ておきたいんだよ」


 リュウが眉を上げた。


「何も起きない場所を?」


「うん」


「変わってるな」


「怖い話って、起きたことだけじゃなくて、起きなかった場所にも意味があると思う」


 ミカが少し嫌そうな顔をした。


「ナオさん、今ちょっと怖くする必要あった?」


「すまん」


「謝るの早い」


 サチが笑った。


「ナオくん、普通の話してるつもりなんだよ」


「それが怖いんだって」


 食事を終えたあと、4人は氷川神社の方まで歩いた。


 境内は人がいて、参拝する人も多かった。


 空は明るい。

 風も穏やかだった。


 ナオは無理に怪談を話さなかった。

 代わりに、参道の長さや、大宮の町と神社の関係を少しずつ話した。


 サチはそれを聞きながら、時々頷いた。

 リュウは半分聞いているようで、半分は周囲の店を見ていた。

 ミカは昨日より明らかに元気だった。


「こういう旅なら、私かなり好きかも」


 ミカが言った。


「昨日も旅だったろ」


 リュウが言う。


「昨日は肝試し」


「まあ、否定はしない」


「否定してよ」


 サチが御神木の方を見ながら言った。


「でも、昨日があったから今日の普通がありがたい感じするね」


「わかる」


 ミカがすぐに頷いた。


「昨日の後だから、参道に人がいるだけで安心する」


 ナオは境内の端から空を見上げた。


 木々の隙間から、薄い青空が見える。

 怪異はない。

 不穏な気配もない。


 ただ、古い場所に人が集まり、今も普通に祈っている。


 それだけで、十分だった。


 リュウがナオの横に立った。


「今日は本当に何もなしだな」


「何もなしでいい」


「珍しい」


「毎回何か起きたら、そっちの方が嘘っぽいだろ」


「確かにな」


「何も起きないけど、ちょっと残る場所もある、それでいい」


 リュウは少しだけ黙ってから、ポケットから電子タバコを取り出しかけた。


 けれど境内だったので、すぐにしまった。


「吸うなら外だな」


「そうだな」


「大人の旅だな」


「今さらか」


 リュウが笑った。


「若い頃なら、こういうとこも適当に歩いて終わってた気がする」


「今の方が見えるものは多いかもな」


「歳取ったってことか」


「そうとも言う」


 サチとミカが少し前を歩いていた。

 サチが振り返る。


「2人でしみじみしてる」


「昔なじみだからな」


 リュウが答える。


 ミカがリュウを見て言った。


「リュウさん、そういう時だけちょっと大人ぶるよね」


「俺は常に大人だろ」


「昨日、動画の音で普通に黙ってたじゃん」


「それは大人だから黙ったんだよ」


「絶対違う」


 参道を戻る頃には、夕方に近づいていた。

 空の色が少しずつ柔らかくなり、街の明かりが目立ち始める。


 夜の参道には、まだ人がいた。


 仕事帰りの人。

 散歩する人。

 学生らしきグループ。


 それを見て、ミカは安心したように言った。


「夜でも人いるんだね」


「大宮だからな」


 リュウが答える。


「昨日の赤山とは違う」


「全然違う、こっちは平和」


 サチが参道の木を見上げた。


「でも、夜の木ってちょっとだけ雰囲気あるね」


「サチさん、やめて、せっかく平和だったのに」


「ごめんごめん」


 ナオは少し立ち止まった。


 参道の先に、まっすぐ続く道がある。

 人の声と、車の音と、木々のざわめき。


 何も起きない。

 何も起きないからこそ、昨日の音が遠くなる。


 それでも完全には消えない。

 旅の中に、普通の日と変な日が混ざっていく。


 たぶん、これからもそうなる。

 怖い場所ばかりを追う旅ではない。

 行ってみたかった場所へ行く。

 聞いてみたかった話を聞く。


 食べたいものを食べ、泊まりたい宿に泊まり、道の駅で休む。


 その途中で、たまに夜が変な顔をする。


 それが楽しい。


 駐車場へ戻る前に、リュウとサチは喫煙できる場所を見つけて、少しだけ電子タバコを吸った。


 ミカはその横で、缶の温かい飲み物を持っていた。


「サチさんもリュウさんも、こういう時に吸うんだね」


 ミカが言った。


「落ち着くからね」


 サチが答える。


「私は怖い時こそ吸いたくなりそう」


「ミカは飲む方だろ」


 リュウが言う。


「まあね、でもまだ夕方だし」


「今日はさいたま市で泊まるか、川越方面まで行くか」


 ナオがスマホを見ながら言った。


 サチが聞く。


「明日は川越だよね?」


「そのつもり」


 ミカの顔が少し明るくなった。


「川越は楽しそう、小江戸って感じのやつだよね」


「そう、昼はかなり楽しいと思う」


「昼は?」


 ミカがすぐに反応した。


 ナオは少しだけ笑った。


「夜は、時の鐘の噂がある」


「ほら出た」


 リュウが笑った。


「ナオさん、今日おとなしかったと思ったら、明日のためだったんだ」


「今日は散歩、明日は川越」


「怖いやつ?」


「怖いかどうかは、行ってみないとわからない」


「それ昨日も聞いた」


 サチがミカの肩を軽く叩いた。


「ミカちゃん、川越は食べ歩きあるよ」


「それは行く」


「切り替え早いな」


 リュウが言った。


「怖いのと美味しいものは別」


 ミカは胸を張るように言った。


 ナオはSUVの鍵を取り出した。


 白い車体に、夕方の参道の光が薄く映っている。

 川口から始まった旅は、まださいたま市までしか来ていない。


 それでも、昨日より少しだけ遠くへ来た気がした。


 車に乗り込むと、ナオはナビを川越方面に合わせた。


 今夜どこまで進むかは、まだ決めていない。


 無理はしない。

 焦る旅でもない。

 行きたい場所は、これからいくらでもある。


 リュウが後部座席から言った。


「なあ、明日は本当に鐘鳴るのか?」


「鳴るかもしれないし、鳴らないかもしれない」


「なんだそれ」


「そういう話だからな」


 ミカが窓の外を見ながら言う。


「今日は何もなくてよかった」


 サチが頷いた。


「うん、今日はちょうどよかった」


 ナオは静かにアクセルを踏んだ。

 SUVは駐車場を出て、大宮の街へ戻っていく。

 背後には、長い参道が残っていた。


 人の歩く音。

 木々の揺れる音。

 何も起こらなかった夜。


 それでも、4人の旅にはちゃんと必要な夜だった。


 川越へ向かう道の先で、空がゆっくり暗くなっていく。


 ナオは前を見たまま、小さく息を吐いた。


 あの場所へ。


 その言葉は、もう地図の中だけのものではなくなっていた。


 4人を乗せた車は、国道の明かりの中へ静かに滑り込んでいった。

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