19話 渋谷の待ち合わせ
新宿を出る朝、ミカは少しだけ名残惜しそうな顔をした。
昨日までなら、新宿から離れることに全力で賛成していたはずだった。
けれど、代々木公園で写真立てを預けたあと、街の見え方が少し変わったらしい。
ホテルの部屋で荷物をまとめながら、ミカはぽつりと言った。
「新宿、最初は怖かったけど、悪いだけじゃなかったね」
リュウが顔を上げる。
「お、成長したな」
「そういう言い方すると撤回する」
「早いな」
サチは笑いながら、バッグの口を閉じた。
「昨日の代々木公園がよかったんだと思う」
「うん、あれでだいぶ回復した」
ミカはうなずいた。
「写真の人たちも、ちゃんと預けられたし」
ナオはタブレットをバッグに入れた。
昨日のメモはまだ頭に残っている。
分からないまま、大事にしていいものもある。
あの写真の5人が誰だったのかは、結局分からない。
それでよかった。
全部を暴かないことも、この旅には必要だった。
「今日は渋谷へ行く」
ナオが言うと、ミカは少しだけ目を細めた。
「渋谷かあ」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど、人多そう」
リュウが笑った。
「新宿歩いた後なら、渋谷くらい行けるだろ」
「リュウさん、そういう油断が危ないんだよ」
「何の危険だよ」
「人混み」
「まあ、それはそうだな」
サチが少し楽しそうに言った。
「渋谷なら、ご飯もお店もたくさんあるよね」
「ある」
ナオが答える。
「スクランブル交差点、ハチ公前、センター街、宮下公園の方も見られる」
「待って、今ハチ公って言った?」
ミカが少し反応した。
「言った」
「ハチ公はいい。怖くなさそう」
「待ち合わせの象徴だからな」
「そういう言い方すると、ちょっとだけ怖くなる」
リュウが笑った。
「渋谷の待ち合わせで怪談作るなよ」
「作ってない」
ナオは真顔で答えた。
「ただ、待ち合わせって不思議だろ。人が多い場所で、特定の誰かを待つ。すれ違ったら会えない。来なかったら、ずっとそこにいる理由がなくなる」
「ほら、作ってる」
ミカがすぐに言った。
「今作ったよ、完全に」
サチも苦笑した。
「ナオくん、普通の話からちょっと深くするの早い」
「そうか?」
「うん」
ホテルを出て、新宿駅へ向かう。
今日は電車で渋谷へ向かった。
駅の中は朝から混んでいたが、新宿を何度か歩いたせいか、4人とも少し慣れていた。
それでもミカはリュウの近くを離れなかった。
「今日も離れないから」
「分かってる」
「渋谷で迷子とか、絶対嫌」
「スマホあるだろ」
「スマホがあっても、人が多いと心が迷子になる」
「名言っぽいな」
「怖がり名言」
電車に乗ると、車内にも人が多かった。
ナオとサチは並んで吊り革につかまり、リュウとミカはその近くに立った。
車窓には、東京の街が流れていく。
ビル。
住宅。
線路沿いの看板。
歩道橋。
駅。
東京は、見ている間にもどんどん顔を変える。
サチが小さく言った。
「山の方から来たのが、もうけっこう前みたい」
「まだ数日だぞ」
ナオが答える。
「分かってるけど、濃かったから」
「秩父が遠いね」
ミカが言う。
「でも鈴の子のことは忘れてない」
少しだけ空気が止まった。
最近はあえて話題にしていなかった。
赤い髪飾り。
小さな鈴。
道に現れる女の子。
ナオは窓の外を見たまま答えた。
「忘れなくていい」
「でも、出ないなら出ないでいい」
ミカはすぐに言った。
「今日は待ち合わせだけで十分」
「まだ何も起きてない」
リュウが笑う。
「起きる前提で話すな」
「この旅は油断できないの」
渋谷駅に着いた。
改札を出ると、すぐに人の多さが押し寄せてきた。
新宿とは違う密度だった。
新宿が大きな流れなら、渋谷は色と音が混ざった渦のようだった。
若い人が多い。
服の色が明るい。
外国人観光客の姿も目立つ。
大型ビジョンから音が流れ、スマホを掲げる人が何人もいる。
ミカは立ち止まり、少しだけ目を丸くした。
「うわ、渋谷だ」
「感想がそのままだな」
リュウが言う。
「だって渋谷って感じする」
サチも周囲を見ながら言った。
「新宿とはまた違うね」
「違うな」
ナオはハチ公前の方へ歩きながら答えた。
