第14話 中野へ続く道
吉祥寺の朝は、ほどよく賑やかだった。
ホテルの外へ出ると、駅へ向かう人の流れがもうできている。
スーツ姿の人。
学生らしい人。
買い物へ向かう人。
犬を連れて歩く人。
昨日までの山や湖や古い路地とは違い、ここには日常が濃くあった。
ミカはその人混みを見て、少し安心したように息を吐いた。
「うん、今日も普通そう」
リュウが横で笑う。
「毎朝それ確認するな」
「大事だよ。普通ってすごいんだから」
「まあ、それは分かる」
サチも駅前の方を見ながら頷いた。
「昨日は本当に普通の夜だったね」
「何も起きなかったな」
ナオが答える。
するとミカはすぐに振り返った。
「その言い方、ちょっと不満そうに聞こえる」
「不満ではない」
「本当?」
「本当」
「ナオさんの場合、何もないのも楽しいけど、何かあったらもっと楽しいって思ってそう」
リュウがすぐに笑った。
「それは合ってるな」
「合ってない」
ナオが言うと、サチが少し笑った。
「合ってないって言い切れない顔してる」
吉祥寺の街は、朝でも動きが早い。
店はまだ開ききっていないが、人の流れだけで街が起きているのが分かる。
4人は車に荷物を積み、都心方面へ向かう準備をした。
今日の目的地は、まず中野。
そこから新宿へ近づく。
いきなり中心部へ飛び込むのではなく、少しずつ街の密度を上げていく。
ナオはそう決めていた。
「今日は中野に寄る」
ナオが言うと、ミカが少し首を傾げた。
「中野って、ブロードウェイのところ?」
「そう。商店街もあるし、古いサブカルの匂いもある」
リュウが少し興味を示した。
「中野は面白そうだな」
「面白いと思う」
サチも笑う。
「ミカちゃん、買い物できそうだね」
「できそう。そういうのは好き」
「怖い場所じゃない?」
ミカが念のため聞く。
ナオは少しだけ考えた。
「怖い場所というより、人の多い場所だな」
「人が多いならまだいい」
「ただ、人が多い場所には、人が多い場所の妙な感じがある」
「ナオさん、またそういう言い方する」
「今日は深追いしない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
車は吉祥寺を離れ、東へ向かった。
道は少しずつ混み始める。
山道のようにカーブを気にする必要はないが、今度は信号、車線、歩行者、自転車、バスに気を配る必要があった。
同じ運転でも、緊張の種類が違う。
リュウは後部座席から外を見ていた。
「東京に入ってきたって感じするな」
「昨日も東京だったけどね」
サチが言う。
「青梅とか奥多摩は、東京って言われても不思議だった」
ミカが頷いた。
「分かる。昨日までの東京は山だった。今日はちゃんと東京」
「ちゃんと東京って何だよ」
リュウが笑う。
「人が多くて、店が多くて、道が混んでる」
「まあ、分かる」
ナオは前を見ながら言った。
「同じ東京でも、奥多摩、青梅、吉祥寺、中野、新宿で全部違う」
「そう考えると面白いね」
サチが言った。
「旅してる感じある」
「あるな」
吉祥寺から中野へ向かう途中、車内では昨日の井の頭公園の話になった。
はぐれた男性のこと。
普通に解決したこと。
何も怪異にならなかったこと。
ミカはその話をしながら、少しだけ笑った。
「ああいうのでいいんだよ」
「困ってる人がいて、見つかって終わり?」
リュウが聞く。
「そう。安心して終われる話」
「毎回それだと、ナオの旅じゃなくなるな」
「たまには必要でしょ」
サチが頷いた。
「うん。怖い話もいいけど、旅が続いてる感じがする」
ナオはその言葉を聞きながら、少しだけ考えていた。
旅が続いている感じ。
それは大事だった。
場所ごとに何かが起き続けると、旅ではなく事件の連続になる。
でも彼らがしているのは、あくまで旅だ。
道を走り、食べ、泊まり、歩き、話す。
その中に、たまに不思議なものが混じる。
そうでないと、4人で続けていく意味が薄くなる。
中野に着く頃には、街の密度がさらに上がっていた。
駅前の商店街。
アーケード。
細い道。
看板。
ビルの隙間。
人の波。
車を駐車場に入れ、4人は歩き出した。
ミカはすぐに表情を明るくした。
「ここ、好きかも」
「早いな」
リュウが言う。
「だって明るいし、人いるし、お店いっぱいある」
「ミカの安全基準、かなり確立されてきたな」
「大事だからね」
サチも商店街を見ながら楽しそうだった。
「ここは普通に楽しいね」
「中野は独特だな」
ナオは周囲を見ながら言った。
「観光地というより、生活と趣味の街って感じがある」
「趣味の街?」
「古いもの、フィギュア、漫画、レコード、時計、カメラ、いろんなものが集まってる」
