親衛隊
リビングに向かう。母の顔、朝の挨拶。
何気ないやりとりに、新しい何かが加わる。心浮き立つ何かが。
「夏服、用意しといたからね。」
今日から、衣替えだ。生徒は夏服で登校する。薄い生地のズボンと、シャツ。爽やかな服装で、街に出る。
服が変わっただけなのに、世界が晴れやかに感じた。電車の窓から見える空を眺め、電車が地下に入ってからは文庫本を開き、空想の世界を旅する。実はそんな時間が一番幸せかもしれない。
そうしているうちに、学校の近くの駅についた。
地下鉄の駅から地上に出ると、青い空が広がっていた。それを見るだけで嬉しくなる。
この気持ちを文章で書き表したいと思う。目に映るもの、体験するものは全て、文字にしたくなる。
ビルの谷間の大通りを抜ければもう学校だ。
校門をくぐり昇降口で、いつも通り下駄箱を開ける。
「ん?」
下駄箱の、靴の上に紙が乗っている。前にもこういうことあったような。巧は既視感に襲われながらも、紙を手に取り開く。
『今日の昼休み屋上に来い。夜桜』
原稿用紙のマス目を無視して、雑だが美しい筆跡で、少し怖いけど、光栄な誘いが書かれていた。貴重な原稿用紙が無駄に使われているということの怒りはもはや感じない。
昼休みまでの間が長く思えてじれったかった。早く、時計が進んでくれと思った。
これは、ランチの誘いでいいんだよな、、、。
少し、緊張する。言葉が少なくてどうすればいいのかわからない。
昼休みに来い、とは一緒に屋上で昼食を食べよう、ということだろか、それともなんか他の用があるのか。あるとしたら、何なのか。
心配性の巧は色々と考えてしまう。
取り敢えず、お弁当を持っていくことは間違いないだろうと踏み、思考を進める。
この間、文芸部に来いと言われた時は一人で、と書かれていた。しかし今日はその縛りはなさそうである。
巧が猫実さんを誘うことを前提に、ことを進めているのかもしれない。
そして、唯一の友達である猫実さんということで、彼女を抜きにするのは気が引けた。
やはり、誘おう。それに猫実さんも夜桜先輩が、好きだ。
そう決めて、夜桜先輩と向き合う心構えは整った。生半可では、怒られるような気がしたのだ。
四時間目が終わってすぐに教室を離れた。巧は心が沸き立って自然に微笑みが漏れてしまう。まずは猫実さんの教室に向かおうと決めた途端、こちらに走ってくる影があった。
「こんにちは」
彼女の方からお迎えが来た。猫実さんも何か先輩から伝言をもらったのだろう。
何となく安心して、猫実さんを見る。夏服である。半袖が眩しい。まだ焼けてない白い肌がつやつやと輝いている。
右手に、水色のバンダナに包んだ弁当箱をぶら下げている。
「猫実さんも先輩に呼ばれてるんですか」
「そうです。」
にっこりと笑って、返される。
今日、初めて会った気がしない。猫実さんを見ただけで、心がほかほかする。この後、放課後も部活で会うとなるとほかほかしすぎてお腹いっぱいである。
「行きましょう。屋上の場所わかりますか?」
猫実さんが歩き出すので、巧もついていく。思えば、屋上に行くのは初めてだ。
いや、巧にとっては誰かに誘われて昼食を食べるのも初めてのことだった。
巧の教室のある2階、そして三年生の教室がある3階と、階段を登って行く。その間、特に会話はない。昼休みの喧騒に包まれる。こういう騒がしさは嫌いではない。
今、進めている小説のキャラクターが巧の頭の中で動き出す。こうしていれば、原稿用紙がなくても小説は進む。
階段を登っていると突然に、やや視界が暗くなる。もうすぐ、屋上だ。
屋上へ続く階段の踊り場に、夜桜先輩は立っていた。重い鉄製のドアが、彼女の後ろに固く閉ざされている。
「こんにちは」
