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インスピレーション

 巧は文庫本を机の上に置いて、崩れ落ちるように、ベッドに倒れた。

 静かだった。雑音は、聞こえない。

 わずかな会話のずれを思い出して、心が痛んでゆく。

 虚ろに、見慣れすぎた自分の部屋の景色を見ていた。聞こえない言葉を聞き流すように。

 もう日は長くなってきているとはいえ、薄暗い時間帯だった。

 巧はシーツを握りしめた。

「ぐう」

 布団に顔を押し付けた。

 悔しかった。自分の耳が悪いのが悔しかった。何の得もないと知っているのにはっきりと、そう思った。

「なんでだ」

 なんで、うまくいかないんだ。

 身がちぎれるほどの強烈な思いが、さらに指先に力を込める。

 あの冷たいような微笑みが何度も脳裏に浮かんだ。2人とも無理に笑っていた。諦めないと言いながら、実際は違った。わからないままで、やり過ごそうとしていた。

 そうなったのも全て自分のせいだと巧は当然のように考える。

 俺の耳が悪いせいで、会話が下手なせいで猫実さんがすまない思いをしてしまった。

 巧は思い出していた。泣いている猫実さんをまた、思い出していた。

 昨日のことがまるではるか昔のことのように思えた。

 横になって体を楽にしていると気持ちは治まってきた。辛いのは変わらないのだけれども、それをどうにかしたくなった。

 もう、巧の中では答えは決まっていた。

 何か心のうちから言葉が溢れてくるような気がした。いや、言葉ではなく言葉になる前の何かが体を動かした。

 むくりとベッドから起きだす。書こう。さっきのことを、俺だけが感じられる辛さを。

 巧は、勉強机に座った。スタンドライトをつける。ビニールから文庫本を取り出してカバーを眺める。机の棚にしまい、代わりに引き出しから20枚入りの原稿用紙の袋を取り出した。

 鉛筆で書き出す。これはカテゴライズするとしたら何に当たるのだろうか。随筆?エッセイか?いや待て、随筆とエッセイって同じか。そんなことを考えながらも、手は初めから書くことが決まっているかのようにすらすらと次の原稿用紙へ筆を走らせていた。

 これを書くって決めたんだ。

 言葉にすることが、唯一の抵抗だった。

 不思議と、心が整理されていくように感じた。

 10枚書くか書かないかのところで集中が切れる。巧は書いた束を読み直す。赤ペンで修正していく。突如として麻生先生の「汚くて読めない」が思い出されて丁寧に字を書く。

 こうして書くと意外と俺って字うまいよなあと若干自惚れる。内容の方は、わからないが。

 うん、、できた。ホッチキスで止められる厚さだ。長編を曲がりなりにも書き上げたばかりなのでこのくらいは軽く感じるようになった。確実に実力がついている気がして、気持ちがしっかりする。題名は、渋谷、、、じゃなくて新宿か。

 1枚目の右端のところに『新宿』と書いておいた。

 巧はまだ東京の地名がおぼつかないでいる。

 気づけばもう心の痛みは和らいでいた。幾度となく経験してきた痛みだ。慣れというものがある。

 ほとんど当然のように猫実さんに書き上げたものを見せることを思いついた。

 それは巧にとって心の内をさらけ出す行為に当たるのだが、猫実さんなら大丈夫かと思った。

 いや、そもそも読んでくれるかわかんないな。こんなエゴにまみれたエッセイ誰も読まねえぞ。

 これは麻生先生と同じパターンだと巧は思い返す。ちゃんと経験則として刻まれている。

 ならば、と思い浮かんだ。

 夜桜先輩なら面白がって取り敢えずは読んでくれるかもしれない。

 弱みをまた握られることになるが、もう耳が悪い時点で弱みなんかどうでもいい。あの物好きな先輩のニヤついた顔が簡単に想像できた。

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