16話 夜の新宿で
新宿の夜を見ることになったのは、昼間から決めていたわけではなかった。
夕方、ホテルの近くで食事を済ませたあと、リュウがぽつりと言った。
「ちょっとだけ歩かないか」
ミカは、箸を置いたままリュウを見た。
「どこを?」
「新宿」
「今いるじゃん」
「いや、夜の新宿」
「リュウさん、さっきまで私に優しかったのに」
リュウは苦笑した。
「変なとこ行くって意味じゃない。駅の周りを少しだけ。人がいる場所だけな」
「それ、信用できる?」
ミカはナオを見た。
ナオは水を飲み、少しだけ考えた。
「人通りの多い場所だけなら、見てもいいと思う」
「ナオさんまで」
サチはミカの顔を見て、やわらかく言った。
「無理ならやめよう」
「うーん」
ミカは少し迷った。
怖いのは嫌。
でも、新宿まで来て夜を見ないのも、それはそれで惜しい。
そういう顔だった。
「本当にちょっとだけ?」
「ちょっとだけ」
ナオが答える。
「地下は?」
「入らない」
「細い道は?」
「入らない」
「人が少ないところは?」
「行かない」
「鈴の子は?」
「探さない」
「よし」
ミカはようやく頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
外へ出ると、新宿は昼間とは別の街になっていた。
明かりが増えていた。
看板。
ビルの窓。
車のライト。
大型ビジョン。
店の入口。
人の顔にも光が当たり、歩道全体が常に動いているように見える。
昼間よりも人が減っているわけではない。
むしろ、夜になって別の人たちが街へ出てきたようだった。
ミカはサチの横に並びながら言った。
「昼より明るい場所あるね」
「そうだね」
サチが答える。
「でも、昼より落ち着かない」
「分かる」
リュウは周囲を見ながら言った。
「夜の新宿って、光が多いのに暗いな」
「どういう意味?」
ミカが聞く。
「いや、明るいところはすごく明るいけど、その分、影が濃い感じがする」
「リュウさん、今日はナオさんみたいなこと言うね」
「感染したか」
「嫌な感染」
ナオは先頭を歩きすぎないように、歩幅を少し抑えていた。
人が多い場所では、4人で固まる方が難しい。
少し気を抜くと、前後に分かれる。
信号を渡る時。
店の前で人が止まる時。
呼び込みの声が横から入る時。
誰かがスマホを見て急に立ち止まる時。
街そのものが、4人を少しずつばらばらにしようとしているように感じた。
「サチ、こっち」
「うん」
ナオが少し手を上げると、サチはすぐ隣に戻った。
リュウもミカを気にしている。
ミカはそれに気づき、少し口を尖らせた。
「子ども扱いしてない?」
「してる」
「してるんだ」
「今日はしていいだろ」
「まあ、今日は許す」
東口方面へ回ると、昼間よりもさらに空気が変わった。
通りは明るい。
人も多い。
けれど、流れている時間が少し違う。
飲みに行く人。
仕事帰りの人。
これからどこかへ向かう人。
何をしているのか分からない人。
立っているだけの人。
人が多いのに、孤独が見える。
そんな場所だった。
サチが小さく言った。
「人が多いのに、ひとりの人が多く見えるね」
ナオは頷いた。
「新宿っぽいな」
「寂しい街なの?」
「寂しい人も、寂しくない人も、同じ場所にいる街だと思う」
「ナオくん、それちょっと分かる」
ミカが後ろから言った。
「分かるけど、今日そういうの深く考えると帰りたくなる」
リュウが笑う。
「もう少しだけ歩こう」
「本当に少しだけね」
その時、ミカが立ち止まった。
急に止まったので、リュウもすぐ振り返る。
「どうした?」
「今の人」
「どの人?」
「白いコートの女の人」
ミカが見ている先には、信号の向こう側へ歩いていく女性の後ろ姿があった。
白いコート。
肩くらいの髪。
片手に小さな紙袋を持っている。
人混みに紛れて、少しずつ遠ざかっていく。
リュウが目を細めた。
「知り合いか?」
「違う」
「じゃあ何?」
「ずっと泣いてた」
その言葉に、サチが顔を上げた。
