15話 新宿の現在地
中野のホテルを出た朝、ミカはいつもより少しだけ緊張していた。
理由は分かりやすい。
今日は新宿へ入る。
山でもない。
湖でもない。
古い旅館でも、細い路地でもない。
ただ、人が多すぎる街。
それが、ミカには逆に少し怖いらしかった。
「新宿って、絶対迷うよね」
ホテルのロビーを出ながら、ミカが言った。
リュウは肩にバッグをかけ直す。
「まあ、慣れてないと迷うな」
「リュウさんは分かるの?」
「駅の中は正直、全部は分からん」
「じゃあ終わりじゃん」
サチが笑いながら言う。
「大丈夫だよ、今日は4人で固まって歩けば」
「サチさん、私、今日は絶対離れない」
「うん、それがいい」
ナオは車のキーを手にしながら、スマホの地図を確認していた。
「車は新宿の外側に停める。駅周辺は歩く」
ミカがすぐに顔を上げる。
「地下は?」
「通るかもしれない」
「出た」
「新宿で地下を避ける方が難しい」
「それは分かるけど」
リュウが少し笑った。
「ミカ、昨日から地下に入る前提で怖がってるな」
「だって新宿の地下って、戻ってこられないイメージある」
「大げさだろ」
「大げさじゃない。たぶん出口が勝手に増える」
「それは増えない」
ナオが言うと、ミカは少し疑わしそうな目を向けた。
「ナオさんが言うと、増えそうなんだよ」
「俺は増やせない」
「知ってるけど、言い方がもう怖い」
中野から新宿までは近い。
それでも、街の密度ははっきり変わっていった。
道を走る車の数が増え、ビルが高くなり、人の流れが太くなる。
新宿に近づくにつれて、車内の会話も自然と少なくなった。
サチは窓の外を見ていた。
「やっぱり大きいね」
「ああ」
ナオは前を見たまま答えた。
「ここは人の流れが強い」
「人の流れ?」
「道を歩いてるというより、流されてる感じがある」
ミカが後ろで小さく言った。
「分かる。まだ車の中なのに、もうちょっと流されてる感じある」
リュウもビルの間を見上げるようにして言った。
「山道とは別の圧があるな」
「ある」
ナオは頷いた。
「山は山の怖さがあるけど、街は街で、自分の位置が分からなくなる怖さがある」
「今日のテーマ決まったね」
ミカが言った。
「現在地を見失わない」
「いいテーマだな」
「笑いごとじゃないから」
車を駐車場に入れ、4人は新宿の街へ出た。
昼前の新宿は、すでに十分すぎるほど混んでいた。
歩道を人が行き交い、信号が変わるたびに人の塊が道を渡る。
大型ビジョンから音が流れ、店の看板がいくつも重なり、ビルの谷間を風が抜けていく。
秩父の山で感じた静けさとは正反対だった。
けれど、静けさがないから安心というわけでもない。
音が多すぎる。
人が多すぎる。
情報が多すぎる。
その中で、何かひとつがおかしくても、気づけない。
サチはナオの隣に並びながら言った。
「これはこれで、ちょっと疲れるね」
「そうだな」
「怖いっていうより、飲み込まれる感じ」
「街に入るって、そういうことかもしれない」
ミカはリュウの袖を軽くつかんでいた。
「私、今日は本当に離れないから」
「分かった」
「リュウさんも勝手に店入らないでね」
「俺は子どもか」
「お酒の看板あったら入るでしょ」
「入らない」
「ちょっと間あった」
まずは駅の外側を歩くことにした。
西口側の高層ビル群。
広い歩道。
都庁方面へ向かう道。
ビルの足元に立つと、空が狭く見える。
山に囲まれた時とは違う。
人工物で空が切り取られている。
リュウは上を見上げた。
「これ、夜に見たらまた違うだろうな」
「夜は光が増える」
ナオが言う。
「窓明かりとか、看板とか、車のライトとか」
「ナオさん、今日は夜に行くって言わないよね?」
ミカがすかさず聞く。
「今日は昼から夕方まででいい」
「本当に?」
「本当に」
「その本当は信じたい」
サチが少し笑った。
「ミカちゃん、新宿に来てから警戒度上がってる」
「だって、ここで迷子になったら見つからなそう」
「スマホあるだろ」
リュウが言う。
「スマホあっても、新宿駅の中なら無理な気がする」
