笑う、あなたに
「猫実さんの分もあるね、これ」
手に残る厚紙を見て巧が言う。
「はい」頷いて、猫実さんが一枚受け取った。
何か思うことがあるのだろう。猫実さんがじっと手元を見つめる。
巧はそれを黙って見ていた。
別に、試写会で見る映画の原作が「買える」だけで、「買わなくてはいけない」ということではない。
「僕はもちろん、『フォーエバー』でしたっけ、、、買いますよ」
猫実さんは他の本を買ってもいいのだろう。そう思って巧は考え込む猫実さんに声をかけた。
「私も買います。」
「猫実さんなら、、、」
「そういうと思ってました、ですか」
そう言って猫実さんがニコリと微笑む。
「もう、それしかないでしょう。映画が先とかそういうこだわりは捨てます。」
巧は猫実さんの意図を察する。きっと少しでも自分と同じ状況に身を置こうとしているのだ。
まだまだ、足りないなと、巧は少し焦る。何もしていないと次々と恩を売られてしまう。もちろん猫実さんがそんな考えで親切にしているわけではないとわかっているが、巧の方はそれを返そうと意識するのは当然だった。
そうやって義務感に追われて動くのも、嫌なことじゃない。むしろ、誇らしいことだと巧は自分に言い聞かせる。今度は、自分がそうする番だと決めていたのだから。
「えっとじゃあ、まずは帰りましょうか」
「はい」
巧から声をかけて、二人は支度を始めた。
駅までの帰り道。
「よかった」
猫実さんがうっとりと呟く。
桜の季節も終わってしまって夏に向かいかけた季節だ。太陽に照らされて、キラキラと並木が光る。
思えば、高校に入ってこうやって友達と並んで帰るなんて想像もつかなかったなあと巧は隣を歩く猫実さんを見て思う。
中学生の頃と同じくずっと、一人かと思っていた。巧自身が変わったわけではないのだろう。猫実さんに出会って、一人じゃなくなっただけだ。偶然、なのだろう。
だから尚更、巧は変わりたいと思った。夜桜先輩が言ったように努力して保っていきたいと思った。彼女のために何かしてあげられたらと思った。
「よかった」と、当の本人はずっと同じことを繰り返している。
うっとりと、もしくは虚ろな雰囲気である。きっと何か、彼女の中で大切な何かが守られたような。
巧は猫実さんの全身に目を通す。
真面目そうな丈のスカート、セーラー服に重そうなカバンを肩にかけている。剣道の時に邪魔にならないように髪は結んでいるのだろうか。
あの日の猫実さんは違っていた。泣いていた。揺らいでいた。
今はもう、大丈夫なのかな。
巧は、口に出さずに問いかける。誰にも聞こえない問いを。
彼女は空を見上げている。
そこだけ見れば、いかにも文学少女という感じだ。巧は実際にそう言った少女を見たことはないのだが。
そうやって猫実さんを見ているとだんだん「わかってきた」という気もしなくもない。猫実さんはそういう人なのだと巧の中で固まってきている。
小説を書くようになってから、自分の内面に目がいくようになった。かつてないほど、探り掘り返し、問いかけながら進んでいった、自分の心の内の感触は不思議で、底が見えそうにもない。自分のことなのに。
底が見えないところに惹かれている。いやどちらかというと「焦っている」の方が正しいかもしれない。このまま、ずっと先が見えないのではないかと怖くなることもある。その焦りで書き続けている。
その行為には、今のところ、わかってもらうため、とか誰かを楽しませたいとかの意味を見出している。
その「意味」は巧が勝手に決めたことだ。正解ではない。それでも、決めなくては何も始まらない。
それと同じで、今見える猫実さんと真面目に接していく、ということでいいのだろう。ただそれが答えではない、絶対ではないということを自覚しておくべきだ。
なんてことを考え込みながら巧は歩いていた。
「、、、みさあん、巧さん」
「はっ!」
呼び止められて巧は足がほぼ止まっていることに気がついた。自分の世界に入り込み過ぎていた。
