20話 上野の坂を下りて
翌朝、ナオは地図を見ながら言った。
「今日は上野へ行く」
ミカはベッドの上で顔を上げた。
「上野?」
「うん」
「パンダ?」
リュウがすぐに笑った。
「最初にそれか」
「上野って言ったらパンダじゃない?」
「間違ってはいないな」
サチも笑いながら頷いた。
「上野公園もあるし、アメ横もあるよね」
「そう」
ナオはタブレットをしまった。
「今日は山でも夜の街でもない。上野公園を歩いて、アメ横の方へ下りる」
「下りる?」
ミカが首を傾げる。
「上野は、高い場所と低い場所の差がある。公園のある上野の山と、駅やアメ横の雑踏。その差が面白い」
「ナオさん、今日も説明の先生だ」
「でも怖くはなさそう」
サチが言うと、ミカは少し安心した顔をした。
「上野なら明るそう。ご飯もありそう」
「ご飯はかなりある」
リュウが言った。
「アメ横なら昼から飲める店もあるしな」
ミカはすぐにリュウを見た。
「リュウさん、今日は昼から飲む気?」
「見るだけだ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
新宿から上野へ向かう電車は、朝から人が多かった。
渋谷や新宿とは違う人の流れだった。
観光客らしい人。
通勤途中の人。
大きな荷物を持った人。
買い物へ向かう人。
ミカは吊り革につかまりながら言った。
「東京の駅って、場所ごとに人の感じが違うね」
「そうだな」
リュウが答える。
「新宿は仕事と夜の街、渋谷は若い人と待ち合わせ、上野は何だろうな」
「上野は入口だな」
ナオが言った。
「入口?」
サチが聞く。
「昔から北へ向かう玄関口って感じがある。東北方面へ行く列車のイメージも強いし、今でも旅の匂いが残ってる場所だと思う」
ミカが少し笑った。
「ナオさん、そういうの好きそう」
「好きだな」
「上野って聞いただけで、パンダから旅の玄関口まで広がるのすごいね」
「ミカはパンダで止まってたけどな」
リュウが言うと、ミカはすぐ返した。
「パンダも大事」
上野駅に着くと、駅の中には独特の広さがあった。
新宿のように圧倒される巨大さではなく、どこか古い駅の余韻がある。
天井の高さ。
人の流れ。
案内表示。
土産物を買う人たち。
ナオは改札を出る前に少し立ち止まった。
「駅だけでも雰囲気あるな」
「分かる」
サチが周囲を見た。
「なんか、旅の途中って感じする」
「今まさに旅の途中だけどね」
ミカが言う。
「でも、新宿や渋谷より、どこか遠くへ行く感じがある」
リュウが頷いた。
「上野から夜行列車とか出てそうな感じあるな」
「今の若い子に通じるか分からないけどな」
ナオが言うと、リュウは少し笑った。
「俺らには通じる」
まずは上野公園へ向かった。
駅から外へ出ると、空気が少し広がる。
木々が見え、坂と階段があり、人の流れが公園の方へ伸びていた。
新宿や渋谷で感じた街の圧とは違い、上野には少し落ち着いた賑わいがあった。
ミカは歩きながら言った。
「ここ、思ってたより落ち着いてる」
「公園側だからな」
ナオが答える。
「このあとアメ横へ下りると、また全然違う」
「そんなに違うの?」
「違うと思う」
サチが楽しそうに笑った。
「それは楽しみ」
公園の中は、平日でも人が多かった。
美術館へ向かう人。
ベンチで休む人。
観光客。
修学旅行らしい学生たち。
噴水の近くでは、写真を撮る人が何人もいた。
ミカは動物園の案内を見つけて、少し目を輝かせた。
「パンダいる方だ」
「今日は動物園入るか?」
リュウが聞く。
「入りたい気もするけど、時間かかりそう」
サチも案内板を見た。
「今度、上野だけで1日使う日もいいね」
「それもありだな」
ナオは頷いた。
今回は、上野そのものの空気を見る日だった。
動物園、美術館、博物館、不忍池、アメ横。
全部を深く見るには時間が足りない。
だから今日は、広く歩く。
それでいい。