「分からなくはない」
新宿駅へ向かう途中、ナオは地下入口の前で足を止めた。
階段が下へ続いている。
看板には、いくつもの路線名と出口番号が並んでいた。
ミカはその階段を見て、はっきり嫌そうな顔をした。
「行くの?」
「少しだけ」
「出た」
「今回は目的がある」
「目的?」
「駅の地下通路を少し歩く。怪談じゃなくて、新宿の構造を見る」
リュウが興味ありげに言った。
「構造って言うと、ちょっと面白いな」
「面白がらないで」
ミカがすぐに言う。
サチは地下入口を見ながら、少しだけ考えた。
「でも、ここまで来たら地下も見たいかも」
「サチさんまで」
「怖いものを見るんじゃなくて、街を見る感じで」
「みんなナオさん側に行くの早い」
地下へ降りると、空気が変わった。
外の風が消え、代わりに機械の音と足音が増える。
人の流れは途切れない。
右から左へ。
奥から手前へ。
階段から下りてくる人。
改札へ向かう人。
スマホを見ながら歩く人。
誰もが目的地へ向かっているようで、実際には全員が別々の道を進んでいる。
ミカは周囲を見回しながら言った。
「すごい、人の川」
「川か」
ナオが少しだけ笑う。
「水より速いかもね」
サチが言う。
「流れに乗らないと歩きにくい」
「そうだな」
リュウは案内板を見上げた。
「出口多すぎるだろ」
「新宿だからな」
「新宿だから、で済ませていい数じゃない」
ナオは壁の案内図の前で足を止めた。
地下街の地図。
路線。
出口。
通路。
現在地。
その赤い印を見て、ミカが少し笑った。
「現在地ってありがたい」
「今はな」
リュウが言う。
「今は?」
「たまに現在地見ても分かんない時あるだろ」
「ある」
サチが頷いた。
「地図を見てるのに、どっち向いてるか分からなくなる」
「そう、それ」
ミカは案内図をじっと見た。
「今、私たちはここ?」
「ここ」
ナオが指を差す。
「で、こっちへ行けば南口方面。逆へ行けば西口側に戻る」
「ふむ」
ミカは真剣に頷いた。
「今の説明はありがたい」
「山道より真剣だな」
リュウが言う。
「山道はナオさんが運転してくれるけど、地下は自分の足で迷うじゃん」
「なるほどな」
4人は地下通路を歩いた。
今回は変な路地に入るわけではない。
人も多い。
看板もある。
店もある。
それなのに、ミカの言うように、少しでも気を抜くと自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった。
途中、ナオは妙なものに気づいた。
壁に貼られた臨時案内の紙だった。
工事中の迂回路を示すものらしい。
そこには黒い矢印が印刷されていた。
ただ、その矢印の横に、手書きで小さく文字が足されていた。
こちらではありません。
ナオは足を止めた。
リュウが気づく。
「何だ?」
「これ」
ナオが指さす。
サチも近づいた。
「こちらではありません?」
ミカは後ろから覗き込み、すぐに嫌な顔をした。
「そういうの見つけないでよ」
「手書きだな」
リュウが言った。
「誰かのいたずらか?」
「かもしれない」
ナオは紙をよく見た。
矢印は右を指している。
手書きの文字は、その下に小さく書かれている。
こちらではありません。
ミカが言った。
「じゃあ、どっちなの?」
「普通に考えたら、印刷された案内を信用するべきだな」
ナオが答える。
「手書きの方は無視?」
「無視でいい」
ミカは少し安心した顔をした。
「今日のナオさん、ちゃんとしてる」
「いつもちゃんとしてる」
「路地と階段以外はね」
リュウが笑った。
4人は印刷された矢印の方向へ進んだ。
通路は少し細くなり、工事用の仮囲いが続いていた。
人の流れも少し減る。
それでも、完全に人気がなくなるわけではない。
前を歩く会社員。
後ろから来る学生。
掃除用具を押す作業員。
ちゃんと現実の人がいる。
ミカもそれを見て、少し落ち着いたようだった。
しかし、数十メートル進んだところで、通路は行き止まりになっていた。
仮囲い。
工事中の表示。
その前に、小さな紙が貼られている。