「どうしましたか」と聞いた途端に、猫実さんが歩調を合わせてくれたことにも気がついたが、お礼を言うタイミングを逃していた。
「本屋さん、どこにしますか」
「ああ、、、。」罰が悪いまま答える。
巧はてっきり個別で買っておくのかと思っていた。猫実さんはどうやら二人でどこかに買いに行くつもりらしい。
「あんまり学校の近くは知らないので、、、。猫実さんは知ってますか。」
「あ、、この間、夜桜先輩が一緒に行って教えてくれたところがあるんです。」
すんなりと代案が出た。
最初から、猫実さんはそこにするつもりだったのかもしれない。仲良く本を選んでいる二人を想像して巧はほっこりした。
「ニノクニヤホンテンです。新宿の!」
巧は急に出てきた固有名詞に反応できずにいる。固有名詞は、文脈から予測しにくい上、聞いた通りで合っているのかどうかも判断しづらい。
「にのくりやほんてん、、、」
「二ノ国屋本店ですっ」猫実さんが言い直す。
「なるほど」
二ノ国屋なら巧の家の近くにもある。全国に展開している本屋さんだ。その本店に猫実さんが行くらしいことがわかって巧は少し不安になる。
「本店って、新宿なんですか。遠くないですか?」
そう聞くと猫実さんが首をかしげる。
「だいたい電車で10分ぐらいですよ」
新宿ってそんなに近くにあったのかと巧は戦慄する。それこそ衝撃の事実だと思った。高校が東京にあると言うことは自覚していたが、新宿は東京の中でも格が違うと勝手に決めつけていた。
高校生が新宿なんかに行っていいのだろうかと思ったが、その認識すらも間違っているだろうと巧は口に出すのをやめた。
「猫実さんは、よく知ってますね」
「本は好きですから、珍しい本を探しに行ったりしますよ。すっごく大きな本屋です。なんせ本店ですからねー」
その場所自体が好きなのか、やや興奮気味に猫実さんは言った。巧もまだ見ぬ場所にこれから向かうのだと言う高揚感が胸に押し寄せてきた。そして巧も本が好きだ。
「俄然、行きたくなってきました。」
「でしょう」にっこりと猫実さんが笑った。巧はそれだけで春の陽気が増したように感じてしまう。
「そういえば、学校の帰りに本屋に寄るのも初めてだなあ」
「えっ、真面目ですね」
「真面目と言うか、堂々と寄り道する度胸がないだけで、、、。
猫実さんは、今まで本屋さん行ったりしてたんですか」
巧には、猫実さんの方が遥かにしっかりしてると思えたのだ。
「ええーと」
急にキリッとした顔になって猫実さんは考え込む。頭をぶるっと振った拍子にポニーテールも揺れた。
「あっそうだ。始業式の時に、夜桜先輩と行きました。ご飯まで一緒に食べました。」
猫実さんは本当に嬉しそうな思い出を語る。巧は気軽に一緒に出かけられる友達っていいなあと思ってしまう。
しかしそれでも、これから楽しいことがあるのだという期待が何もかもを打ち負かしてキラキラと巧の胸の中に輝いている。
そして、巧は普段投稿で使わない路線の電車に乗り、猫実さんにエスコートされるまま新宿駅に着いたのだった。
電車はあっけないほど、簡単に巧を運んでいった。
「はぁ、ここが新宿か、、、」
人混みに圧倒されながら巧は息を切らす。
「ちょっと疲れてません?」
「あ、大丈夫です」紳士的な猫実さんにすこし、どきりとしてしまう。
しかし行き慣れたように人混みをかき分ける彼女を、追いかけるのに必死だったので確かに巧は疲れていた。猫実さんに言うほどのことではないと思った。
「ここからすこし歩けばつきますよ」
「はい、頑張ります。」
しかし頑張ると言った時点で、バレバレだがつい巧は口にしてしまう。それがおかしいのか猫実さんはまた微笑む。
全然役に立てねえ、、、。と巧は自分の世間知らずさを恨んだ。
そして、この人混みをまた猫実さんを追いかけてゆく。有名だから近寄りがたいのではなく、有名だからこそたくさん人がいるのだと納得する。だから高校生の自分たちも当たり前のように飲み込まれてしまうのだと。