噴水の近くで少し休んでいると、サチが古い建物の方を見ながら言った。
「上野って、文化の場所でもあるんだね」
「そうだな」
ナオは答えた。
「博物館も美術館もある。昔のものを残す場所が集まってる」
「代々木公園の写真とは違うけど、ここも記憶が集まる場所みたい」
ミカがサチを見る。
「サチさん、最近ナオさんみたいなこと言う」
「そうかな」
「うん。でも分かりやすいから大丈夫」
「大丈夫って何」
リュウが笑った。
「ミカの中で、ナオの説明はたまに怖い扱いだからな」
「だってナオさん、すぐ沈んだ道とか道にいるとか言うじゃん」
「今日は言ってない」
ナオが言うと、ミカは少し満足そうに頷いた。
「今日のところは」
不忍池の方へ歩くと、雰囲気が少し変わった。
水辺。
蓮。
池の向こうに見える建物。
公園の上の空気とは違い、少しだけ湿った落ち着きがあった。
ミカは池を見て、少し警戒した顔をする。
「水辺かあ」
「奥多摩湖とは違うだろ」
リュウが言う。
「違うけど、水辺は水辺」
サチは池を見ながら言った。
「でも、ここは人が多いし明るいね」
「うん、それは助かる」
ナオは池の周りを歩きながら、あえて怖い話には寄せなかった。
ここには弁天堂もあるし、古い由来もある。
説明しようと思えばいくらでもできる。
でも、毎回深く掘ればいいわけではない。
今日は、上野の昼をそのまま歩く日だ。
ミカが水面を見ながら言った。
「水、今日は普通に見える」
「よかったな」
リュウが言う。
「本当に。水まで全部怖くなったら、風呂も入れなくなる」
「それは困る」
サチが笑った。
「温泉旅できなくなっちゃう」
「それは絶対困る」
ミカは真顔で答えた。
昼はアメ横で食べることにした。
公園から坂を下り、駅の方へ戻るにつれて、空気が急に変わっていく。
さっきまでの木々と池の落ち着きが薄れ、店の声と人の熱気が近づいてくる。
アメ横に入ると、完全に別の街だった。
狭い通り。
並ぶ店。
鮮魚、乾物、菓子、服、靴、飲み屋。
呼び込みの声。
歩く人の肩が近い。
ミカは目を丸くした。
「すごい、急に違う」
「な?」
ナオが言った。
「上野の山から下りると、こうなる」
リュウはもう少し楽しそうだった。
「こっちはこっちでいいな」
「リュウさん、飲み屋見てるでしょ」
「見てるだけだ」
「その見てるだけが怪しい」
サチは店先の食べ物を見ながら、かなり楽しそうだった。
「ここ、食べ歩きできそう」
「できるな」
ナオも頷いた。
「今日はここでしっかり食べよう」
「ナオくん、嬉しそう」
「こういう場所はいい」
4人はアメ横をゆっくり歩いた。
途中で串焼きの匂いに引っかかり、揚げ物を見つけ、甘いものまで買った。
リュウは結局、軽く飲める店を見つけてしまった。
「少しだけ」
ミカが腕を組む。
「本当に少しだけ?」
「本当に」
「昨日も一昨日も聞いた気がする」
「今日は昼だけど、上野だから」
「理由になってない」
サチは笑って言った。
「でも、少しならいいんじゃない?」
「サチさんが言うなら」
ミカは少しだけ譲った。
結局、4人は昼から入れる小さな店に入った。
リュウとミカは少し飲み、ナオとサチはよく食べた。
店の中は明るく、隣の席では年配の男性たちが楽しそうに話している。
こういう賑わいは、夜の新宿とは違う。
人が多くても、どこか開けている。
ミカは少し飲んで、顔を緩めた。
「上野、好きかも」
「早いな」
リュウが言う。
「だって公園もあるし、ご飯もあるし、昼から飲めるし」
「最後、俺の基準だろ」
「少し分かった」
「いい傾向だ」
「リュウさん調子乗らないで」
食事のあと、4人は再びアメ横を歩いた。
その途中で、ミカが小さな店先で足を止めた。
古い腕時計やアクセサリー、万年筆のようなものが並んでいる店だった。
中野の古物店とは違い、こちらはもっと雑多で、生活の中から出てきたものがそのまま並んでいる感じがある。
サチが小さなペンダントを見ていた。
