13話 街へ近づく夜
立川のホテルの朝は、今までの宿の中で一番普通だった。
廊下はきしまない。
山の匂いもしない。
窓の外には道路と建物があり、遠くに駅へ向かう人の流れが見える。
ミカはベッドの上で大きく伸びをして、少しだけ安心した顔をした。
「今日は普通の朝だ」
リュウが洗面所から戻りながら言った。
「ホテルだからな」
「その普通がありがたいんだよ」
サチもカーテンを開けながら頷いた。
「昨日まで、ちょっと濃かったもんね」
「濃かったどころじゃないよ。秩父からずっと、赤い髪飾りとか鈴とか道とか」
ミカはそこで一度言葉を止めた。
「……今日は、その話しない日でもいい?」
ナオは荷物を整理しながら答えた。
「いい」
ミカが少し驚いたように見る。
「ほんとに?」
「ああ。今日は街へ入る日だ。無理に探さない」
「助かる」
リュウが笑った。
「でも、完全な観光日か?」
「半分は移動。半分は東京の西側を見る」
ナオはタブレットをバッグへ入れた。
「立川から少しずつ都心へ寄っていく。今日は新宿までは行かなくてもいい。国分寺か吉祥寺あたりで止めてもいいし、流れで決める」
サチが少し楽しそうに言った。
「吉祥寺いいね。ご飯もありそう」
「サチさんの安心基準、私と同じになってきた」
ミカが笑う。
「店がある、明るい、人がいる、ご飯がある」
「大事だよ」
「道の駅の都会版だね」
リュウが言った。
「吉祥寺を道の駅扱いするな」
朝食を済ませ、4人は立川駅周辺を少し歩いた。
大きな駅。
バス。
歩道橋。
商業施設。
山や古い町の気配から一気に離れ、街の音が濃くなる。
人の足音、信号機の音、バスのブレーキ、店の開店準備。
ミカはその賑やかさに、少しほっとしているようだった。
「人が多いと安心する」
「人が多いところには、人が多いなりの怖さもあるけどな」
リュウが言うと、ミカはすぐ睨む。
「今日はそういうの禁止」
「はいはい」
ナオは歩道橋の上から駅前を見た。
都市には都市の流れがある。
山道や古い路地とは違う。
ここでは、道は人を迷わせるのではなく、流れに乗せる。
駅へ向かう人。
職場へ向かう人。
買い物へ行く人。
それぞれの目的地は違うのに、全体としては同じ方向へ動いているように見える。
サチが隣に立った。
「ナオくん、また何か考えてる?」
「人が多いなと思って」
「普通の感想だね」
「でも、人が多いと誰か1人がいなくなっても気づきにくい」
「普通じゃなかった」
サチは少し笑ったが、その目は駅前の人波を見ていた。
ミカが後ろから声をかける。
「ナオさん、今日はそういう怖い観察なしで」
「悪い」
「反省してる?」
「してる」
「してる顔じゃない」
立川を出て、車は東へ向かった。
住宅地、駅前通り、商店街、大きな道路。
山の東京から、街の東京へ。
道の表情は明らかに変わっていく。
昼前、4人は国分寺周辺で車を停めた。
目的は、駅前の散策と昼食だった。
ナオは、国分寺という地名に少し触れた。
「この辺りは、昔の武蔵国分寺の跡もある。地名に歴史が残ってる場所だな」
サチが興味を示す。
「国分寺って、そういう意味なんだ」
「そう。奈良時代に国ごとに建てられた寺のひとつだな」
ミカが少し安心した顔で言った。
「歴史の話なら大丈夫」
リュウが笑う。
「歴史の話から怖くなる時もあるけどな」
「リュウさん、今日は本当に黙ってて」
「はい」
4人は駅前から少し離れた道を歩いた。
住宅地の中に、緑の多い場所があり、古い土地の雰囲気が残っている。
秩父や奥多摩ほど濃くはない。
けれど、街の中にも古い地層のようなものがある。
ナオはそれを面白いと思った。
ただ、今日はそれを深掘りしすぎない。
ミカの言う通り、同じような展開を続けると、旅そのものが重くなる。
怖さは、ずっと強く鳴らし続けるものではない。
たまに静かになるから、次に聞こえた時に効く。
昼食は、駅近くの店に入った。
ナオとサチはいつも通りよく食べた。
リュウは昼から飲むか迷って、ミカに止められた。
「夜にすれば?」
「夜まで待つか」
「大人でしょ」
「旅だぞ」
「旅でも昼から毎回飲まない」
サチが笑った。
「ミカちゃん、ちゃんと止めるね」
「リュウさん、放っておくとすぐ飲むから」
「まあ、そうだな」
リュウはあっさり認めた。
食事中、隣の席に座っていた年配の女性たちが、地元の話をしていた。