「新宿は大きな駅と街の集合体って感じだけど、渋谷は待ち合わせと流行の街って感じが強い」
「待ち合わせ」
ミカが少し警戒する。
「また出た」
ハチ公前には、人がたくさんいた。
写真を撮る人。
誰かを待つ人。
地図を見ている人。
立ち止まって電話をする人。
ハチ公像の周りには、いつものように小さな人だかりができていた。
ナオたちは少し離れた場所に立った。
サチがハチ公像を見て、やわらかく言った。
「ここは、ちゃんと待ち合わせの場所なんだね」
「そうだな」
ナオが答える。
「人が多いのに、みんな誰かを見つけようとしてる」
リュウは周囲を見回した。
「ここで待ち合わせするの、逆に難しそうだな」
「人が多すぎるよね」
ミカが言った。
「でも、ここにいるって決めれば会える気がするのも分かる」
その時、サチが少し離れた場所を見た。
「ねえ、あの人」
3人がそちらを見る。
ハチ公像から少し離れた柱の近くに、年配の男性が立っていた。
グレーのジャケット。
白髪。
手には古い紙袋。
背筋は少し曲がっているが、姿勢はきちんとしている。
男性は時計を見て、また人混みを見る。
それだけなら、普通の待ち合わせに見えた。
ミカが小声で言う。
「待ち合わせかな」
「だろうな」
リュウが答える。
「でも、なんか気になる?」
サチがナオを見る。
ナオは男性を見ていた。
男性の表情は、焦ってはいない。
怒ってもいない。
ただ、何かをずっと待つことに慣れているように見えた。
「今は分からない」
「出た」
ミカが小さく言った。
「でも今日は、こういう分からないならまだ大丈夫」
4人はハチ公前を離れ、スクランブル交差点の方へ向かった。
信号が変わると、人が一斉に動き出す。
あらゆる方向から人が渡り、ぶつからずにすれ違っていく。
ミカは横断歩道を渡りながら、少し興奮していた。
「すごい、人が交差してるのにちゃんと渡れる」
「毎日これだからな」
リュウが言う。
「誰が最初に怖いって思わず渡ったんだろう」
「発想が面白いな」
サチが笑う。
ナオは交差点の真ん中で、一瞬だけ周囲を見た。
ビルの画面。
スマホを構える観光客。
信号。
車。
人の波。
ここでは、全員が誰かの視界に入っている。
それなのに、誰の記憶にも残らない人がほとんどだ。
その感じは、新宿ともまた違う怖さだった。
昼は渋谷の店で食べることにした。
ミカの希望で、明るく入りやすいカフェのような店に入る。
リュウは少し物足りなそうだったが、メニューを見るとすぐに機嫌を直した。
「これはこれでありだな」
「リュウさん、食べ物あるとだいたいありになるよね」
「ミカもだろ」
「私は安全確認もしてる」
「基準は?」
「明るい、席が広い、変な地下じゃない」
「地下への信頼低すぎだろ」
サチは笑いながら、注文を選んでいた。
「今日は軽い感じでいいね」
「うん」
ミカが頷く。
「でも、さっきのおじいさん気になる」
「ハチ公前の?」
「うん」
リュウが水を飲んだ。
「普通に誰か待ってるんだろ」
「そうなんだけど、なんかすごく慣れてる感じだった」
サチが静かに言った。
「待つことに?」
「そう。待ち合わせって、普通ちょっとスマホ見たり、周り見たり、そわそわするじゃん。でもあの人、待つ形ができあがってる感じ」
「ミカちゃん、今日すごい観察してるね」
「怖がりは観察もするから」
ナオはその言葉を聞きながら、食事を取った。
確かに、あの男性の立ち姿は妙に残っていた。
怪異ではない。
不審者でもない。
ただ、待っている。
それだけなのに、気になる。
昼食を終え、4人はセンター街の方へ歩いた。
音が増える。
店の看板が増える。
人の年齢層もさらに若くなる。
ミカはきょろきょろしながらも、昨日の新宿よりは楽しそうだった。
「ここはちょっと疲れるけど、怖くはないかも」
「若い街だからな」
リュウが言う。
「私たち、ちょっと浮いてない?」
「40代でも歩いていいだろ」
「それはそうだけど」
サチが笑った。
「逆に楽しいよ。若い頃に戻ったみたいで」
「サチさん、若い頃ここ来た?」
「何回かはあるよ」
「ナオさんは?」
ミカが聞く。
「昔、リュウと来たことあるな」
「え、そうなの?」
「あるな」
