17話 代々木公園の昼
翌朝、ミカの第一声ははっきりしていた。
「今日は明るいところがいい」
新宿のホテルの部屋で、ミカはベッドの上に座ったままそう言った。
リュウは洗面所から顔を出す。
「まだ朝だぞ」
「朝だから言ってるの。夜になってからだと、もう流れで変なところ行くじゃん」
「昨日は変なところ行ってないだろ」
「新宿の夜ってだけで十分変だった」
サチは髪を整えながら笑った。
「じゃあ今日は、本当に明るいところにしようか」
「サチさん、神社とかじゃなくてね」
「分かってる」
ナオはタブレットを閉じた。
「代々木公園に行くか」
ミカは少しだけ考えた。
「公園?」
「ああ。新宿から近いし、人もいる。原宿や表参道の方にも歩ける」
「ご飯ある?」
「ある」
「明るい?」
「昼なら明るい」
「じゃあ合格」
リュウが笑った。
「判断が早いな」
「昨日の夜で疲れたの。今日は光合成する」
「植物か」
「気持ちは植物」
ホテルを出ると、新宿は朝からすでに動いていた。
昨日の夜のような派手な明かりはない。
けれど、駅へ向かう人の流れは途切れず、街は眠らないまま朝に切り替わったように見えた。
ミカはその流れを見ながら、少しだけ肩をすくめた。
「新宿って、朝でも新宿なんだね」
「そりゃそうだろ」
リュウが言う。
「夜とは違うけど、休んでる感じがしない」
「街が大きいからな」
ナオは歩道の先を見ながら答えた。
「人が入れ替わってるだけで、ずっと動いてる」
サチが小さく言った。
「昨日の女性、大丈夫だったかな」
少しだけ空気が静かになった。
白いコートの女性。
泣いて歩いていた人。
待ち伏せしていた元彼。
交番まで向かっていった後ろ姿。
ナオは短く答えた。
「大丈夫だといいな」
ミカはうなずいた。
「うん。今日は、ああいうのなしで」
「なしにできるものでもないけどな」
リュウが言うと、ミカはすぐに睨んだ。
「そういう正論、今日は朝からいらない」
「はい」
車は使わず、電車で移動することにした。
ミカは一瞬だけ顔を曇らせたが、地下深くへ潜るわけではないと聞いて少し安心した。
それでも駅の中では、自然と4人の距離が近くなる。
人の流れ。
案内表示。
発車メロディ。
階段を上がる人、下りる人。
昨日の「こちらではありません」という文字を、誰も口には出さなかった。
それでも、案内表示を見る時だけ、全員が少し慎重になっていた。
原宿駅に着くと、空気が少し変わった。
新宿の圧とは違う。
若い人が多く、服の色も明るい。
観光客らしい人も多い。
駅前には、写真を撮る人、待ち合わせをする人、どこへ行くか相談している人たちがいた。
ミカは改札を出た瞬間、少しだけ目を輝かせた。
「ここはだいぶいい」
「早いな」
リュウが言う。
「だって空が見えるし、服も明るいし、怖くない」
「新宿も空は見えるだろ」
「見えるけど、ビルに切られてる空じゃん」
サチが笑った。
「ミカちゃん、今日ちょっと詩的だね」
「昨日の夜を越えたから」
「成長したな」
リュウが言うと、ミカはすぐに返した。
「怖がりのまま成長してる」
「それはいい成長なのか?」
「たぶん」
代々木公園へ向かう道は、人が多かった。
それでも、新宿のように押し流される感じではない。
歩く速度が少しゆるい。
目的地へ急ぐ人より、今ここにいる時間を楽しんでいる人が多い。
サチは木々の方を見ながら言った。
「いいね。都心なのに緑がある」
「ここは助かる」
ミカも頷いた。
「明るい、公園、人がいる、食べ物ありそう。満点に近い」
「食べ物があるかどうかは重要なんだな」
リュウが笑う。
「重要」
ナオは公園の入口を見た。
広い道。
木々。
ランニングする人。
犬を連れて歩く人。
楽器を持った若者。
ベンチに座る人。
昨日の新宿の夜とは真逆に近い光景だった。
けれど、同じ東京の中にある。
それが面白かった。
4人は公園の中をゆっくり歩いた。
サチは木陰を選んで歩き、ミカは犬を見るたびに少し表情を緩める。
リュウは時々、道沿いの人たちを見ていた。
「ここ、何でもいるな」
「何でもって?」
ミカが聞く。
「走ってる人、歌ってる人、踊ってる人、寝てる人、犬、外国人、家族連れ」
「平和じゃん」
「まあ、平和だな」
ナオは少し笑った。
「人が自由にいる場所って感じだな」
