18話 また、ここで
朝になっても、写真立てはテーブルの上にあった。
新宿のホテルの部屋。
白いテーブル。
コンビニで買った水のペットボトル。
スマホの充電器。
その横に、古い木製の写真立てが置かれている。
昨夜見た時より、少しだけ部屋に馴染んでいた。
それが逆に、妙だった。
知らない5人の写真。
代々木公園らしき木の前で並んでいる若い男女。
裏に書かれた言葉。
また、ここで。
ひとりでも。
ミカはベッドの上からそれを見て、少し眉を寄せた。
「一晩置いたら、なんか余計に気になる」
リュウが髪を整えながら言う。
「悪さはしてないだろ」
「そういう言い方しないで。悪さする写真とか嫌なんだけど」
「してないって意味だろ」
「分かってるけど、言葉選んで」
サチは写真立ての前に立ち、少しだけ表情をやわらかくした。
「昨日より、怖くはないかも」
「サチさん、強い」
「怖いっていうより、置きっぱなしにするのがかわいそうな感じ」
ナオはタブレットをバッグにしまいながら頷いた。
「今日は、これをどうするか決めようと思う」
ミカはすぐに顔を上げた。
「持って帰らないよね?」
「そのつもりはない」
「よかった」
「代々木公園に戻す?」
サチが聞く。
「戻すというより、置き場所を探す」
「置き場所?」
「買った店に返すのもひとつだけど、昨日の言葉を見ると、公園の方がいい気がする」
リュウは写真を手に取らず、少し離れて眺めた。
「また、ここで、だもんな」
「うん」
ミカは少し不安そうに言った。
「でも、勝手に置いていくのって大丈夫?」
「それも考えてる」
ナオは答えた。
「捨てるように置いていくのは違う。ちゃんと誰かに預けられるなら、それがいい」
「誰に?」
「公園の管理事務所とか、昨日の店の人とか」
リュウが頷いた。
「現実的だな」
「今日はそうする」
「今日だけじゃなくて毎回それで」
ミカが言うと、サチが笑った。
「ミカちゃん、最近それよく言うね」
「言わないとナオさん、すぐ変な方向に行くから」
「今日は行かない」
ナオが言うと、ミカは疑うように目を細めた。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、信じる」
4人は朝食を済ませ、写真立てを紙袋に入れてホテルを出た。
新宿の朝は昨日と同じように慌ただしかった。
人は多い。
音も多い。
けれど、今日はその中を深く歩く気分ではなかった。
ナオたちは電車で原宿へ向かった。
ミカは昨日より少し慣れた様子で駅を歩いていた。
案内板を見る目も、昨日ほど怯えていない。
ただ、写真立ての入った紙袋だけは、ナオの手元にあるたびにちらちら見ていた。
「それ、重い?」
ミカが聞いた。
「いや、軽い」
「でも、重そうに見える」
「気分の問題だな」
リュウが言った。
「知らない人の思い出だからな。軽くはないだろ」
「リュウさん、今日はちゃんと良いこと言う」
「今日は?」
「今日は」
原宿駅に着くと、昨日と同じように明るい人の流れがあった。
ファッションの色。
観光客の声。
スマホを構える人。
待ち合わせをしている人。
昨日はその明るさに救われた。
今日は、そこに少しだけ別の目的がある。
代々木公園へ向かう道で、サチが静かに言った。
「昨日の人たちも、こうやって歩いて来たのかな」
「写真の人たち?」
ミカが聞く。
「うん。誰かが写真立てを買うなんて思わずに、普通に来て、写真を撮って、また会おうって言って」
「それ考えると、写真ってすごいね」
リュウが言った。
「本人たちが忘れてても残るし、本人たちがいなくても残る」
ミカは少しだけ肩をすくめた。
「ちょっと怖いけど、今日は嫌な怖さじゃない」
「そうだな」
ナオは紙袋を持ち直した。
公園に入ると、昨日と同じように木々が広がっていた。
朝の時間帯だからか、昨日より少し人は少ない。
ランニングする人。
ベンチで本を読む人。
犬を散歩させる人。
楽器を背負った若者。
風は穏やかで、木の葉がゆっくり揺れている。
ミカは深呼吸した。
「ここ、やっぱりいい」
「回復場所だな」
リュウが言う。
「そう。新宿の夜で削られた分を戻す場所」
サチは笑った。
「ミカちゃん、分かりやすくていいね」
「分かりやすく生きたい」
昨日、写真立てを買った場所へ行くと、フリーマーケットの出店はまだ準備中だった。
同じ年配の女性もいた。
まだ布を広げたり、箱を並べたりしているところだった。
ナオが近づくと、女性は少し驚いたように顔を上げた。
「あら、昨日の」
「昨日、写真立てを買った者です」
「ああ、覚えてるよ。どうかした?」
ナオは紙袋から写真立てを出した。
「これ、少し相談したくて」
女性は写真立てを見て、目を細めた。
「何かあった?」
「いえ。変なことがあったわけではないんですが、写真が入ったまま持っていくのは、少し違う気がして」