リュウが思い出すように笑った。
「20代の頃だったか。何しに来たか忘れたけど」
「何しに来たか忘れるの?」
「渋谷に来たっていう記憶だけ残ってる」
ナオも少し笑った。
「人が多くて疲れた記憶はある」
「今と変わらないじゃん」
ミカが言うと、サチも笑った。
午後、4人は宮下公園の方へ向かった。
昔の公園のイメージとは違い、整備された新しい空間になっている。
屋上のような場所に緑があり、ベンチがあり、若い人たちが座っている。
ミカは少し驚いたように言った。
「公園って感じじゃないね」
「今の渋谷っぽいな」
リュウが言う。
「公園も街の一部になってる感じ」
サチはベンチに座り、少し足を休めた。
「昨日の代々木公園とは全然違うね」
「そうだな」
ナオは周囲を見た。
代々木公園は、街の中にある大きな余白だった。
ここは、街そのものの上に作られた余白に見える。
同じ公園という言葉でも、空気はまるで違う。
しばらく休んだあと、夕方前にもう一度ハチ公前を通ることになった。
駅へ戻るためだった。
人は昼よりもさらに増えていた。
待ち合わせの人も多い。
ミカは自然とさっきの柱の方を見た。
そして足を止めた。
「まだいる」
サチも見る。
グレーのジャケットの男性が、同じ場所に立っていた。
手には同じ紙袋。
姿勢もほとんど変わっていない。
時計を見て、人混みを見る。
また時計を見る。
ナオも少し眉を寄せた。
昼前から、もうかなり時間が経っている。
普通の待ち合わせなら、長すぎる。
リュウが低い声で言った。
「さすがに長いな」
「声かける?」
サチが聞く。
ナオは少し考えた。
新宿の夜の女性とは違う。
危険が見えるわけではない。
助けを求めているようにも見えない。
ただ、待っている。
その人に、無遠慮に踏み込むのは違う気がした。
「少し様子を見る」
ミカは不安そうに言った。
「また様子を見る」
「今回は距離を置く」
男性の近くで、若い女性がスマホを落とした。
小さな音がして、女性が慌てて拾おうとする。
その時、グレーのジャケットの男性が、ゆっくりとかがんでスマホを拾い、女性に渡した。
女性は軽く頭を下げ、すぐに友人らしい人の方へ戻っていった。
男性は何も言わず、また同じ場所に立った。
その様子に、ミカは少し表情を変えた。
「悪い人じゃなさそう」
「だな」
リュウが言う。
サチが静かに言った。
「誰を待ってるんだろう」
すると、すぐ近くで掃除をしていた駅前のスタッフらしい男性が、グレーのジャケットの男性に声をかけた。
「今日もお待ちですか」
4人は思わずそちらを見る。
グレーのジャケットの男性は、穏やかに頷いた。
「ええ。少しだけ」
少しだけ。
そう言いながら、もう何時間も立っている。
スタッフの男性は慣れた様子で笑った。
「寒くなる前に、無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
それだけの会話だった。
スタッフは離れていった。
ミカは小声で言った。
「今日も、って言った?」
「言ったな」
リュウが答える。
ナオはスタッフの方へ少し歩いた。
声をかけるなら、本人ではなく周りから聞いた方がいい。
「すみません」
スタッフの男性が振り返る。
「はい?」
「あの方、よくいらっしゃるんですか?」
スタッフはグレーのジャケットの男性を見て、少し困ったように笑った。
「ああ、ええ。毎日ではないですけど、時々いらっしゃいますね」
「待ち合わせですか?」
「そうみたいです。詳しくは知りませんけど、ずっと昔の約束だとか」
ミカが少し息を飲んだ。
昨日の写真の言葉が、4人の頭に浮かんだ。
また、ここで。
ひとりでも。
スタッフは続けた。
「別に迷惑をかける方じゃないんです。落とし物を拾ってくれたり、道を聞かれた人に教えてあげたり。だから、こちらも見かけたら少し声をかけるくらいで」
サチが小さく言った。
「誰かを、待ってるんですね」
「たぶん。でも、来るかどうかより、待ちに来てる感じですね」
スタッフは軽く会釈して、仕事に戻っていった。
4人はしばらく黙っていた。
昨日の写真立てと、今日の男性。
直接つながっているわけではない。
何の関係もない。
それなのに、同じ言葉が胸の中で響く。
