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あの場所へ  作者: ナオ
12/14

12話 山の東京、街の東京

 朝の青梅は、少しだけ湿った匂いがした。


 雨が降ったわけではない。


 それでも、山に近い町の朝には、地面と木々の匂いが薄く混ざっている。


 ミカは宿を出る前から、やたらと足元を気にしていた。


「水たまり、ないよね?」


 リュウが荷物を持ちながら苦笑する。


「そこまで気にするか」


「気にするでしょ。昨日、水たまりに赤いの映ったってナオさん言ったじゃん」


「言ったな」


「言わないでほしかった」


「聞いたのはミカだろ」


「聞いたけど、答えが怖いとは思わないじゃん」


 サチは靴を履きながら、少し申し訳なさそうに笑った。


「今日は水辺から少し離れるんだよね?」


 ナオはタブレットをバッグへしまいながら頷いた。


「奥多摩湖には行かない。今日は青梅から東へ戻って、多摩方面を抜ける」


「都心に近づくってこと?」


「少しずつな」


 ミカの表情が少し明るくなる。


「じゃあ山は減る?」


「減るけど、完全には消えない」


「その言い方、まだ何かあるやつ」


「何もないとは言えないだろ」


 リュウが笑った。


「正直すぎるんだよ、ナオは」


「嘘ついても仕方ない」


「そこが怖いんだよ」


 宿を出ると、青梅の町は昨日と同じように普通だった。


 商店街の人が店先を掃き、車が通り、学生らしい自転車が坂を下っていく。


 昨日の迷い道も、奥多摩湖の鈴の音も、まるで町のどこにも残っていないように見えた。


 ただ、4人の中には残っている。


 それだけだった。


 車は青梅を離れ、東へ向かった。


 山の影が少しずつ遠くなる。


 建物が増え、道が広くなり、信号の数も増えていく。


 東京の西側。


 まだ都心ではない。


 でも、もう完全な山でもない。


 サチは助手席で地図を見ながら言った。


「この辺から、東京に戻っていく感じがするね」


「そうだな」


「山から街に出ていく途中って感じ」


「今日はその境目を見る」


 ミカが後ろからすぐに言った。


「また境目」


「境目は面白い」


「ナオさんの面白いは信用できない時ある」


 リュウが窓の外を見ながら言った。


「でも、境目っていうのは分かるな。昨日までは山の東京だったけど、ここから街の東京になる感じがする」


「リュウさんまで真面目に言い出した」


「俺だってたまには言うだろ」


「たまにはね」


 途中、4人は小さな公園の近くで車を停めた。


 目的地というほどではない。


 ただ、少し歩きたいというサチの希望だった。


 住宅地の中にある公園で、木が多く、古いベンチが並んでいる。


 近くには小さな神社も見えた。


 ミカは車を降りて周囲を見回した。


「ここは普通そう」


「普通だな」


 リュウが答える。


「普通って言葉、ありがたい」


 ナオは公園の端にある古い石碑に目を留めた。


 文字は風化して、全部は読めない。


 近くに案内板はない。


 ただ、そこに昔から置かれているような石だった。


 サチも隣に来る。


「何か書いてある?」


「かなり薄いな」


 ナオはしゃがんで文字を見た。


「道祖神、かな」


「道祖神?」


「道の神様だな。村境や道の分かれ目に置かれることが多い。旅人や集落を守る意味もある」


 ミカが少し離れた場所から言った。


「それは怖くない?」


「守るものだからな」


「ならいい」


 リュウが石碑を見た。


「道の神様か。昨日の帰り道とか戻り道とか、そういうのとつながるな」


 その言葉に、ミカがすぐ反応した。


「リュウさん、つなげないで」


「いや、つながるだろ」


「つながらなくていいの」


 サチは石碑の前で軽く手を合わせた。


「昨日、道に迷ったからね」


 ナオも静かに頭を下げた。


 リュウもそれに続いた。


 ミカは少し迷ってから、小さく手を合わせた。


「変な道には入らないようにお願いします」


 リュウが笑った。


「お願いが具体的だな」


「切実だから」


 公園を歩いていると、地面に小さな赤いものが落ちていた。


 ミカが最初に気づいた。


「ちょっと待って」


 全員が足を止める。


 砂の上に、小さな赤い布切れがあった。