ふと、巧は気になることがあって猫実さんに聞いてみた。
「これだけの人が話している内容って聞こえますか」巧は雑音にかき消されないように大きな声で彼女に尋ねる。
人混みの中で飛び交う言葉は全て、巧には意味のない音としか認識できなかった。猫実さんはもし、それらをすべて聴いていたのなら、どれだけたくさんのものを感じることになるのだろう。
そして自分はどれだけたくさんのことを知らないで生きて行くことになるのだろう。
巧はそんなことが気になったのだ。
聞かれた猫実さんは、顎に手を当てて考え込む。変な質問をしてしまったかと巧は心配する。
「いや、、、そもそも私、聞こうとしてませんでした。」
なるほど、と巧は心の中で相槌を打つ。
「聞いて、どうにかなるというわけではありませんし、、、。そう考えると巧さんの方が耳がいいと言えるのでは」
「耳がいいってどういうことです?」
「いや、聞く姿勢がいいんですね。この場合は。うんうん。わたしも頑張らなくては」
ズバズバとお構いなしに、猫実さんは論理を進めてゆく。
何も言えなくなってしまった巧に猫実さんが真剣になって答える。
「巧さんは、、、難聴、だからこそ耳を澄ませていたっていうことじゃないですか。きっと一生懸命に。単に聞き逃したわたしとは違います。それって素敵なことです。」
突然に褒められて、心臓が跳ね上がる。
その上今ちょうど、巧は耳をすませて雑音の中から彼女の声を拾っている最中だった。
心がじわりと緩くなって、頰も意思とは関係なしに緩んでしまう。
誉め殺しってこういうことかとまた新しく発見した。それくらい、すらすらと猫実さんはためらいなく、と言ってもお世辞ではなく心から巧を褒めた。
「いやでも、聴こえてないのは同じだから」
照れ隠しで、そう口答えしてしまう。
「ふふっ」
その心すらも猫実さんは見透かしたようににっこりと笑う。
これからずっと、何回も思い出してしまうような会話だった。
二ノ国屋本店は当然のようにそこにあった。ビルとビルの狭間にたくさんの人と店が、ひしめいていた。
社会を構成するパーツの一つのように佇んでいた。
文芸のコーナーは一階の一番目立つところにあったので、見つけるのは容易かった。
「あった。これか」
巧が、『祝、映像化』と平積みされた文庫本を手に取る。
『フォーエバー』という爽やかなフォント。そして著者名の、高橋景。
帯には、あの高橋監督が自らノベライズ!という煽り文句が書かれていた。
「この監督、小説も書けるんですね。」
と素直に巧は感嘆する。自分には逆に映画は作れないだろうなと思う。そもそもコミュニケーションが、出来ないのにチームで優れたものを作るなんて無理だろう。
巧はそんなことを考えていた。
やっぱり書くしかないのかもしれないと。
「ええ、憧れますねえ。」
巧は、猫実さんも小説を書こうと努力しているのだと思い出した。それでも書けないということも。
どうして猫実さんは色々できる中で、書くことを選んだんだろう。また、巧の中で疑問が生まれた。しかし今は、そんな悠長に話し合っている暇はないと思い直す。
「では、買わせていただきましょう」
二人は本を手にとって、レジに並んだ。
並んでいる間、猫実さんは爛々と目を輝かせながら、本のカバーを眺めていた。本が好きな気持ちは、巧もわかる。本当に、情けをかけられたけど、こうやって猫実さんが納得できる形で本を買えて良かった。あの時マジでキレてたからなあ猫実さん、、、。
巧は、それでも自分のために怒り、涙を流してくれたという大切な事実をしっかりと思い返す。
何にも代え難い人がそばにいるのだ。
猫実さんがふと巧のほうを向いて微笑む。
巧も頑張って、微笑む。返したい、と思う。強くそう思う。猫実さんがくれたものをちゃんと返していきたいと、彼女が笑いかけてくれるたびに巧は思う。