サチが頷いた。
「昨日の新宿は、人が流れてる感じだったけど、ここは人が点々といる感じ」
「その表現いいな」
ナオが言うと、サチは少し照れたように笑った。
「ナオくんに褒められると、ちょっと変な感じ」
「そうか?」
「うん。説明の先生に丸もらった感じ」
リュウが笑った。
「分かる」
「分かるな」
ミカも頷いた。
「ナオさん、たまに先生っぽいもん」
「そんなつもりはない」
「じゃあ、落ち着いた変な先生」
「変はつくのか」
昼前になると、公園の周辺には食べ物の匂いが増えてきた。
キッチンカーらしい車もあり、軽食を買う人の列ができている。
ミカはすぐに反応した。
「ある」
「何が?」
リュウが聞く。
「食べ物」
「目が早いな」
「今日は明るい場所で食べる日だから」
ナオとサチも当然のように列へ向かった。
リュウはそれを見て笑う。
「結局みんな食うんだな」
「旅だからな」
ナオが言う。
「便利な言葉だな、本当に」
4人はそれぞれ軽食と飲み物を買い、木陰のベンチを探した。
ちょうど空いた場所があり、そこで昼にする。
周囲には人の声があり、遠くでギターの音が聞こえた。
誰かが歌っている。
上手いのかどうかは分からないが、その声は公園の空気に合っていた。
ミカは食べながら言った。
「今日、かなり回復してる」
「何から?」
リュウが聞く。
「新宿の夜から」
「昨日そんなに効いたか」
「効いたよ。あの女性のこともあるし、人多いし、なんか疲れた」
サチも頷く。
「私も少し疲れた。でも、今日みたいな場所があると戻れるね」
「そうだな」
ナオは飲み物を持ちながら、公園の向こうを見た。
東京は大きい。
新宿の夜も東京。
代々木公園の昼も東京。
同じ日に行ける距離なのに、空気がまるで違う。
旅をしていると、そういう差がよく見える。
地図では近い場所でも、実際に歩くと別の世界のように感じることがある。
食事を終えたあと、4人は少し離れた場所で開かれていた小さなフリーマーケットのような集まりを見つけた。
正式なイベントなのか、ただいくつかの出店が並んでいるだけなのかは分からない。
古着。
アクセサリー。
古い雑貨。
手作りの小物。
ミカはすぐに近づいた。
「こういうの好き」
「赤い髪飾り買うか?」
リュウが言うと、ミカは即座に睨んだ。
「買わない」
「まだだめか」
「ずっとだめ」
サチは小さな布のポーチを手に取っていた。
「かわいいね」
「サチ、それ買う?」
ナオが聞く。
「うーん、迷う」
「迷ってるなら買えばいい」
「ナオくんの買い物判断、だいたい早いよね」
「旅の荷物に入るならいいだろ」
「そういう問題?」
リュウは古いキーホルダーが並ぶ箱を見ていた。
昭和っぽい土産物。
どこかの観光地の名前が入ったもの。
もう閉館していそうな施設のロゴが入ったもの。
「こういうの、誰かが昔買ったんだよな」
「そうだな」
ナオも覗き込んだ。
「行った記念に買って、いつか手放されて、ここに並んでる」
「ちょっと寂しいな」
ミカが言った。
「でも、誰かがまた買ったら続くじゃん」
サチが答える。
「物の旅だね」
「サチさん、それいい」
ミカが笑った。
その時、ナオは箱の隅に、古い写真立てのようなものを見つけた。
木製の小さなフレーム。
中には写真が入っている。
代々木公園らしき場所で撮られた、古い集合写真だった。
若い男女が5人、木の前に並んでいる。
服装からして、かなり昔の写真に見える。
全員が笑っているわけではない。
中央の男性だけが、少し真面目な顔をしている。
ナオはそれを手に取った。
店番をしていた年配の女性が言った。
「あ、それね。古い写真のまま入ってるの。誰のか分からないんだけど」
「売り物ですか?」
「一応ね。でも、写真が入ってるから気になるなら抜いてもいいよ」
ミカが横から覗いた。
「知らない人の写真?」
「そうみたい」
サチも少し近づいた。
「なんで売ってるんだろうね」
女性は肩をすくめた。
「家の片づけで出てきたものをまとめて譲ってもらったの。写真立てだけ欲しい人もいるから」
リュウは写真を見ながら言った。
「こういうの、ちょっと捨てにくいな」
「だな」
ナオは写真を見ていた。
不気味ではない。
ただ、知らない人たちの楽しそうな一瞬が、誰のものでもない状態でここにある。