 髪飾りの一部のようにも見える。


 風に飛ばされたリボンの切れ端のようにも見える。


 ミカは一歩下がった。


「これ、だめなやつじゃない?」


 リュウが近づこうとする。


 ミカがすぐ止めた。


「触らないで」


「触らないって」


 サチは赤い布切れを見つめた。


「鈴の子の髪飾りに似てる?」


「色は似てる」


 ナオはしゃがんだが、手は伸ばさなかった。


 布切れは砂に少し埋もれている。


 新品ではない。


 けれど、古すぎるわけでもない。


 近くに子どもが遊んでいてもおかしくない公園だ。


 落とし物だと言われれば、それで終わる。


 だが、このタイミングで赤いものを見つけると、どうしても別の意味が生まれる。


 ミカが小声で言った。


「持って帰らないよね?」


「持って帰らない」


 ナオが答える。


「調べたりしないよね?」


「しない」


「写真は?」


 ナオは少し考えた。


「撮らない」


 サチが少し驚いたように見る。


「ナオくん、撮らないんだ」


「これは拾い物かもしれない。誰かのものなら、勝手に記録する感じでもない」


「そっか」


 リュウが小さく頷く。


「いい判断だな」


 ミカはほっとした顔をした。


「今日のナオさん、ちょっと安心」


「ちょっとか」


「かなり、にしてもいい」


 その時、近くの神社の方から小さな音がした。


 しゃりん。


 4人は反射的にそちらを向いた。


 鈴の音。


 けれど、すぐに神社の前を歩いていた女性が、小さなお守り鈴をバッグにつけているのが見えた。


 女性はそのまま通り過ぎていく。


 ミカは大きく息を吐いた。


「今のは普通」


「普通の鈴だったな」


 リュウが言う。


「普通の鈴ってこんなに安心するんだ」


 サチが少し笑う。


「音が同じでも、理由が見えると怖くないね」


「そうだな」


 ナオは答えながら、赤い布切れをもう一度見た。


 そこに意味があるのか。


 ないのか。


 それは分からない。


 だが今は、意味を勝手に拾い上げる必要はない気がした。


 4人は公園を離れた。


 車に戻る途中、ミカが少しだけ後ろを振り返った。


「赤いの、置いたままでよかったよね?」


「よかったと思う」


 サチが答える。


「鈴の子のものだったら?」


「それでも、たぶん置いていく方がいい」


「なんで?」


「持っていったら、こっちから関わりにいく感じがするから」


 ミカは深く頷いた。


「それは嫌」


 車はさらに東へ進んだ。


 山の気配が薄くなり、道路は広くなっていく。


 住宅街。


 大型の店。


 学校。


 駅前の通り。


 東京の中でも、生活の東京。


 ナオはそれを見ながら、少しずつ次の段階に入っていることを感じていた。


 都市伝説は山や古い神社だけにあるわけではない。


 駅にも、団地にも、踏切にも、ビルの影にもある。


 むしろ、町の中にある怪談の方が、人の生活と近い分だけ生々しいこともある。


 昼前、4人は昭島方面に近い大きな公園へ向かった。


 目的は普通の休憩だった。


 広い空。


 木々。


 ベンチ。


 遠くに家族連れの声。


 ミカはその光景を見て、肩の力を抜いた。


「ここはいい」


「安全寄りか?」


 リュウが聞く。


「かなり安全寄り」


「今日は評価高いな」


「広い、明るい、人がいる、食べ物ありそう」


「いつもの基準だな」


 サチも嬉しそうに歩いた。


「こういう日もいいね」


「昨日が濃かったからな」


 ナオも頷いた。


「今日は移動と調整の日でもいい」


「ナオくんがそう言うと安心する」


 4人は公園内を歩き、売店で軽く食べ物を買った。


 ナオとサチは軽くでは済まなかったが、誰も驚かなかった。


 リュウとミカは飲み物を持ってベンチに座る。


 昼の公園は、怖さから一番遠い場所に見えた。


 子どもの声。


 犬の散歩。


 自転車。


 芝生の上のシート。


 普通の休日の景色。


 ミカは飲み物を手にして言った。


「今日、やっと普通の旅っぽい」


「昨日も旅だったろ」


 リュウが言う。


「昨日は迷い道と湖と鈴」


「濃かったな」


「濃すぎ」


 サチはベンチに座りながら、空を見上げた。


「でも、鈴の子のことを知ったあとだから、普通の景色も少し違って見えるね」


