捉え方
「耳のことです。」
口から出した途端に、巧は必死に頭を働かせた。まるで、自分の言葉を追いかけるように。考えなしに言ったわけではない。考えても、捉えられないのだ。
猫実さんは、ピンと背筋を伸ばして巧の方に向き直る。巧も、椅子ごと向きを変えて彼女の方を見た。
見つめ合う。というより、探り合っていた。見えないはずの心の内を見ようとしていた。聞こえないはずの鼓動を聞こうとしていた。
巧が口を開いた。
「すいません、なんて言ったらいいかわかりません」
分からないことははっきりと言うべきだと思ったのだ。
難聴という障害で苦しむ。そう言えば簡単だろう。でもそれだけじゃ何も変わらない。事実を捉えているが、伝わらない。辛さが、そして苦しむ理由も。
色々、過去に起こった辛いことを思い返す。先生が言ったことを聞き取れなくて、みんなの前で恥をかいたとか。
いや、それだけじゃないと、思い直す。わかりやすいことだけじゃなくて、さっきのような何気無い瞬間瞬間にも、心は、揺れる。傷つく。
その細かすぎるほどの出来事を全て、言葉に表せる自信はなかった。
巧は俯く。紺色のスカートの上で組まれた猫実さんの手を見た。血が通った健康的な色をしている。
「わたしの思ってることを言ってもいいですか。」
猫実さんの声がはっきりと聞こえた。そして、巧は自分が問いかけられたことにやっと気づいた。
「はい」と答える。巧は頷かなかった。ただ真っ直ぐな猫実さんの目を見て、そう言った。
「わたしは、」
そこで、彼女は言葉を区切った。巧は一気に空気が真剣になったと感じた。聞き逃さないようにするあまりに、ささいな変化を気にかけるようになる。巧には猫実さんの声以外は何も聞こえなかった。ただ、彼女の声を聞くためだけに耳はあるのかとさえ思った。
猫実さんの肩が動いた。巧は息を吸ったのだろうと呼吸の音ではなく、動きで認識する。
猫実さんの目を見た。
怖くなった。あの日、もう泣きませんと言った彼女が壊れてしまいそうで、怖くなった。
巧はそんな単純な言葉で計り知れるような問題じゃないのだと改めて考えるとぞっとした。それが「障害」という問題なのだと。
猫実さんは、自分から危ういところに向かっているのではないかとすら思えた。
そして、ささやかな色の唇が動いた。
「分かり合えるって信じてます。」
言い放つ。その言葉が似合うような声だった。その言葉にふさわしい目だった。姿勢だった。
巧は張り合うだけの強さを持ち得る言葉を見つけられなかった。あれだけの原稿用紙を埋めていながら、今は小説を書けないと言った猫実さんに負けていた。
重みが違う。猫実さんの言葉は戒めるように巧の心を強く叩きつける。
猫実さんは畳み掛ける。
「傲慢ですよね。」
巧は答えられなかった。
「わかってます」
そして、先ほどの巧のように猫実さんは座ったまま俯いた。巧にはこれこそが何かと闘っている人のように見えた。
「わかってますよ、、、。でも」
巧には、途切れ途切れの言葉がかえって加速度的に重さを増してこちらに迫っているように感じた。
もしかしたら、誰も行き着いたことのない心の奥地にゆっくりと確実に踏み込まれているのかもしれないと思った。