リュウが笑う。
「ナオ、こういう場所も好きそうだな」
「好きだな」
ミカがすぐに言う。
「廃墟とか山とかより安心できる趣味にして」
「それはそれで沼が深いぞ」
「怖くない沼ならいい」
商店街を抜け、中野ブロードウェイへ入る。
中は、外の明るさとは少し違っていた。
店が並び、人も多い。
でも、古い建物特有の空気がある。
新しい商業施設の明るさとは違う。
時間が層になっているような場所だった。
ミカはショーケースの中を見て、目を輝かせた。
「すごい、いろいろある」
サチも隣で覗き込む。
「懐かしい感じのものも多いね」
リュウはレコードや古い玩具の店を見ながら言った。
「ここ、普通に半日いられるな」
「いる?」
ミカが聞く。
「いや、ナオが次に行きたそうだからな」
ナオは店の奥を見ていた。
古いポスター。
昔の映画のパンフレット。
昭和のアイドル雑誌。
知らない誰かの記憶が、商品として棚に並んでいる。
それは少し不思議な光景だった。
怪異ではない。
怖くもない。
ただ、誰かの昔が売られている。
そして別の誰かが、それを懐かしんだり、面白がったりして買っていく。
ミカがナオの視線に気づいた。
「ナオさん、また考えてる」
「古いものって面白いなと思って」
「今日は怖い方じゃない?」
「怖い方ではない」
「ならよし」
サチは古い絵葉書のようなものを見つけていた。
「これ、昔の東京の写真だって」
ナオが近づいて見る。
モノクロの街並み。
今とは違う道路。
路面電車のようなもの。
人の服装も古い。
サチはその一枚を手に取りながら言った。
「同じ東京なのに、全然違うね」
「場所は残っても、見え方は変わる」
「ナオくん、それ好きそう」
「好きだな」
リュウが横から覗き込む。
「こういうの見ると、今歩いてる道も何十年かしたら全然違ってるんだろうな」
「そうだろうな」
ミカは少しだけ真面目な顔で言った。
「それ、ちょっと寂しいね」
「珍しくしみじみしてるな」
リュウが言うと、ミカはすぐに戻った。
「たまには言うよ」
昼は中野で食べることにした。
店の選択肢が多く、4人は少し迷った。
結局、入りやすい定食屋に入る。
ナオとサチはいつも通りしっかり食べ、リュウとミカも今日はよく食べた。
中野の街の空気が、4人を少し日常側へ戻していた。
食事中、リュウが言った。
「この旅、最初は埼玉の近場だけでも面白いかと思ったけど、東京に入るとまた違うな」
「違うね」
サチが頷く。
「秩父とか奥多摩は、土地の力が強い感じだったけど、ここは人の記憶が多い感じ」
ミカが箸を止めた。
「サチさん、今のちょっとナオさんっぽい」
「え、そう?」
「うん。でも怖くない言い方だった」
「よかった」
ナオは少し笑った。
「人の記憶が多い、は合ってると思う」
「この辺も何かあるのか?」
リュウが聞く。
「あると思う。ただ、今日は探さない」
ミカがすぐに親指を立てた。
「ナオさん、今日えらい」
「子ども扱いか」
「たまには褒める」
午後、4人は中野をもう少し歩いた。
人混みの中を歩いていると、時々誰かと肩が触れそうになる。
呼び込みの声。
店の音楽。
エスカレーターの機械音。
足音。
山の静けさとは真逆の世界だった。
それでも、こういう場所にも不思議な瞬間はある。
エスカレーターで上階へ向かう時、ミカがふと下を見た。
「人、多いね」
「多いな」
リュウが答える。
「誰かが急にいなくなっても、分からなそう」
自分で言って、ミカは少し嫌そうな顔をした。
「あ、今のなし」
サチが苦笑する。
「言ってから怖くなった?」
「うん」
ナオは下のフロアを見た。
人が流れている。
それぞれの速度で動き、店に入り、出ていき、すれ違う。
たしかに、この中で1人が消えても、街全体は何も変わらない。
それが都市の怖さだった。
怪異が出る必要すらない。
人の多さそのものが、何かを隠してしまう。
その時、リュウが少し眉をひそめた。
「あれ」
「どうした?」
ナオが聞く。
「さっきの店の前にいた男、またいる」
ミカがすぐに反応する。
「え、誰?」
「黒いキャップの男。さっき古い時計の店の前にいた」
見ると、少し離れたところに黒いキャップをかぶった男性がいた。
年齢は30代くらい。
スマホを見ている。
ただ立っているだけにも見える。
ミカは少し身を固くした。
「つけられてる?」
「まだ分からない」
ナオが言う。
「今のは普通に言っていい分からない?」
「普通に言っていい」
リュウは男性を見ながら言った。
「偶然かもしれない。中をぐるぐる歩いてれば、同じ人を見ることはある」
「だよね」
サチも頷いたが、少し警戒はしていた。