「どう違う?」


 ナオが聞く。


「例えば、子どもが走ってるだけでも、ちょっと見ちゃう」


 ミカがすぐ頷く。


「分かる。赤い髪飾り探しちゃう」


 リュウも小さく言った。


「俺も少し探してるな」


「リュウさんも?」


「見るつもりなくても、赤いものがあると目が行く」


 ナオも同じだった。


 公園の中に赤い帽子の子どもがいる。


 赤いバッグを持った女性がいる。


 赤い自転車が通る。


 そのたびに、ほんの一瞬だけ意識が動く。


 鈴の子は姿を見せていない。


 けれど、4人の見る目を変えている。


 それが一番大きな変化かもしれなかった。


 午後、ナオは都心へ入る前に、もう1か所だけ寄りたい場所があると言った。


 ミカはすぐ警戒した。


「どこ?」


「古い踏切の近く」


「踏切?」


「立川方面へ行く途中に、昔からある小さな踏切がある。今は普通に使われてる場所だけど、夜になると少し雰囲気が変わるって話がある」


 ミカは即座に首を振った。


「夜は行かない」


「昼に見るだけ」


「本当に昼だけ?」


「本当に」


 リュウが立ち上がる。


「踏切ならまあ、町中だろ」


「町中でも怖い踏切は怖いよ」


「でも昼だ」


「昼を信用しすぎるのも危ないって昨日学んだ」


 サチが少し考えてから言った。


「昼に普通に見るだけなら、いいんじゃない?」


「サチさんも行くの?」


「うん。夜は嫌だけど」


 ミカは少し諦めたようにため息をついた。


「じゃあ、昼だけ。絶対に線路の近くで変なことしない」


「しない」


 車で移動し、4人は住宅地の中にある小さな踏切の近くへ着いた。


 周囲は普通の町だった。


 家があり、細い道があり、自転車が通る。


 踏切は小さく、黄色と黒の遮断機が下りると、すぐ横を電車が通過するような場所だった。


 怖いというより、生活のすぐそばにある踏切だった。


 ミカは少し拍子抜けしたように言った。


「普通じゃん」


「普通だな」


 リュウが答える。


「今日は普通多めで助かる」


 ナオは踏切から少し離れた場所で立ち止まった。


「こういう場所は、夜にひとりで通ると印象が変わる」


「それは分かる」


 サチが言った。


「昼は普通なのに、夜になると急に怖くなる道ってあるよね」


「あるある」


 ミカも頷く。


「昼はただの生活道路なのに、夜は絶対後ろ見たくないやつ」


 その時、踏切の警報音が鳴り始めた。


 カン、カン、カン。


 遮断機が下りる。


 4人は自然と少し離れて立った。


 電車の音が近づいてくる。


 風が先に来た。


 そして、電車が目の前を通過する。


 一瞬だけ視界が分断される。


 車両の窓。


 反射する光。


 乗客の影。


 流れていく景色。


 その中に、一瞬だけ赤い髪飾りが見えた。


 ナオは息を止めた。


 サチも見たらしく、手が止まっている。


 ミカが小さく言った。


「今」


 リュウも黙っていた。


 電車が通り過ぎ、遮断機が上がる。


 踏切の向こう側には、誰もいなかった。


 ミカがゆっくり口を開いた。


「電車の中にいた?」


「見えた気がした」


 サチが答える。


「私も」


 リュウは踏切の向こうを見た。


「でも、電車は通り過ぎた」


「じゃあ乗ってたってこと?」


 ミカの声が少し震える。


 ナオは首を振った。


「分からない。窓の反射かもしれない」


「反射なら、どこから映ったの?」


 その問いに、誰も答えられなかった。


 赤い髪飾り。


 電車の窓。


 通過する一瞬。


 見間違いと言える。


 でも、4人のうち3人が見ていた。


 リュウが低く言った。


「町に入っても出るのか」


 ミカが小さく言う。


「もう山とか神社とか関係ないじゃん」


「いや」


 ナオは踏切を見た。


「関係はあるかもしれない」


「何が?」


「道だ」


 サチがナオを見る。


「道?」


「神社、路地、湖の下の道、踏切。鈴の子はずっと、道の近くに出てる」


 ミカは少し黙った。


 リュウが腕を組む。


「道を示すのか、道に出るのか」


「まだ分からない」


 ナオは言った。


「でも、鈴の子は場所というより、道に関係しているのかもしれない」


 ミカは顔をしかめた。


「それ、旅してる私たちと相性良すぎない?」