古い商店街が昔はもっと賑やかだったこと。
駅前が変わったこと。
子どもの頃にあった店がもうないこと。
それは怪談ではなかった。
けれど、ナオは何となく耳に残った。
場所は変わる。
道も変わる。
残るものもあれば、消えるものもある。
鈴の子のことを考えないようにしていても、結局そこへ戻ってしまう。
ナオは水を飲み、視線をテーブルへ戻した。
午後は吉祥寺へ向かうことにした。
ミカが強く希望したからだった。
「吉祥寺なら絶対安全寄りでしょ」
リュウが言う。
「人は多いぞ」
「人が多いのはいい」
「迷うぞ」
「駅ビルなら迷っても怖くない」
「駅ビルで迷う前提なのか」
サチも笑いながら言った。
「井の頭公園もあるよね」
「ある」
ナオが答えた。
「池があるけど」
ミカが即座に反応する。
「池の怖い話は禁止」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
「井の頭公園は普通に歩くだけにする」
「それなら行く」
吉祥寺に着くと、街の密度がさらに上がった。
店が多い。
人が多い。
車よりも歩く人の存在感が強い。
ミカは久しぶりにかなり元気になった。
「ここ好きかも」
「早いな」
リュウが言う。
「だって店多いし、明るいし、怖くない」
「夜になったら分からないぞ」
「今日は夜まで変な場所行かない」
「はいはい」
4人は商店街を歩き、雑貨店を覗き、途中で甘いものを買った。
サチはかなり楽しそうだった。
「ナオくん、こういう普通の街歩きもいいね」
「いいな」
「ずっと怖い場所ばっかりじゃ疲れるし」
「そうだな」
ナオは素直に頷いた。
ナオ自身も、少しそう思っていた。
怪談を追う旅でも、すべてを怪談にする必要はない。
普通の店。
普通の人。
普通の昼。
その中に4人でいることが、この旅の土台だった。
怖いものは、その土台の上に少しだけ乗ればいい。
ミカが店先で小さなアクセサリーを見つけた。
「これかわいい」
サチが覗き込む。
「本当だ。髪飾り?」
「うん、でも赤は避ける」
「分かる」
2人は顔を見合わせて笑った。
リュウは横から言った。
「逆に赤買って克服するとか」
「しない」
ミカが即答した。
「リュウさんがつければ?」
「俺が?」
「うん、赤い髪飾り」
「怖さの種類が変わるだろ」
サチが声を出して笑った。
ナオも少し笑った。
その笑いは、ここ数日の中で一番軽かった。
夕方前、4人は井の頭公園へ向かった。
公園の中は人が多かった。
散歩する人。
ベンチで話す人。
池を眺める人。
楽器を持った若者。
子どもを連れた家族。
水辺ではあるが、奥多摩湖のような重さはない。
街の中の水だった。
ミカも池を見て、少しだけ警戒しながら言った。
「ここは大丈夫そう」
「人が多いからな」
リュウが答える。
「水の下に道とか言わないでね」
「言わない」
ナオは池を見ながら、あえて何も説明しなかった。
ここにはここなりの話がある。
でも今日は触れなくていい。
サチはベンチに座り、買った飲み物を持った。
「なんか、普通のデートみたい」
リュウが少し笑う。
「4人だけどな」
「4人デート」
ミカが言う。
「怖い場所なしなら、それでいい」
ナオは池の向こうにある木々を見ていた。
人の声がある。
鳥の声がある。
水面には光が揺れている。
昨日の奥多摩湖とは違う水。
こちらの水は、人の生活のすぐ横にある。
怖さというより、日常に近い。
それが少しだけ救いだった。
しばらく公園で休んだあと、4人は駅方面へ戻ることにした。
その途中で、ちょっとした出来事が起きた。
若い男性が、スマホを見ながら慌てて歩いてきて、リュウにぶつかりそうになった。
「すみません」
男性は頭を下げた。
リュウは軽く手を上げる。
「大丈夫です」
男性は周囲を見回していた。
顔色が少し悪い。
ミカが気づいて、小声で言った。
「あの人大丈夫かな」
男性はまたスマホを見て、困ったように立ち止まった。
ナオは一度通り過ぎかけたが、足を止めた。
「どうしました?」
男性は少し驚いた顔をした。
「あ、すみません。友達とはぐれて。さっきまで一緒にいたんですけど、電話もつながらなくて」
リュウが聞く。
「この公園で?」
「はい。池の方で写真を撮ってて、それで……気づいたらいなくて」
ミカの顔が一瞬こわばった。