「泣いてた?」
「うん。すれ違った時、顔が見えた。泣いてるのに、普通に歩いてた」
ナオも女性の後ろ姿を見た。
白いコートは、人混みの中でちらちら見え隠れしている。
泣いているかどうかは、もう分からない。
ただ、歩き方は普通だった。
急いでいるわけでもない。
ふらついているわけでもない。
でも、ミカの声には妙な確信があった。
「大丈夫かな」
サチが言った。
リュウは少し迷う。
「声かけるか?」
ミカはすぐに首を振った。
「でも、急に知らない人に声かけられても怖いよね」
「そうだな」
ナオは女性の方を見ていた。
人が多い。
その中で誰かが泣いている。
それはおかしくない。
新宿なら、そういうこともあるだろう。
悲しいことがあったのかもしれない。
仕事で嫌なことがあったのかもしれない。
誰かと別れたのかもしれない。
ただ、何となく引っかかった。
泣いているのに、普通に歩いている。
ミカがそれを見つけた。
そこに、何かがあった。
「少しだけ、同じ方向へ歩く」
ナオが言った。
ミカがすぐに反応する。
「追いかけるの?」
「追いかけるんじゃない。様子を見るだけ」
「その言い方、前にも聞いた」
「違う。人間相手だから、距離は取る」
リュウが頷いた。
「それならいい。もし危なそうなら、近くの交番か店員に言えばいい」
サチも言った。
「そうだね。直接声かけるより、その方がいいかも」
4人は白いコートの女性が歩いていった方向へ、少し距離を置いて進んだ。
人混みの中で、相手を見失わないようにするのは簡単ではなかった。
白いコートは目立つ。
けれど似たような服の人もいる。
看板の光で色が変わって見える。
横断歩道を渡るたびに、人の流れが入れ替わる。
しばらく歩いたところで、女性はビルの前で足を止めた。
そこは飲食店の入ったビルだった。
入口には明るい看板があり、エレベーターへ続く通路が見える。
女性はそこで立ち止まり、紙袋を胸元に抱えたまま、じっと入口を見ていた。
ミカが小声で言った。
「やっぱり変じゃない?」
「泣いてる?」
サチが聞く。
「今は見えない。でも、なんか」
女性はエレベーターへ向かわず、入口の横に立っていた。
通行人は誰も気にしない。
新宿では、誰かが立ち止まっていても、それだけでは誰も見ない。
ナオは近くのコンビニの前で足を止めた。
ここなら不自然ではない。
リュウはスマホを見るふりをして、女性の方を少し見ていた。
数分が過ぎた。
女性は動かない。
ミカの表情がだんだん不安になる。
「ねえ、ずっといるよ」
「待ち合わせかもしれない」
リュウが言う。
「泣きながら?」
「泣いた後かもしれない」
「それはそうだけど」
その時、女性の前に男が近づいた。
黒いジャケット。
年齢は40代くらい。
知り合いのようにも見える距離で立ち止まった。
女性は顔を上げた。
男は何かを言った。
女性は首を振った。
男がさらに一歩近づく。
ミカがリュウの袖をつかんだ。
「嫌な感じ」
リュウの顔つきも変わった。
「ああ」
サチも不安そうに見る。
「知り合いかな」
「分からない」
ナオは周囲を見た。
人はいる。
店もある。
もし揉めごとなら、すぐに助けを呼べる場所だ。
男が女性の腕に手を伸ばした。
女性は一歩下がった。
その瞬間、ナオは動いた。
走りはしない。
大げさに割って入ることもしない。
ただ、自然に近づいた。
「すみません」
ナオが声をかけると、男が振り返った。
女性も驚いたようにナオを見る。
「この辺りで交番を探してるんですけど、近くにありますか?」
わざと、男にではなく、2人の間に向けて声を出した。
リュウもすぐ後ろに来た。
サチとミカは少し離れた、人通りのある場所に立っている。
男は一瞬だけ表情を固めた。
「知りません」
ぶっきらぼうに答える。
ナオは女性を見た。
「すみません、ご存じですか?」
女性は少し戸惑いながらも、すぐに口を開いた。
「あ、駅の方に、あります」
「ありがとうございます」
ナオは軽く頭を下げた。