「かわいいね」
「買う?」
ミカが聞く。
「うーん、見てるだけ」
ナオは店の隅に置かれた小さな箱に目を留めた。
箱の中には、古い切符のようなものが何枚か入っていた。
硬券。
厚い紙の切符。
もう使えない古い駅名が印字されているものもある。
リュウがそれを見て言った。
「懐かしいな、こういう切符」
「昔の旅の欠片だな」
ナオが答える。
ミカはすぐに反応した。
「今日はそういうの買わないよね?」
「見るだけ」
「写真立ての流れがあるから警戒してる」
「今日は買わない」
「本当に?」
「本当に」
店主らしい男性が笑った。
「見るだけでもいいよ。古い切符は、好きな人は好きだからね」
ナオは軽く頭を下げた。
「昔の上野駅の切符もありますか?」
「あるよ。上野発のやつは人気あるね」
店主は箱の中から数枚出して見せてくれた。
上野。
青森。
仙台。
長野。
新潟。
その駅名を見た瞬間、ミカが少し驚いた顔をした。
「あ、私たちがこれから行きそうな場所ある」
「あるな」
リュウが覗き込む。
「青森はまだ遠いけど、長野、新潟はそのうち行く話してたな」
サチも切符を見た。
「旅って感じするね」
「上野から北へ向かう旅だな」
ナオは切符を見ながら言った。
上野発。
その文字だけで、昔の列車の匂いがする。
夜行列車。
ホームの寒さ。
大きな荷物。
別れと出発。
まだ見ていない場所への道。
ミカが言った。
「ナオさん、顔が買いたそう」
「買わない」
「本当に?」
「今日は買わない」
店主は笑いながら言った。
「無理に買わなくていいよ。旅してるなら、実際に行ってから買った方がいいかもね」
その言葉に、ナオは少し笑った。
「それもそうですね」
4人は店を離れた。
ミカはほっとしたように言う。
「今日は何も持ち帰らない日」
「食べ物は持ち帰るかもな」
リュウが言う。
「それは別」
アメ横を歩きながら、ナオはさっきの切符の駅名を思い出していた。
長野。
新潟。
まだ先の場所。
この旅は関東で終わらない。
山梨を越え、長野へ。
あるいは群馬から新潟へ。
福島へ。
東へ、北へ、海へ、山へ。
その広がりが、上野という場所で少し現実味を持った。
上野は、東京の中にある次の旅への入口だった。
夕方前、4人はもう一度上野公園の方へ戻った。
アメ横の熱気から公園へ上がると、空気が少し軽くなる。
ミカは坂を上りながら息を吐いた。
「下と上で全然違う」
「今日のテーマだな」
ナオが言った。
「上野の坂を下りて、また上がる」
「ナオさん、タイトルっぽいこと言った」
「そうか?」
「うん」
サチは公園の木々を見ながら言った。
「アメ横も楽しかったけど、戻ってくるとほっとするね」
「人の種類が違うな」
リュウが答える。
「どっちも上野だけど」
「そういうところが面白い」
ナオは頷いた。
公園のベンチで少し休んだ。
ミカは買った小さな菓子を取り出し、みんなに分けた。
「今日は平和だった」
「まだ夕方だぞ」
リュウが言う。
「このまま平和に終わらせるの」
「それもいい」
サチが微笑む。
「今日は上野を楽しんだ日でいいね」
ナオも頷いた。
「いいと思う」
ただ、その時だった。
近くのベンチに座っていた年配の女性が、ひとりで地図を見ながら困った顔をしていた。
観光客らしい。
スマホではなく、紙の地図を広げている。
サチが最初に気づいた。
「あの人、大丈夫かな」
「迷ってるっぽいね」
ミカが言う。
ナオが近づきすぎない距離で声をかけた。
「道をお探しですか?」
女性は顔を上げた。
「ああ、すみません。上野駅に戻りたいんですけど、こっちで合ってるのか分からなくなってしまって」
「駅なら、あちらの坂を下りると近いです」
ナオは方向を示した。
女性はほっとした顔をした。
「ありがとうございます。昔は何度も来たんですけどねえ、ずいぶん変わってしまって」
サチが優しく言った。
「久しぶりなんですか?」
「ええ。夫とよく来たんです。今日はひとりで」