ミカは横で小さく頷いた。
サチも静かに写真を見ている。
女性は手を止め、写真立てを受け取った。
「裏の文字、気になった?」
「はい」
「また、ここで、だったね」
「その下に、もう一行ありました」
女性は少し驚いた顔をした。
「そうなの?」
ナオが裏を見せる。
薄い鉛筆の文字。
ひとりでも。
女性はそれを見て、しばらく黙った。
「……本当だね」
リュウが聞いた。
「この写真がどこから来たか、分かりますか?」
女性は少し考えた。
「まとめて譲ってもらったものだから、詳しくは分からないの。ただ、持ってきた人は近くに住んでた人だったと思う。古い家を片づけるって言ってたから」
「その方は、もう分からないですか?」
「連絡先まではねえ」
女性は写真を見つめた。
「でも、代々木公園の写真っぽいね。木の感じが今とは少し違うけど」
サチが言った。
「どこかに置くより、ここに戻した方がいいでしょうか」
女性は少し笑った。
「戻すっていうのも変だけどね。でも、捨てるように置いていくよりは、私が預かっておくよ」
ミカがほっとしたように息を吐いた。
「それがいい気がします」
女性はミカを見て、やわらかく笑った。
「怖かった?」
「怖いというか、寂しいというか」
「そういう古いものは、たまにあるね。物なのに、物だけじゃない感じがするもの」
ナオはその言葉を聞いて、少し頷いた。
物なのに、物だけじゃない。
まさにそんな感じだった。
写真立て自体は、ただの物だ。
でも、その中に写った人たちと、裏の言葉が、ただの物にしてくれない。
女性は写真立てを自分の荷物の横に置いた。
「これは売らずに、今日はしまっておくよ。少し考えてみる」
「ありがとうございます」
ナオが頭を下げると、女性は首を振った。
「こちらこそ。気にしてくれてよかったよ。こういうの、何も知らないまま誰かの部屋に飾られるより、いったん考えた方がいいかもしれないしね」
4人は店を離れた。
ミカは歩きながら、何度か振り返った。
「置いてきちゃったね」
「預けたんだ」
リュウが言う。
「うん、預けた」
サチは少し安心したような顔をしていた。
「よかったと思う」
「私も」
ミカは小さく頷いた。
「持ってたら、ずっと気になったと思う」
ナオは何も持っていない手を見た。
紙袋もない。
写真立てもない。
軽くなったはずなのに、少しだけ何かが残っている。
それは嫌な感じではなかった。
約束に少しだけ付き合って、途中で誰かに渡した。
そんな感覚だった。
4人はそのまま公園を歩いた。
昨日よりもゆっくりだった。
写真立てをどうするかという目的がなくなったことで、ようやく普通に公園を見られるようになった。
サチは木陰のベンチを見つけて座った。
「少し休もう」
「もう?」
リュウが聞く。
「写真のこと、ちょっと考えちゃって」
「分かる」
ミカも隣に座った。
「怖い話じゃないのに、体力使った」
「それも分かる」
ナオとリュウも近くに座る。
周囲では、普通の朝が続いている。
犬が走り、子どもが笑い、誰かが写真を撮っている。
その中に、知らない5人の写真のことを考えているのは、おそらく自分たちだけだ。
リュウが言った。
「また、ここで、ってさ」
「うん」
ミカが見る。
「来たやつ、いたのかもな」
「ひとりでも?」
「そう。全員は無理でも、誰かひとりだけ来てたとか」
サチは少し遠くを見る。
「それ、悲しいけど、優しいね」
「優しいか?」
「約束を覚えてたってことでしょ」
「そうだな」
ナオは公園の道を見ていた。
誰かが歩いてくる。
誰かが離れていく。
またここで。
そう言って別れた人たちが、本当にまた会えたのかは分からない。
でも、会えなかったとしても、来た人がいたなら、その約束は完全には消えなかった。
ミカはぽつりと言った。
「私たちもさ」
「うん?」
サチが聞く。
「この旅が終わったあと、またどこかで会おうって言ったら、ちゃんと会いたいね」
リュウが少し驚いた顔をした。
「急にどうした」
「写真見たら思っただけ」
「旅が終わる前から終わった後の話か」
「だって、いつか終わるじゃん」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちた。
旅は始まったばかりだ。
埼玉から秩父へ行き、多摩へ入り、東京へ来た。
この先、千葉、茨城、栃木、群馬、山梨、長野、新潟、福島。
まだまだ行く場所はある。
それでも、旅はいつか終わる。
終わるからこそ、今走っている。
サチは静かに笑った。
「その時は、ちゃんと会おう」
ミカが頷く。
「うん」
リュウも軽く言った。
「まあ、俺らは普通に会うだろ」
「リュウさん、そういう軽い感じで言ってくれるの助かる」
「重くすると照れるだろ」
「照れる」
ナオは少しだけ笑った。
「終わる前に、まだだいぶ走るけどな」