待つこと。
約束。
ひとりでも来ること。
ミカが小さく言った。
「昨日の続きみたい」
「偶然だろ」
リュウが言った。
「でも、そう見える」
「それはある」
ナオは男性を見た。
男性はまた時計を見て、人混みの方を見た。
誰かが来るのを期待しているのか。
もう来ないと分かっていて、それでも立っているのか。
分からない。
けれど、そこに悲壮感はなかった。
むしろ、静かな習慣のようだった。
サチが言った。
「声、かけない方がいいね」
「そうだな」
ナオは頷いた。
「これは、あの人の時間だ」
ミカは少しだけ寂しそうな顔をした。
「待つのって、寂しいね」
「でも、待てるって強いことかもしれない」
サチが言う。
「強い?」
「うん。忘れてないってことだから」
リュウは少し照れくさそうに頭をかいた。
「昨日から、そういう話に弱くなってきたな」
「リュウさんも?」
「まあ、少しな」
夕方の渋谷は、さらに人が増えていった。
4人はハチ公前を離れ、駅の方へ向かった。
グレーのジャケットの男性は、まだそこに立っていた。
振り返ると、人混みの中に少しずつ埋もれていく。
それでも、不思議と見失わなかった。
立ち方が違うからかもしれない。
誰かを待つ姿勢が、街の流れから少しだけ外れているからかもしれない。
電車で新宿へ戻る途中、ミカはあまり話さなかった。
リュウが横から聞く。
「疲れたか?」
「うん。でも嫌な疲れじゃない」
「待ち合わせのおじいさん?」
「うん」
ミカは少し考えてから言った。
「来るか分からない人を待つのって、すごいね」
「俺には無理だな」
リュウが言う。
「リュウさん、すぐ飲みに行きそう」
「待ちながら飲むかもな」
「それはちょっとリュウさんらしい」
サチが笑った。
「でも、あの人にとっては、待つこと自体が会うことに近いのかもね」
ナオはその言葉を聞いて、静かに頷いた。
会えなくても、待つ。
待つことで、その人との約束を今も続けている。
そんな形もあるのかもしれない。
新宿のホテルへ戻る頃には、外は暗くなり始めていた。
今日は夜の街へは出ず、近くで夕飯を済ませて部屋に戻った。
ミカはベッドに座るなり、少しだけ息を吐いた。
「昨日と今日、約束の話が続いたね」
「狙ったわけじゃないんだけどな」
ナオが言う。
「でも、旅ってそういうのあるよね」
サチが答えた。
「ひとつ気になると、次の場所でも似たものが見える」
「それ、ちょっと分かる」
リュウが言った。
「車買うと同じ車ばっかり目に入る、みたいな」
「例えが急に現実的」
ミカが笑った。
ナオはタブレットを開いた。
今日のメモを書く。
渋谷。
ハチ公前。
スクランブル交差点。
グレーのジャケットの男性。
今日もお待ちですか。
来るか分からない人を待つ。
昨日の写真立てとは違う。
でも、どこかで重なる。
ナオは最後に一行を書いた。
――待つことも、旅の形かもしれない。
サチがそれを見て、少し微笑んだ。
「いいね」
「そうか?」
「うん。今日はそれだと思う」
ミカも覗き込んだ。
「私も好き。ちょっと寂しいけど」
リュウはベッドに寝転がりながら言った。
「明日はどうするんだ?」
ナオは地図を開いた。
東京はまだ広い。
池袋。
上野。
浅草。
東京駅。
品川。
湾岸。
いくらでも行く場所がある。
そして東京を抜けた先には、千葉が待っている。
「そろそろ東へ進む」
ナオが言った。
「東京をもう少し回って、千葉へ向かう流れにしたい」
ミカが少し安心したような、少し寂しそうな顔をした。
「東京ももう少し?」
「まだ少し見る」
「じゃあ、次は明るめで」
「できるだけ」
「できるだけ、かあ」
リュウが笑う。
「ミカ、もう諦めろ」
「諦めない。怖さ控えめを毎回言い続ける」
サチが微笑んだ。
「それも旅の形だね」
「サチさん、うまくまとめた」
部屋の外では、新宿の夜が今日も動いていた。
でも、4人の頭の中には、渋谷のハチ公前に立つ男性の姿が残っていた。
人の流れの中で、ひとりだけ止まっている人。
誰かを待つことで、過去と今をつないでいる人。
怪異ではない。
事件でもない。
ただ、街の中で見つけたひとつの姿だった。
そしてそれは、妙に忘れがたかった。