現在、この先通行できません。
リュウが呆れたように言った。
「おい、案内違ってるじゃないか」
「工事の情報が古かったのかもな」
ナオが言う。
ミカはすぐに振り返った。
「戻ろう。すぐ戻ろう。これは戻るやつ」
「戻る」
サチも頷いた。
「さっきの手書き、当たってたね」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちた。
こちらではありません。
誰かのいたずらだと思った文字。
それが正しかった。
リュウは少し眉をひそめる。
「駅員か作業員が書いたんじゃないか?」
「だったらもっと分かりやすく貼るだろ」
ナオが答える。
「でも、誰かは知ってたってことだよね」
サチが言う。
ミカは小さく首を振った。
「誰でもいい。戻れるならいい」
4人は来た道を戻った。
幸い、道が変わることはなかった。
階段も消えない。
案内板もそのまま。
ただ、さっきの紙の前まで戻った時、ミカが足を止めた。
「……ない」
「何が?」
リュウが聞く。
「手書きの文字」
紙を見る。
印刷された矢印はある。
工事中の迂回案内もある。
けれど、さっき確かに書かれていたはずの文字がない。
こちらではありません。
その一文だけが、消えていた。
サチが息を呑む。
「さっき、あったよね」
「あった」
ナオが答えた。
リュウも小さく頷く。
「見た」
ミカは少し青ざめた顔で言った。
「今日は鈴じゃないのに怖いんだけど」
「誰かが剥がしたか、紙を替えたか」
ナオが言う。
「この短時間で?」
「可能性は低い」
「じゃあ何?」
「分からない」
ミカが口を開きかけたが、何も言わなかった。
その代わり、サチが静かに言った。
「でも、戻れた」
「そうだな」
リュウが答える。
「案内してくれた、みたいにも見えるな」
「やめて」
ミカがすぐに言った。
「今日は鈴の子とか道の話は休みの日じゃなかったの?」
「鈴の音はしてない」
リュウが言う。
「そういう問題じゃない」
ナオは何も言わなかった。
鈴の子と決めつけるには違う。
赤い髪飾りもない。
鈴の音もない。
姿もない。
ただ、道を間違えないようにする一文が現れ、消えた。
それだけだ。
けれど、それだけだからこそ、余計に気になった。
4人は地下を出ることにした。
階段を上がり、地上の光が見えた瞬間、ミカは大きく息を吐いた。
「地上、最高」
「まだ昼だぞ」
リュウが笑う。
「昼の地上は最高」
「夜の地上は?」
「場所による」
地上に戻ると、新宿の音がまた押し寄せてきた。
車の音。
ビジョンの音。
人の声。
地下の閉じた圧とは違う、開いたうるささだった。
サチは少し安心したように言った。
「地下より外の方がいいね」
「そうだな」
ナオも頷いた。
そのまま4人は昼食を取ることにした。
駅から少し離れた、入りやすい店に入る。
リュウとミカは軽めに食べると言いながら、結局普通に頼んだ。
ナオとサチはしっかり食べた。
食事の間、さっきの紙の話はしばらく出なかった。
ミカが意図的に避けているのが分かったからだ。
代わりに、話題は新宿の人の多さになった。
「中野も人多かったけど、新宿は違うね」
サチが言う。
「中野は街って感じだったけど、新宿は流れって感じ」
「それ分かる」
ミカが頷いた。
「立ち止まると邪魔になる感じがすごい」
リュウは水を飲んで言った。
「でも、こういう場所で働いてる人は毎日ここ歩いてるんだよな」
「すごいよね」
「慣れるんだろうな」
ナオは外を歩く人たちを見た。
新宿では、迷っている人も、慣れている人も、同じ流れの中にいる。
誰かが地図を見て立ち止まれば、その横を別の誰かがすり抜ける。
人の流れは止まらない。
この街では、個人の不安も迷いも、すぐに流れに紛れてしまう。
午後、4人は東口側へ回った。
大型ビジョンと雑踏。
新しいビルと古い飲み屋街の入口。
歌舞伎町方面の看板も見える。
昼でも、夜の気配が少しだけ残っている場所だった。
ミカは少し足を止めた。
「こっちは雰囲気変わるね」
「変わるな」
