答え
絞り出すように、今までずっと心に溜まってきたものを書き出すように、猫実さんは言った。
「わたしは諦めたくない」
耳が悪いということに何も答えを出すことができなかった。ただ、それだけのことに言葉という分かり合うための唯一の武器が役に立たなかった。
いままで、何度も諦めてきた。
大多数と呼ばれる人々の輪に入ること、作り笑いをせずに本当の意味で笑い合うこと、わかり合うこと。
聞こえて、聴こえない言葉の意味を追いかけることを諦めてきた。果てしなく続く暗闇の前で、抜け出そうとする気力を失っていた。
それでも、彼女は諦めないと言った。巧はそれを聴いた。
その言葉に許されたような気がした。自分の弱さを、そしてその弱さを乗り越えるための努力を注ぐことを。
「猫実さん」
口からこぼれだす名前の感触をゆっくりと確かめた。
「ありがとう」
巧の声は何も変えることなく、部室に広がっては溶けた。猫実さんは何も答えなかった。ゆっくりと丁寧に言葉を選んだ。巧は、猫実さんがこれから続く言葉をずっと待っていてくれているように感じた。
「本当にいろんなことを諦めてきた。」
やっと、出た言葉は考えついたと言うよりも、ふっと吐き出したような情けない言葉だった。
自分の弱さを見せながら進まなくてはいけない。初めてそのことに気づいた。
巧は思い出す。麻生先生に床に捨てられた紙の束を。あの日、その捨てられたその束を拾い直したのは自分自身だった。
『その小説、わたしが読んでみていい?』
『まあまあです』
『そんな君にぴったりな部活がある』
『意味、ありましたね』
その束が、読む人に巡り合わせてくれた。どんなに拙くても、読んでくれた。その瞬間から、自分の見る世界が鮮やかに生まれ変わるった。そして、それを書いたのは自分自身なのだと。
「耳のこと、まだはっきりと分かりません。どうしたら、猫実さんにうまく伝えられるかも分かりません。」
巧は溢れ出した言葉がつぎつぎと吸い込まれるような不思議な感覚を、味わっていた。
「でも一つだけ諦めないとしたら、表現することだと思います」
巧は言う前から猫実さんは分かっているのではないかとすら感じた。確かにこの瞬間は心が通じ合っていたと思った。たとえ見えないとしても、聞こえないとしてもそうやって信じていた。信じさせる何かがあった。
「だから僕は小説を書きたいです」
と巧は言った。
ぴったりと今までのことが全て繋がったような気がした。自らの障害にさえ意味があるかのように思えた。
「僕はこうやって人と話すのが苦手で、うまく話せないんです。
でも、書くのなら得意です。だから猫実さんが諦めないなら、何度でも書きます。」
その答えは、ずっと前から決まってたかのように美しい数式の答えのようにそこに在った。
誰かのために、そして自分自身のために書いていくことだ。
一つ、結論がついた。