「それはそう」
ミカがすぐに戻った。
「千葉も行くし、茨城も行くし、栃木も群馬も山梨も行くんでしょ?」
「ああ」
「それで長野とか福島とか新潟も行くかもって言ってたよね」
「行きたいな」
「先長すぎ」
リュウが笑う。
「いいじゃないか。終わりが遠い方が」
「まあね」
昼前になり、4人は公園近くで食べ物を買った。
今日は代々木公園からあまり遠くへ行かず、午後に少し渋谷方面へ歩くことにした。
ミカは原宿と表参道の明るさにだいぶ慣れたようで、昨日よりも足取りが軽かった。
ただ、時々フリーマーケットの方を振り返る。
サチが気づいて聞いた。
「気になる?」
「うん。でも、戻りたいって感じじゃない」
「見届けた感じ?」
「そう、それ」
ミカは少し笑った。
「鈴の子とかとは違うけど、こういうのも旅なんだね」
「そうだな」
ナオが答える。
「行く先々で、何かを拾う。全部を持ち帰るわけじゃないけど」
「今日のは置いてきた」
「預けてきた」
「あ、そうだった」
4人は昼を食べたあと、表参道方面へ歩いた。
街路樹の下を人が流れている。
ブランドの店。
カフェ。
小さな路地。
明るいのに、どこか大人びた街だった。
サチはショーウィンドウを見ながら言った。
「昨日の新宿と全然違うね」
「違うな」
リュウが言う。
「同じ都内でも、こんなに顔が変わるんだな」
ミカは少し元気になっていた。
「ここは歩ける」
「新宿は?」
「昼なら歩ける。夜はちょっと覚悟いる」
「だいぶ成長したな」
「怖がりのまま成長してるから」
その言い方に、4人全員が少し笑った。
夕方前、もう一度代々木公園の入口近くを通った。
フリーマーケットの場所は、朝よりも人が増えていた。
年配の女性の店も見えた。
写真立ては、もう並んでいなかった。
ミカはそれを確認して、小さく頷いた。
「ないね」
「しまってくれたんだろ」
リュウが言った。
「うん。よかった」
その時、店番の女性がこちらに気づき、軽く手を振った。
ナオたちも会釈する。
女性は少し離れた場所から、自分の胸元に手を当てるようにして、にっこり笑った。
何かを言ったわけではない。
でも、それだけで十分だった。
サチが小さく言った。
「ちゃんと預けられたね」
「ああ」
ナオは頷いた。
この話は、ここで終わりでいい。
無理に正体を探さなくていい。
写真の5人が誰だったのか。
ひとりでも、という言葉を書いたのが誰なのか。
その後、本当に誰かが来たのか。
分からないままでいい。
分からないまま、少しだけ気にかける。
そういう終わり方があってもいい。
新宿へ戻る途中、電車の中でミカが言った。
「今日、怖くなかったけど、ちょっと泣きそうになった」
「泣いてないだろ」
リュウが言う。
「泣いてないけど、心がちょっと」
「心が?」
「しんみりした」
「最初からそう言え」
サチが笑った。
「でも分かるよ。怖いより、寂しい日だったね」
「うん」
ナオは吊り革につかまりながら、窓の外に流れる街を見た。
写真の人たちも、電車に乗ったのだろうか。
代々木公園へ向かったのだろうか。
また、ここで。
そう言って別れたあと、同じ景色をもう一度見たのだろうか。
答えはない。
だからこそ、想像が残る。
新宿のホテルへ戻ると、部屋は昨日より少し広く感じた。
テーブルの上に写真立てがないからだった。
ミカはそれにすぐ気づいた。
「なくなったら、ちょっと寂しい」
「持ってたら怖いって言ってただろ」
リュウが言う。
「それとこれとは別」
「便利だな」
「感情は便利じゃないの」
サチはベッドに座り、ゆっくり息を吐いた。
「今日はいい日だったね」
「そうだな」
ナオは答えた。
タブレットを開き、今日のメモを書く。
代々木公園。
写真立てを預ける。
また、ここで。
ひとりでも。
約束は、誰かが覚えていれば残る。
そこで少し手を止める。
最後に、ナオは一行を書いた。
――分からないまま、大事にしていいものもある。
サチが横から見て、静かに微笑んだ。
「今日の締め、好き」
「そうか」
「うん。全部分からなくてもいいって、ちょっと楽になる」
ミカはベッドに転がりながら言った。
「私も今日の話は好き。怖くないけど、残る」
「そういう日もいいな」
リュウが言った。
「毎回事件じゃ疲れるしな」
「それ、私ずっと言ってる」
ミカがすぐ返す。
「やっとみんな分かってきた」
「先生か」
「怖がり先生」
4人は少し笑った。
夜になっても、今日は外へ出なかった。
新宿の夜は外で光っていたが、部屋の中には代々木公園の昼の余韻が残っていた。
古い写真の5人。
木の下の約束。
誰かひとりでも来たかもしれない場所。
そして、それを少しだけ預かった自分たち。
旅は、次の場所へ進む。
けれど今日だけは、誰かの古い約束を置いてきた場所が、少しだけ心に残っていた。