猫実さんと二人で挨拶をする。夜桜先輩もうなずいて返す。巧は、嬉しそうにしている猫実さんを微笑ましく見つめる。
個性を殺すはずの、制服からあふれ出さんばかりの魅力を放って、薄暗いなか彼女は髪をかきあげた。彼女は、自分の上に立つ存在なのだとずくずく思い知らされる。
ぼそりと何かをつぶやく。聞こえない。
「なんか言いました?」
「、、え、、い」
「はい?」
聞いたことのないような言葉が、先輩の口から放たれる。
「もう」
気がつくと、ひやりとした感触が手首に走る。掴まれて、胸の高さまで持ち上げられる。驚愕で、喉が詰まる。
「開いて」
ジロリと、睨まれる。形が整った目からは有無を言わさぬ雰囲気を感じた。
力なく開かれた巧の手のひらに指が立てられる。薄桃色の爪が、軽く手のひらに食い込む。同じ人間とは思えないほどの長い指が、文字を描く。
「し」
識別したことを先輩に示すために、いちいち口に出す。
「ん」
なんの迷いもなく、文字は書かれていく。目のやり場にこまる。目の前にいる先輩のどこを見ればいいのかわからない。
くすぐったいような感覚が、薄く儚く生まれては消えて、消えては生まれて行く。
「え」「い」
「ああ、、親衛隊?」やっと、巧が理解する。なんだか、耳のことを気にしてもらって嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちになる。
「よくできました」先輩が薄暗い中で、微笑む。彼女の最も美しい瞬間とは、満面の笑みではなく、こうやって薄ら笑いをする時なのだと思う。
親衛隊。
なかなか日常会話に使われない言葉だったので聞き取りにくかったのかもしれない。が、親衛隊って何だ。
「まさか、先輩の親衛隊ですか。まさかそんな漫画みたいなこと、、、」
「おかしいとは思わなかった?」
強引に、流れを奪われる。ハッとさせるような響きを持って、暗い踊り場に先輩の声が通る。
視界の端で、猫実さんが、手を胸の前に持っていく。
「こんないい天気なのに、私たち以外、誰も屋上に上がって来ようとしない。」
ドスの利いた声が聞き間違いの余地などなく、巧の鼓膜に叩きつけられる。
鳥肌が立つ。まだ、手首を握られたままだ。脈を打つのがわかる。
「ざっと40人はいるぞ。」
そう聞いて、少し数字の大きさを吟味する。よく考えたらとんでもない数だ。クラス約1つ分の人数の生徒を夢中にさせる人なのだ。
巧は、昨日の車の中での会話を思い出していた。
「大丈夫なんですか。」
「まあ、役に立つこともいろいろあるし、、」
ふわりと上を向いて、考える。失礼だと思うけど、白い首に黒い髪がかかっているのを見てしまう。
「だから今日は、お世話になっているお礼ってことかな」
ぐっと、胸の前に持ち上げられた手を腰の横に押し戻される。緊張が解けて、少し安心する。
「そんなに、悪い人ではなさそうですし」
猫実さんも、ゆるまった空気に彩りを加えるように言った。
「猫実さんは知っていたんですか」
「ええ、2回目ですね。月に一回ぐらい先輩が会う協定になってますので」
「協定?」
なんだか、高校生の組織にあるまじき物騒な言葉である。
「ああ、えーとなんというか、、」
猫実はもじもじして、言葉に詰まってしまう。もしかしたら聞き返した時の声がきつすぎてしまったのかもしれない。
巧は少し後悔する。
「まあ、、時間もないし実際に見てもらった方が早い。」
先輩が助け舟を出す。猫実さんもコクコクと頷いて賛同する。
「じゃあいくぞ。」
先輩がくるっと振り返って屋上に出るドアに手をかけた。急いで巧もすぐ後ろにつく。
先輩は少し深呼吸してから、重いドアを開いた。
本当に大丈夫だろうか。いつも頼っていた先輩が今日は少し調子が良くない。