ミカが少しだけ表情を変えた。
昨日の待ち合わせの男性。
一昨日の写真。
また、ひとり。
けれど、今回の女性は寂しそうではあるが、暗い感じではなかった。
「動物園に行こうと思ったんですけど、今日はもう疲れてしまって」
女性は笑った。
「若い頃は、上野駅からずんずん歩けたんですけどね」
リュウが言った。
「駅まで一緒に途中まで行きますよ。俺たちもそっちへ戻るので」
「まあ、すみません」
女性は何度も頭を下げた。
4人は女性と一緒に、上野駅の方へゆっくり歩いた。
女性は途中で、昔の上野の話を少しだけした。
夫と動物園へ来たこと。
アメ横で買い物をしたこと。
上野駅から旅行へ出たこと。
夜行列車に乗って、東北へ行ったこと。
話は短いが、ひとつひとつに生活の重みがあった。
ミカは隣で静かに聞いていた。
「今日は、思い出を見に来たんですか?」
ミカが聞くと、女性は少し笑った。
「そうね。たぶん、そうです」
「見られました?」
「ええ。少しだけ。でも、少しで十分でした」
駅へ近い場所まで来ると、女性は足を止めた。
「ここで大丈夫です。本当にありがとうございました」
「お気をつけて」
サチが言った。
女性は4人を見て、やさしく笑った。
「皆さんも、いい旅を」
その言葉に、ナオたちは少しだけ驚いた。
自分たちが旅の途中だとは言っていない。
大きな荷物を持っているわけでもない。
けれど、女性にはそう見えたのかもしれない。
リュウが軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
女性は駅の方へゆっくり歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、ミカが言った。
「なんで旅って分かったんだろ」
「雰囲気じゃないか?」
リュウが答える。
「そんな出てる?」
「出てるかもな」
サチは少し笑った。
「私たち、もう旅の顔になってるのかな」
ナオは上野駅の方を見た。
人が行き交う。
誰かが来て、誰かが去っていく。
上野はやはり、出発と帰りの場所だった。
今日は怪異はなかった。
鈴もない。
赤い髪飾りもない。
妙な案内もない。
ただ、古い切符を見て、坂を下りて、食べて、飲んで、思い出を見に来た女性を駅まで送った。
それだけの日。
でも、旅にはそういう日がいる。
夜、新宿のホテルへ戻ると、ミカはベッドに座りながら言った。
「上野、よかった」
「だいぶ気に入ったな」
リュウが言う。
「うん。怖くなかったし、でもちゃんと残った」
サチも頷いた。
「アメ横も楽しかったし、公園もよかったね」
「次に東京来る時、上野だけでもいいかも」
ミカが言うと、リュウが笑った。
「パンダ見るか」
「見る」
「決定か」
ナオはタブレットを開き、今日のメモを書いた。
上野。
公園。
不忍池。
アメ横。
古い切符。
上野発。
思い出を見に来た女性。
いい旅を。
最後に、一行を書いた。
――上野は、誰かの出発と帰りが重なる場所。
サチがそれを見て、静かに頷いた。
「今日の上野、その感じだったね」
「ああ」
リュウがベッドに寝転がりながら言った。
「次はどこだ?」
ナオは地図を開いた。
東京はまだ終わっていない。
浅草。
東京駅。
品川。
湾岸。
そしてその先には、千葉がある。
「次は浅草か、東京駅の方へ行く」
ミカが少しだけ考えた。
「浅草は良さそう」
「人多いぞ」
リュウが言う。
「でも明るそう。食べ物ありそう。あと、観光地っぽい」
「基準が固まってるな」
「大事だから」
ナオは地図を見ながら頷いた。
「じゃあ、浅草へ向かうか」
窓の外では、新宿の夜が動いている。
けれど、今日の4人の中には、上野の夕方が残っていた。
坂の上の公園。
坂の下の雑踏。
古い切符に印字された遠い駅名。
そして、去り際に言われた一言。
いい旅を。
その言葉は、思ったより長く胸に残った。