それが少しだけ引っかかった。
ミカが言った。
「ナオさん、それ買うの?」
「迷ってる」
「珍しい」
「写真が入ってるからな」
サチは静かに言った。
「その人たちのものって感じがするね」
「そうだな」
ナオは写真立てを戻そうとした。
その時、写真の裏側に何か書かれているのが見えた。
フレームの隙間から、古い文字が少しだけ覗いている。
ナオが店番の女性に確認すると、女性は頷いた。
「見てもいいよ。私もちゃんとは見てないから」
ナオはそっと裏板を外した。
古い写真の裏には、薄い鉛筆の文字があった。
――また、ここで。
それだけだった。
日付も名前もない。
ただ、その一言だけ。
ミカは少しだけ眉を寄せた。
「また、ここで?」
リュウが言った。
「待ち合わせの写真か?」
「かもしれない」
サチは写真の表をもう一度見た。
「この人たち、またここで会う約束したのかな」
「でも写真だけ残った」
ミカが言う。
その声には、少しだけ寂しさがあった。
店番の女性は興味深そうに見ていた。
「そんなこと書いてあったんだ」
「この写真、買ってもいいですか?」
ナオが言った。
ミカが少し驚く。
「買うの?」
「うん」
「なんで?」
「捨てられるよりは、少し持っていたい」
「ナオさんらしいけど、ちょっと重くない?」
「重かったら、どこかで手放す」
サチはナオを見て、少しだけ笑った。
「ナオくん、そういうの拾うよね」
「拾うってほどじゃない」
「心で拾ってる感じ」
リュウが財布を出しかけたナオを見て言った。
「お前が買うならいいんじゃないか。旅の記録みたいで」
「知らない人の記録だけどな」
「それも旅だろ」
ナオは写真立てを買った。
店番の女性は小さな紙袋に入れてくれた。
「大事にしてくれるなら、その方がいいわ」
「ありがとうございます」
ナオは受け取り、バッグへ入れた。
そのあとも4人は公園周辺を歩いた。
写真立てのことはしばらく話題になった。
ミカは少し気にしているようだったが、怖がっているというより、不思議がっている感じだった。
「知らない人の写真って、なんか変な気持ちになるね」
「分かる」
サチが言う。
「その人たちにとっては大事な時間だったかもしれないのに、私たちは何も知らない」
「でも、写真だけ見ると楽しそう」
リュウが言った。
「本当にまた会えたのかな」
ミカがつぶやく。
誰も答えなかった。
怪異ではない。
怖い話でもない。
それでも、胸の奥に少し残る。
そういうものだった。
午後遅く、4人は原宿から表参道方面へ少し歩いた。
人の流れはまた変わった。
代々木公園のゆるさから、店と街路樹の整った通りへ。
ミカはショーウィンドウを見ながら言った。
「今日、東京って感じする」
「昨日も東京だったろ」
リュウが言う。
「昨日は新宿の夜で、東京というより新宿だった」
「分かるような分からないような」
サチは笑いながら頷いた。
「でも、今日はちょっと明るい東京だね」
「そうそう」
ミカが嬉しそうに言う。
「明るい東京」
ナオはバッグの中の写真立ての重さを少しだけ感じていた。
軽いものなのに、妙に存在感がある。
また、ここで。
その言葉が頭に残る。
待ち合わせ。
約束。
再会。
それらは旅と相性がいい。
旅は出会いだけでなく、別れと再会の連続でもある。
夕方になる前に、4人は新宿へ戻ることにした。
今日は夜まで歩き回らない。
ミカの希望でもあり、ナオもそれでいいと思っていた。
原宿駅へ向かう途中、駅前で小さな人だかりがあった。
誰かが路上で写真を撮っている。
観光客らしいグループが、木々を背景に並んでいた。
その光景を見て、サチがふと言った。
「さっきの写真も、こういう感じだったのかな」
「かもな」
リュウが答える。
「誰かが、はい撮るよって言って」
「またここで会おうって言って」
ミカが続けた。
「でも、写真だけ残った」
その時、ナオのバッグの中で、紙袋が少し音を立てた。
ただ歩いた振動で動いただけだった。
けれど、ナオは足を止めた。
「どうした?」
リュウが聞く。
「いや」
ナオはバッグを開けた。
紙袋の中の写真立てを取り出す。
フレームはそのまま。
写真も変わっていない。
ただ、裏に戻したはずの写真が、少しだけずれていた。
ナオは裏板を外した。