その間に、女性は男から少し距離を取った。
リュウがさりげなく間に立つ。
男は舌打ちのような音を立て、何も言わずに人混みの方へ歩いていった。
ミカが小さく息を吐いた。
女性はしばらく黙っていた。
近くで見ると、確かに目が赤かった。
涙の跡もある。
サチがゆっくり近づいて、無理のない距離で声をかけた。
「大丈夫ですか?」
女性は一度頷き、それから小さく首を振った。
「……すみません」
「無理に話さなくて大丈夫です」
サチの声は落ち着いていた。
女性は紙袋を握りしめていた。
「元彼で。待ち伏せされてて」
ミカの顔が一気に強ばった。
リュウも低い声で言った。
「交番行った方がいいですね」
女性は迷うように視線を落とした。
「でも、大げさにしたくなくて」
ナオは静かに言った。
「大げさかどうかは、相手が決めることじゃないです。怖いと思ったなら、相談していいと思います」
女性は唇を噛んだ。
少しの沈黙のあと、頷いた。
「行きます」
「場所、分かりますか?」
「はい」
サチが言った。
「人が多い通りまで一緒に歩きます」
女性は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
4人は女性を挟むようにはせず、少し距離を保ちながら人通りの多い方へ歩いた。
女性は途中で何度か後ろを見た。
男の姿はなかった。
駅前に近づき、交番が見える場所まで来ると、女性はもう一度頭を下げた。
「ここで大丈夫です」
サチが優しく頷いた。
「気をつけてください」
ミカは少し迷ってから言った。
「怖かったら、ちゃんと怖いって言っていいと思います」
女性はミカを見て、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「はい」
そして交番の方へ歩いていった。
4人はしばらく、その後ろ姿を見送った。
リュウが低く息を吐いた。
「現実の方が嫌な時あるな」
「うん」
ミカはすぐに頷いた。
「今のは本当に嫌だった」
サチも顔を曇らせていた。
「でも、声かけられてよかった」
「直接揉める形にしなくてよかったな」
ナオが言うと、リュウが頷いた。
「交番の場所聞いたの、うまかった」
「間を作りたかっただけだ」
「それがうまかったんだよ」
ミカはナオを見た。
「今日のナオさんは、路地に入らないナオさんで助かった」
「褒められてるのか?」
「かなり褒めてる」
そのあと、4人は歌舞伎町の奥へは入らず、明るい大通りを回ってホテル方面へ戻ることにした。
新宿の夜は、相変わらずうるさく、明るく、人が多かった。
けれど、さっきまでとは少し見え方が違った。
都市の怖さは、怪異だけではない。
誰かが困っていても、周りが気づかないこと。
気づいても、声をかけるか迷うこと。
その迷いの中で、相手がどんどん追い詰められていくこと。
そういう怖さがある。
ミカはしばらく無言で歩いていた。
リュウが横で聞く。
「大丈夫か?」
「うん。でも、なんか腹立つ」
「何に?」
「さっきの男。あと、怖いのに大げさにしたくないって思っちゃう感じ」
サチが静かに頷いた。
「分かる」
「サチさんも?」
「うん。大人になると、騒いじゃいけないって思う時あるよね。でも本当は、怖いなら怖いって言っていいんだよね」
ミカは少しだけ目を伏せた。
「うん」
ナオはその会話を聞きながら、歩道の先を見ていた。
新宿の看板は明るい。
人の声も途切れない。
それでも、誰かの小さな声は簡単に消える。
さっきの女性が、もしミカの目に留まらなかったら。
もし誰も足を止めなかったら。
そう考えると、夜の街の明るさが少し違って見えた。
リュウがふいに言った。
「ミカが気づいたんだよな」
「え?」
「あの人が泣いてたの」
「たまたまだよ」
「たまたまでも、気づいた」
ミカは少し照れたように目をそらした。
「怖がりだから、そういうの見ちゃうだけ」
ナオが言った。
「怖がりは悪いことじゃない」
ミカが驚いた顔をした。
