「また明日」
空いたレジの店員さんが、手を挙げてこちらを見る。きっと次の方どうぞ、とか言ったのだろうが巧は聞き取れない。しかしこう言ったことにはさすがに慣れている。
生まれた時から、難聴だから。
その面で巧は自信を持っていた。
まず「これください」と言って本を差し出す。そして今回は特殊だ。図書カードで会計をする。早めに「図書カード使ってもいいですか。」と聞く。
レジの人がピッと本を読み込みながらいいですよーと答えた。
よし、と巧はここでやっと安心する。ここから何か聞かれるとしたら、聞き取れなくてもイエスかノーかで答えられる質問だけだ。
つまり、ずっと「いいえ」と答えておけばいい。
店員さんが何か声を発した。か細い声だ。よく普通の人はこれが聞こえるなあと、巧は感心してしまう。
でもこれは多分「ブックカバーはいかがですか」と開かれていると、巧は推測し、
「いらないです」と答える。
難聴であると伝えなくても、すらすらと会話は進んで行く。テンプレートだから、内容を覚えてしまえはそれでいいのだ。
次に聞かれるのは、ポイントカードを持ってるかどうか。のはずだ。
これも、「いいえ」だ。
そして、新しく作るかとの誘いも愛想笑いで断る。
聞かれるのはそのくらいだ。それで会話が終わる。
図書カードで、きっかり700円払ってお釣りを貰った。
「ありがとうございました」と頭を下げて、本を受け取る。
少し遅れて猫実さんもレジの列から出てきた。なんとなく晴れやかな顔をしている。
「楽しみです。さっそく今日読んじゃいます。」
と嬉しそうに話す。
「そうですね。僕も、、、。」
と巧は言った途端にズキリと心が痛む。
猫実さんとは、ちゃんと会話するんだな。
痛いところに巧は自分で気がついてしまった。良心が自分自身の悪いところを締め上げてくる。途端に、さっきまでの浮ついた心がしぼむ。
普通に歩いていたら、急に襟首を掴まれたような。
さっきの会話は、「諦めていた」かもしれない。
「ぼくも?」
つぶらな目で見てくる猫実さんが眩しい。自分が恥ずかしい。
「あ、いや、僕も、今日さっそく読もうかなと、、、。」
「好きですねえ」猫実さんがぐいぐいと肘で脇を突いてくる。とっさに巧は作り笑いで応じる。
不意の接触に、ときめく暇もなく。
さっきの「素敵」とかけ離れた行動を蒸し返してしまう。
だけど、どうやったらよかったんだ。いちいち、耳が悪いと断るのが最善なのか。そんなことしてたら、迷惑じゃないのか。
違う。自分が手を抜いた、助けてと言うのを面倒くさがっただけではないのか。
答えは、出ないし時間も戻らない。それなのに考えずにはいられない。
「ああー、私『ヘンリー』の時より泣いちゃったりしたらどうしよう」
文庫本を包むビニールを、胸の前で抱いて猫実さんが声をあげる。
「あっ、カバーの後ろのあらすじはネタバレになっちゃうかもですから、見ない方がいいですよ。」
「う、うん」
優しい猫実さんの、気遣いを素直に受け取れない。
とっさに巧は顔を彼女から背けた。また、あの時のように表情を読まれるのを恐れたからだ。
こんな時まで、こんな些細なことで猫実さんに気にかけて貰う必要はないと思った。せっかく喜んでいる彼女に気を使われるのが嫌だった。
「あっちに何かありますか」
向き合っている時に視線を外したから、さすがに彼女も反応する。鋭い反応も今はもう、うざったく思ってしまう。
「いや、、ううん」
思ったように声が出ない。そして何か言うたびに会話がこじれてくる。
もう忘れて欲しい。
決して口にできない思いを心に溜め込んでしまう。自分でも嫌悪するぐらい醜い感情が、こんなにも簡単に生まれてしまう。
視線の行き場がなくて苦しい。
また何か猫実さんが言ったが聞こえない。
「はい?」
そう聞き返しても、微笑まれるだけだった。
「う、うん」
巧は理解できないまま話を勝手に終わらせてしまう。また、通じない会話ができてしまった。
しばらく沈黙が2人の間に流れる。東京の喧騒がかえってそれを強調していた。
「えっと、次は何をしますか、、、」
巧は、先ほどの会話がわからなくても繋がるように台詞を選ぶ。そういったことに長けてしまっていた。聞こえているふりをすることに慣れてしまっていた。
生まれた時から、難聴だったから。
「なんか、新宿で気になるところとかあります」猫実さんが問いかけてくる。
「いや、特にないです」
「そうですか。」
嘘つきだ。自分は。
巧は自分を冷酷に判断する。
ちゃんと聞こえてないことを伝えないことは嘘をついているのと同じだ。信じてくれる猫実さんを裏切る行為だ。
それを謝りたくても、もう、謝れない空気になってしまっている。障害と同じで、その「嘘」も外からは見えない。説明できない。わかって貰うのが難しいことだった。
だからもう、自分にも嘘をついて、なかったことにすればいい。いまは忘れて、しまえばいい。そうしなくては、何もできない。良心に逆らいながらじゃないと前に進むことができない。
猫実さんが場を取り持つように、
「もうそろそろ帰りますか。」と言った。
巧もそれに応じる。きっと噛み合わない会話を感じているのだろう。自分が、頑なに会話を拒んでいたり、無愛想な態度を取っているように思われているに違いない。
違うんだよ。耳さえ悪くなければもっと、、、。
もっと会話を楽しく出来るはずなのに、もっと仲良くなれるはずなのに。
巧は、叶わない願いばかりが頭に浮かんで来てしまう自分が嫌だった。
電車の中で、声をかけるのが怖くなった。もう何もしないのが、一番いいと思ってしまった。
黙って、音の出ない車内のディスプレイに流れる広告を見ていた。
「また、明日、じゃなくて来週ですね。」
ふふっと猫実さんが笑う。
今日は土曜日だ。
本当は、日曜日にも、会おうとすれば会えるだろう。会いたいと言ったら彼女はどう答えるだろうか。
その言葉から見えない壁のようなものを感じて、落胆する。
巧は、踏み出せない自分の意気地の無さを感じながら手を振った。また隠していた。また無言で嘘をついていた。
自分だけが知っていた。