裏の鉛筆の文字が、また見える。
――また、ここで。
その下に、さっきは気づかなかった薄い文字があった。
消えかけている。
かなり古い。
ナオは目を細めた。
――ひとりでも。
ミカが横から見て、息を止めた。
「さっき、その文字あった?」
「見えなかった」
サチも顔を寄せる。
「ひとりでも?」
リュウは写真を見た。
「また、ここで。ひとりでも」
4人はしばらく黙った。
怖いというより、寂しい言葉だった。
5人で写った写真。
またここで。
ひとりでも。
その意味を、想像するしかない。
誰かが来なかったのか。
誰かだけが来続けたのか。
あるいは、全員でそう約束したのか。
ミカは小さく言った。
「これ、怖いより悲しいね」
「そうだな」
ナオは答えた。
写真立てを紙袋に戻す。
今度はバッグの奥ではなく、手に持つことにした。
リュウが言った。
「どうするんだ、それ」
「今日、持っておく」
「明日は?」
「考える」
サチは少しだけ考えてから言った。
「代々木公園に戻す?」
「それもいいかもしれない」
ミカが驚いたように見る。
「買ったのに?」
「持って帰るものじゃない気もする」
ナオが言うと、ミカは少しだけ納得したように頷いた。
「それは、分かるかも」
原宿駅から電車に乗り、新宿へ戻る。
電車の中で、4人はあまり話さなかった。
怖い出来事があったわけではない。
誰かに追われたわけでもない。
鈴の音も、赤い髪飾りもなかった。
それでも、知らない5人の写真が、全員の心に少し残っていた。
新宿のホテルに戻ると、外はまだ明るさを残していた。
今日は早めに夕食を取り、部屋でゆっくりすることにした。
ミカは食事中も、少しだけ写真のことを考えているようだった。
「ねえ、あの写真の人たちって、もうおじいちゃんおばあちゃんだよね」
「写真の時代によるな」
リュウが答える。
「もしかしたら、もう亡くなってる人もいるかも」
「そうだな」
「でも、写真の中では若いままなんだよね」
サチが静かに言った。
「写真って、そういうところあるね」
ナオは水を飲んだ。
人は変わる。
場所も変わる。
でも写真の中だけ、ある瞬間が止まる。
その止まった時間が、誰のものでもなくなって、今日の代々木公園の端で売られていた。
それをたまたま見つけた。
それだけのことだ。
それだけなのに、旅の一日に入り込んできた。
部屋に戻ると、ナオは写真立てをテーブルの上に置いた。
ミカは少し距離を取って見ていた。
「夜に見ると、ちょっと雰囲気ある」
「怖いか?」
リュウが聞く。
「怖いっていうか、見ちゃいけないもの見てる感じ」
「それは分かる」
サチが言った。
「でも、捨てられるよりはよかった気もする」
「明日、戻す?」
ミカが聞いた。
ナオは少し考えた。
「戻すか、どこかに置くかはまだ決めない。ただ、勝手に捨てたりはしない」
「うん」
リュウは写真を見ながら言った。
「また、ここで。ひとりでも、か」
「重いな」
「重い」
ミカが頷いた。
「でも、今日の話は嫌いじゃない」
サチが少し笑った。
「私も」
「怖くないのに、残る」
ミカはそう言って、ベッドに腰を下ろした。
ナオはタブレットを開いた。
今日のメモを書く。
代々木公園。
明るい場所。
フリーマーケット。
古い写真立て。
また、ここで。
ひとりでも。
知らない誰かの約束。
最後に少し迷ってから、一行を書いた。
――旅は、自分たち以外の記憶も拾う。
サチが横から見て、静かに頷いた。
「今日っぽいね」
「ああ」
ミカは小さくあくびをした。
「明日、その写真どうするか決めよう」
「そうだな」
リュウが答える。
「でも、持って帰るより、どこかでちゃんと終わらせたい感じはあるな」
ナオは写真立てを見た。
知らない5人は、相変わらず写真の中で並んでいる。
笑っている人。
真面目な顔の人。
少し横を向いた人。
それぞれの人生があったはずなのに、今ここにあるのは、1枚の写真と2つの短い言葉だけだった。
また、ここで。
ひとりでも。
外では新宿の夜が始まっていた。
けれど、部屋の中には代々木公園の昼がまだ少し残っていた。
木陰の匂い。
人の声。
ギターの音。
古い写真。
ナオは写真立てを伏せず、そのままテーブルの上に置いた。
今日は、それでいい気がした。