リュウが答える。
「昼なのに夜っぽい」
サチも周囲を見ながら言った。
「新宿って、場所ごとに顔が違うんだね」
「かなり違う」
ナオは頷いた。
「西口のビル街、地下通路、東口、歌舞伎町。全部同じ新宿だけど、空気が違う」
「今日は歌舞伎町の奥までは行かないよね?」
ミカが聞く。
「行かない」
「よし」
その時、少し前方で人だかりができていた。
路上パフォーマンスではない。
誰かが落とし物を拾ったらしく、数人が周囲を見回している。
近づくと、若い女性が財布を落としたらしい。
拾った男性が交番の場所を尋ねていた。
ミカはそれを見て、少しだけ安心したように言った。
「ちゃんと拾う人いるんだ」
「そりゃいるだろ」
リュウが答える。
「昨日の黒いキャップの人の後だから、人間不信になりかけてた」
「怪しい人もいれば、普通に親切な人もいる」
サチが言った。
「当たり前だけど、大事だね」
ナオはそのやり取りを聞きながら、少し気持ちが軽くなった。
新宿は怖い場所ではない。
人が多い場所だ。
その中には、得体の知れない視線もある。
でも、困った人を助ける手もある。
街を怪談だけで見ると、その当たり前を見落とす。
夕方が近づき、空の色がビルの間で薄く変わり始めた。
4人は無理をせず、今日は新宿近くのホテルへ向かうことにした。
夜の新宿を歩くのは、また別の日にする。
ミカはその判断にかなり安心していた。
「ナオさん、今日は引き際がいい」
「褒め方が珍しいな」
「本当に褒めてる」
リュウが笑った。
「新宿の夜は明日に持ち越しか」
「かもしれない」
ナオが答える。
ミカは小さくため息をついた。
「明日は明日で覚悟する」
ホテルに向かう途中、もう一度だけ地下入口の前を通った。
ミカはできるだけ見ないようにしていた。
サチは少しだけ足を止めた。
「さっきの紙、何だったんだろうね」
「分からない」
ナオが答える。
「でも、今日は助かったと思っておこう」
「うん」
リュウが言った。
「誰が書いたにしろ、あれがなかったら無駄に奥まで行ってたしな」
「そうだな」
ミカが小さく言った。
「親切な誰か、ってことにしよう」
「それでいい」
ナオは頷いた。
ホテルに入り、荷物を置くと、4人は近くの店で夕食を取った。
リュウとミカは少しだけ酒を飲み、ナオとサチはしっかり食べた。
新宿の夜は外で始まっていたが、今日はその中へ入らない。
それだけで、ミカはかなり落ち着いていた。
部屋に戻ると、ナオはタブレットを開いた。
今日のメモを書く。
新宿。
人の流れ。
地下通路。
現在地。
こちらではありません。
消えた手書き。
親切な誰か。
街の中では、怪異よりも案内の方が怖い時がある。
最後の一文を書きかけて、ナオは手を止めた。
少し違う気がした。
怖いのは案内ではない。
案内を信じるかどうか、自分で決めなければならないことだ。
ナオは文字を消して、別の一行を書いた。
――現在地は、自分で確かめる。
サチが横から見て、静かに頷いた。
「今日っぽいね」
「ああ」
ミカはベッドの上で靴下を脱ぎながら言った。
「私は今日、地上が好きって再確認した」
「明日は?」
リュウが聞く。
「できれば地上多め」
「地下少なめか」
「地下少なめ、夜少なめ、怖さ控えめ」
「注文多いな」
「新宿だから多めに言っておく」
ナオはタブレットを閉じた。
今日は鈴の音も、赤い髪飾りもなかった。
それでも、不思議なものはあった。
それは派手な怪異ではなく、街の中に混じった小さな違和感だった。
新宿は、まだ入口を見ただけだ。
夜になれば、街はまた違う顔を見せる。
その顔を見るかどうかは、明日の4人次第だった。
部屋の外では、廊下を誰かが歩く音がした。
それはただの宿泊客の足音だった。
ミカは反応しなかった。
リュウも何も言わなかった。
サチは明日の天気を見ていた。
ナオは少しだけ目を閉じた。
山の静けさとも、湖の深さとも違う。
新宿の怖さは、何かが出ることではない。
何かがあっても、誰も立ち止まらないことだ。
旅は、街の奥へ入っていく。