「ナオさんがそういうこと言うの珍しい」
「怖いと思えるから気づけることもある」
サチも微笑んだ。
「今日のミカちゃん、ちゃんと役に立ってたよ」
「ちゃんとって何」
「すごく」
「言い直しても少し変」
リュウが笑った。
「でも本当にそうだな」
ミカは少しだけ笑った。
「じゃあ今日は、怖がり担当じゃなくて、気づき担当ってことで」
「いいな、それ」
リュウが言った。
ホテルに戻る前に、4人はコンビニに寄った。
水や軽い夜食を買う。
ミカは甘いものを少し多めに買った。
リュウがそれを見て言う。
「今日も怖かったから食べるのか」
「今日は腹立ったから食べる」
「理由が増えたな」
「必要だから」
サチも横から小さなお菓子を追加した。
「私も食べる」
「サチさんも?」
「うん。今日はそういう日」
ナオも何か買おうとして、リュウに笑われた。
「お前もか」
「運転したし、歩いた」
「便利な理由だな」
「必要だから」
ミカが自分の言葉を取られて、少し笑った。
ホテルに戻ると、部屋の空気はようやく静かになった。
外の新宿はまだ眠っていない。
でも、部屋の中だけは少し離れた場所のようだった。
サチはベッドに座り、買ってきた水を飲んだ。
「今日は、怪異じゃなかったね」
「そうだな」
ナオが答える。
「でも、怖かった」
「うん」
ミカも頷く。
「変な話、鈴の子の方がまだマシかもって思った」
リュウが少し笑った。
「それ言うと出るぞ」
「やめて」
「でも、今日は出なかったな」
部屋が少し静かになった。
確かに、今日は鈴の音も、赤い髪飾りも、妙な案内もなかった。
ただ、人が泣いていて、人が近づいて、4人が少しだけ間に入った。
それだけの日だった。
でも、それだけで十分に濃かった。
ナオはタブレットを開いた。
今日のメモを書く。
夜の新宿。
泣いて歩く女性。
白いコート。
待ち伏せ。
交番を探すふり。
ミカが気づいた。
人の流れの中の小さな声。
最後に、ナオは少し考えてから一行を書いた。
――怖がることで、見えるものがある。
ミカが横から覗いた。
「それ、私のこと?」
「そうだな」
「変な感じに書かないでよ」
「変じゃない」
「ならいいけど」
サチが笑った。
「今日のミカちゃん、よかったよ」
「褒められすぎると落ち着かない」
リュウが缶の飲み物を開けながら言った。
「じゃあ、いつも通りに戻すか。ミカは怖がり」
「戻しすぎ」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いに、今日の嫌な感じが少しずつほどけていく。
夜の新宿は外でまだ光っている。
でも4人は、その中に飲み込まれずに戻ってきた。
それだけで、今日は十分だった。
ナオはタブレットを閉じた。
明日、東京のどこへ向かうかはまだ決めていない。
新宿をもう少し見るのか。
渋谷へ行くのか。
それとも、少し落ち着いた場所へ移るのか。
候補はいくつもある。
ただ、今日分かったことがひとつあった。
この旅で拾うものは、怪談だけではない。
土地の記憶だけでもない。
誰かの小さな困りごとや、見過ごされそうな声も、旅の中に入ってくる。
ミカが最初に気づいた女性は、もう交番で話をしているだろうか。
無事に家へ帰れるだろうか。
そこまでは分からない。
けれど、少なくともあの瞬間、4人は通り過ぎなかった。
新宿の夜で、それは小さくても確かなことだった。
部屋の明かりを落とすと、外の光がカーテン越しに薄く残った。
誰も鈴の音を待たなかった。
誰も赤い影を探さなかった。
その代わり、ミカがぽつりと言った。
「明日は、ちょっと明るいところ行きたい」
リュウがすぐ答えた。
「公園か?」
「公園もいいけど、神社とかじゃなくて、普通に人がいて、ご飯があるところ」
「結局そこか」
サチが笑った。
「でも、いいね。明日は少し軽い場所にしよう」
ナオは目を閉じる前に、短く答えた。
「そうしよう」
夜の新宿は、まだ終わらない。
でも、4人の今日の夜はそこで閉じた。