 誰も笑わなかった。


 その通りだった。


 旅は道を進むことだ。


 もし鈴の子が道に関係しているのなら、4人の旅に現れる理由としては、あまりにも合っている。


 踏切の警報音は止み、町はまた普通の音に戻っていた。


 自転車に乗った男性が通り過ぎ、近くの家からテレビの音が漏れてくる。


 ついさっきまでの異変など、どこにも残っていない。


 ミカは踏切から離れながら言った。


「今日はもう終わりにしよう」


「そうだな」


 ナオはすぐに頷いた。


「本当に?」


「本当に」


「ナオさんがすぐ頷くと逆に怖い」


「今日は十分だ」


 リュウが笑った。


「それは俺も同意」


 夕方、4人は立川方面へ近いホテルを取った。


 古い旅館でも民宿でもなく、ごく普通のホテルだった。


 ミカは部屋に入ると、まず廊下と非常口の位置を確認した。


 リュウがそれを見て笑う。


「避難訓練か」


「違う。変な道に入らないための確認」


「ホテルの廊下で迷うなよ」


「この旅ならあり得る」


「否定しきれないな」


 サチはベッドに座って、靴を脱いだ。


「今日は普通の日かと思ったら、最後に来たね」


「踏切のやつか」


 リュウが言う。


「うん。電車の中っていうのが、ちょっと嫌だった」


 ミカが頷く。


「分かる。神社とか路地ならまだ場所にいる感じだけど、電車の中って移動してるじゃん」


 ナオはその言葉に反応した。


「移動している」


「え?」


「鈴の子が止まった場所だけじゃなく、移動するものにも現れた」


 リュウが少し眉をひそめる。


「それ、どういう意味だ?」


「俺たちが移動しているからかもしれない」


 サチが静かに言った。


「旅に合わせて出てきてるってこと?」


「分からない。でも、鈴の子は今までより近づいている気がする」


 ミカはベッドの端に座ったまま固まった。


「近づかなくていい」


「でも、今日は赤い布切れもあったし、踏切でも見た」


 リュウが言う。


「あれが全部同じものとは限らない」


「そうだけど」


 サチは少し考え込んだ。


「でも、もし道の子だとしたら、私たちをどこかへ連れていこうとしてるのかな」


「それが問題だな」


 ナオは答えた。


「どこかへ連れていこうとしているのか。それとも、道に迷わないように見ているのか」


 部屋の中に沈黙が落ちた。


 外はもう暗くなり始めていた。


 ただ、今日の終わり方は、昨日までとは違っていた。


 窓の外を確認する必要はない。


 水に映る赤を探す必要もない。


 ナオはタブレットを開き、今日のメモを短くまとめた。


 道祖神。


 赤い布切れ。


 普通の鈴。


 踏切。


 電車の窓。


 道に出るもの。


 最後に、少し迷ってから一行を書いた。


 ――鈴の子は、道にいる。


 その文字を見たリュウが、小さく息を吐いた。


「核心っぽいな」


「まだ仮説だ」


「仮説でも嫌だな」


 ミカが言った。


「だって私たち、ずっと道を進むんでしょ?」


 ナオは画面を閉じた。


「ああ」


 サチがゆっくり言った。


「じゃあ、また会うね」


 誰も否定しなかった。


 その夜、4人は早めに眠ることにした。


 廊下に足音はない。


 水音もない。


 鈴の音もしない。


 ただ、ホテルの部屋の隅に置いたナオのタブレットが、一度だけ薄く光った。


 通知ではなかった。


 画面が勝手に点いたわけでもない。


 ただ、黒い画面の中に、さっきまで書いていた文字が、ほんの一瞬だけ浮かんだように見えた。


 ――道にいる。


 ナオだけが、それを見た。


 彼は何も言わなかった。


 言えば、ミカは眠れなくなる。


 サチも気にする。


 リュウは確認しようとする。


 だから黙って、タブレットを裏返した。


 その時、机の上で何かが小さく鳴った。


 金属ではない。


 鈴でもない。


 タブレットの角が、机に触れただけの音だった。


 それでもナオには、一瞬だけ別の音に聞こえた。


 しゃりん。


 ナオは目を閉じた。


 山の東京は終わり、街の東京が始まる。


 だが、道はずっと続いている。


 そして道のどこかに、あの子がいる。

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