4人は歩き出した。
次のフロアへ移動し、別の店を見て、少し時間を置く。
黒いキャップの男性は見えなくなった。
ミカは少し息を吐いた。
「偶然だったかな」
「たぶんな」
リュウが答える。
「今日まで何か起きたら、私ちょっと疲れる」
「今日は起きない日でいい」
ナオが言った。
しかし、その数分後。
出口へ向かう通路で、またその男性を見た。
今度は、壁際に立っていた。
スマホを見ている。
こちらを見ているわけではない。
けれど、位置が少し不自然だった。
サチが小声で言う。
「同じ人?」
「同じだと思う」
リュウが答える。
ミカは顔をこわばらせた。
「人間の方の怖さ?」
「その可能性もある」
ナオは静かに言った。
その言葉で、空気が変わった。
怪異ではない。
けれど、人間の怖さは、怪異よりも現実的だ。
ナオは4人の立ち位置を少し変えた。
ミカとサチを内側にし、リュウに目で合図する。
リュウはすぐに察した。
「一回外に出るか」
「そうだな」
4人は人の多い方へ向かった。
エスカレーターではなく、明るい広い階段を使う。
黒いキャップの男性は動かなかった。
少なくとも、すぐにはついてこなかった。
外の商店街へ出ると、ミカは小さく息を吐いた。
「怖かった」
「まだ何もされてないけどな」
リュウが言う。
「されてからじゃ遅いじゃん」
「それはそう」
サチも少し緊張していた。
「偶然だったかもしれないけど、嫌な感じはしたね」
「こういう時は、人の多いところに出るのがいい」
ナオが言った。
「あと、同じ場所をぐるぐるしない。相手を確認しようとして近づかない」
ミカが真顔で頷く。
「そういう現実的な話、助かる」
「ナオ、こういう時は頼りになるな」
リュウが言う。
「こういう時は、か」
「普段は路地に入るからな」
少しだけ笑いが戻った。
ただ、黒いキャップの男性のことは残った。
怪異ではない。
鈴の子でもない。
けれど、都市の中で起きる、もっと現実的な違和感。
ミカはしばらく後ろを振り返らなかった。
夕方前、4人は中野を離れることにした。
新宿へ向かうか迷ったが、今日は無理に進まず、中野から少し外れたホテルを取ることにした。
ミカが言った。
「今日はもう、これくらいでいい」
「そうだな」
ナオもすぐに頷いた。
「明日、新宿に入る」
「夜じゃないよね?」
「まずは昼」
「まずは、がつくの怖い」
リュウが笑う。
「でも新宿は夜も見たいだろ」
「見たくないとは言わないけど、怖いのは嫌」
「難しい注文だな」
夜、ホテル近くの店で夕食を取った。
リュウとミカは少し酒を飲み、ナオとサチはよく食べた。
今日の話題は、黒いキャップの男性のことになった。
ミカは少しむっとした顔で言った。
「怪異より、ああいう人の方が嫌かも」
「分かる」
サチが頷いた。
「理由が分からないから怖いよね」
「そう。何もしてないのに、何かされそうな感じ」
リュウはグラスを置いた。
「偶然だった可能性もあるけどな」
「それは分かってる」
ナオは静かに言った。
「だからこそ、決めつけずに距離を取るのがいい」
「今日のナオさん、すごく現実的」
ミカが言う。
「毎回それでお願い」
「それだと話が進まない」
「進まなくていい時もある」
サチが笑った。
「ミカちゃんの言うこと、今日は正しい気がする」
ホテルに戻ると、部屋の中は静かだった。
ナオはタブレットを開き、今日のメモを書いた。
中野。
古いものが集まる場所。
人の記憶が棚に並ぶ。
人混み。
黒いキャップの男性。
人間側の違和感。
鈴の子は出なかった。
それも書いた。
――出ない日もある。
その一行を書いて、ナオは少しだけ手を止めた。
出ないから安心とは限らない。
今日は別の怖さがあった。
人の多い街では、怪異がいなくても、妙な視線や偶然の重なりだけで十分に緊張が生まれる。
ミカはベッドの上でスマホを見ながら言った。
「明日は新宿かあ」
「そうだな」
リュウが答える。
「人、多いんだろうな」
「中野より多いだろ」
「迷子にならないようにしよ」
サチが言った。
「4人で一緒に動こうね」
「うん」
ミカは素直に頷いた。
ナオは画面を閉じた。
明日は新宿。
山でも古い町でもない。
東京の中心に近い場所。
そこには、道ではなく、人の流れがある。
行き先の決まった人たち。
行き先のない人たち。
夜へ向かう人たち。
そして、どこかへ消えても誰にも気づかれない人たち。
ミカが言うように、今日はもう怖い話をしない方がいい。
ナオはそう思い、何も言わなかった。
部屋の明かりが落とされる。
外の道路を車が通る音だけが、薄く聞こえていた。
旅は、少しずつ街の奥へ入っていく。