ただ、今回は怪異というより、現実の困りごとだった。
ナオは落ち着いて言った。
「最後に見た場所はどこですか?」
「池の橋の近くです」
「友達の特徴は?」
「黒い上着で、白いバッグ持ってます。女性です」
サチが周囲を見た。
「人多いから、見つけにくそう」
ナオは男性に言った。
「まず電話をかけ続けるより、メッセージで待ち合わせ場所を決めた方がいいです。駅か公園の入口みたいに、分かりやすい場所で」
「そうですね」
男性は震える手でスマホを操作した。
リュウが少し離れて周囲を見た。
ミカも不安そうに池の方を見ている。
「ねえ、これ普通の迷子だよね?」
「今のところはな」
リュウが答えた。
「今のところって言わないで」
数分後、男性のスマホが鳴った。
男性は慌てて電話に出る。
「もしもし? どこ? あ、駅の方? なんでそっちに……いや、いい、行く」
電話を切ると、男性はほっとした顔をした。
「すみません、見つかりました。駅の方に戻ってたみたいです」
サチが微笑む。
「よかったですね」
「本当にありがとうございます」
男性は何度も頭を下げ、駅の方へ走っていった。
ミカはその背中を見ながら、大きく息を吐いた。
「普通に解決した」
「普通に解決することもある」
ナオが言う。
「よかった、今日まで変になるかと思った」
リュウが笑った。
「何でも怪異にしすぎだな」
「この旅がそうさせてるんだよ」
ナオは男性が走っていった方向を見ていた。
今回の出来事は、何でもない。
ただ人とはぐれただけ。
それでも、4人は一瞬だけ身構えた。
鈴の子のせいで、見え方が変わっている。
だが、世界のすべてが怪異ではない。
それを確認できたのは、悪くなかった。
夜は吉祥寺近くのホテルに泊まることにした。
ミカの希望で、夕飯は普通に賑やかな店に入った。
リュウとミカは少し酒を飲み、ナオとサチはよく食べた。
会話もいつもより軽かった。
秩父の女の子の話は出なかった。
青梅の迷い道の話も、奥多摩湖の話も出なかった。
代わりに、次は都心に入るのか、東京をどう回るのかという話になった。
「新宿とか渋谷も行くの?」
ミカが聞く。
「行くと思う」
ナオが答える。
「夜?」
「夜の方が雰囲気はある」
「出た」
リュウが笑う。
「都心の夜は、それはそれで面白いだろ」
「面白いけど、人が多いならまだいい」
サチが言った。
「でも、人が多い場所の怖さもあるよね」
ミカがサチを見る。
「サチさんまで」
「ごめん、でも今日の公園の人みたいに、はぐれるだけでも怖いなって思った」
「あれは普通に見つかったからよかった」
「うん」
ナオは水を飲みながら言った。
「都心では、山や神社とは違う話になる。人の多さとか、地下とか、駅とか」
「地下は嫌だな」
ミカがすぐ言う。
「まだ行くとは言ってない」
「候補にある言い方だった」
「候補にはある」
「やっぱり」
リュウが笑い、グラスを置いた。
「でも、ずっと山より変化あっていいな」
「そうだね」
サチも頷いた。
「東京の中で、山から街へ来た感じがちゃんとある」
その夜、ホテルに戻ってからも、特別なことは起きなかった。
ミカはそれを喜び、リュウは少し拍子抜けしたようでもあった。
サチはベッドに座り、今日買った小物を並べていた。
「こういう回も必要だね」
サチが言う。
ナオは頷いた。
「必要だな」
「怖いだけだと、疲れちゃう」
「分かってる」
「でも、次は都心だから何かありそう」
ミカがベッドの上から顔を上げる。
「サチさん、言わないで」
「ごめん」
リュウはスマホで地図を見ながら言った。
「明日は新宿方面か?」
「たぶん」
ナオが答える。
「ただ、いきなり深く入らない。まずは街の入口を見る」
「街の入口?」
「吉祥寺から中野、新宿あたりへ。人の流れを見る」
ミカがため息をつく。
「人の流れならまだいい。変な道はやめて」
「分かった」
ナオはタブレットを開いた。
今日のメモは少なかった。
立川。
国分寺。
道祖神。
吉祥寺。
井の頭公園。
はぐれた人。
普通に戻る日。
最後に、ナオは一行だけ書いた。
――何も起きないことも、旅の一部。
画面を閉じると、部屋には普通の静けさだけが残った。
鈴は鳴らない。
赤い影もない。
誰かが消えることもない。
ただ、明日の東京が少しだけ近くなっている。
それだけだった。




