土曜の昼
「こんにちは」
くぐもった声とともに巧はプレハブ小屋の二階にある一室に入ってゆく。
「ほんにちはあ」
お助け部に手伝いを頼む人のための机と本棚以外には何も置かれてない部室は広々と感じる。土曜日の午後の日差しがゆったりと猫実さんの膨らんだ頰を照らしていた。
「お先にいただいております。」
二つ並んだ学校机の上座に座る猫実さんはもぐもぐとお弁当を食べている。いつもの位置だ。巧も猫実さんの隣に座ってお弁当を食べ始める。
平和だ。自然と巧は心の中に浮かんだ言葉を味わう。授業から解放されて、残りの時間はたっぷりある。猫実さんと過ごすことができる。
隣に座る彼女は何も言わずにシャッキリと姿勢を正したまま、お弁当箱を胸の前で構え、から揚げを美味しそうに食べている。
「猫実さんって、姿勢いいですね」
そういう巧はお弁当箱をぺったり机に置いたまま食べる。
「ごふぅつ」
猫実さんがむせた。
「あっ!大丈夫ですか、すみません急に」
平和だとか思ってた直後に巧はうろたえる。
「いえ巧さんは何も、げふっ」辛そうに咳き込んで口を抑える。
気を使われてぎこちない空気になる。
とんでもない地雷を踏んでしまった。と巧はがっかりする。
大丈夫だろうか。これから、下校時間まであと五時間以上ある。依頼人でも来てくれればありがたいのだが。
「ふうー」
ようやく猫実さんが落ち着いてため息をついた。
「大丈夫ですか」
「はい」
しばし沈黙。廊下で誰かが叫ぶ声がしたが内容は不明。多分、落ち着きのない血気盛んな生徒の仕業だろうから二人ともスルーした。
「んで、姿勢のことですが」
猫実さんが切り出す。
「お父さんが、剣道の師範でちっちゃい頃、教えてもらってたんです」
楽しかったのだろう。にっこりと思い出を愛でるように猫実さんが笑った。
「すごいですね。」
「いえいえ」
だから、声がハキハキしてるのかと巧は納得する。剣道は声出すの大事だからなあ。同時に昨日聞いた自分の名前を呼ぶ声も思い出して恥ずかしくなる。ほんと、猫実さんにはお世話になりっぱなしで、困るなとづくづく思い直す。
「姿勢は、自分との闘いですから。」
猫実さんはきっぱりと、言い切る。
「自分に勝つことができないものは相手にも勝つ資格はないっていうのがお父さんの口ぐせでした」
いや、お父さん厳しいな。と巧は剣道の防具を身につけ、道場で仁王立ちするお父さんを想像した。猫実さんのあの真っ直ぐさとか意思の強さとかはそれで培われていったのだろう。そう思ってまた自分が恥ずかしくなる。
俺は俺に勝ててるだろうか。
そう考えると、自分の障害のことを思い出した。
まだだよな。そもそもどうやったら勝てるかもわからない。何をしたら勝ちなのかもわからない。
ぼそりと猫実さんが呟いた。
その何気ない言葉を巧は捉えることができなかった。
「あ、何て言いました」
作り笑いをして耳をかしげる。
「あ、なんでもないです」
そのやりとりが悲しくて、傷をえぐり返されたように心が痛くなる。
「う、うん」
そんなはずはない。
きっと何か言いたかったことがあったはずだろう。それをもみ消してしまった。
日常は何気ない言葉で成り立っている。大きな機械の中の小さなネジのような言葉だ。
聞き逃せば、積もり積もって壊れていく。確実に、動かなくなっていく。たとえ、言い直す必要がないような言葉でも会話の一部なのだ。
自分の限界を思い知らされる。忘れる暇を許さない。
「自分に勝つことができないものは相手にも勝つ資格はない」
だとしたら、この難聴というものを乗り換えない限り、一つも踏み出せないのではないか。そもそも乗り越えられるものなのか?
そう考えるほど暗闇の中に立っている気がして巧は静かに絶望していた。
「やっぱりなんでもなくない!」
「へ?」
必死の形相で猫実さんがこっちを、睨んでくる。
「顔が青いですけど、大丈夫ですか」
しまった、顔に出てしまったとひやりとする。夜桜先輩にも言われたことだ。
「もしかして、昨日のことですか」
一貫して丁寧語は崩さないが、猫実さんの言葉は戸惑うことなく踏み込んでくる。
「昨日のことは大丈夫ですから。なんでもないです。」
巧は両手をパラパラと胸の前でふって否定した。
「む」
猫実さんが頰を膨らませる。急に彼女を取り巻く空気が変わったような気がして、巧はほとんど怖さで涙目になっていた。気圧されて声が出ない。
「まあ、今は食べましょう」
ため息をして、猫実さんが前を向いた。緩もうとした空気が、緊張を埋めるものを探す。
「すいません」
「巧さんが謝ることじゃないです。」
その言葉を聞いた時に、巧は違う意味で泣きそうになった。さすがに昨日泣いたばっかりなので必死に我慢する。
彼女の方が何枚も上手だ。分かろうとしてくれている。耳が悪い自分を、それでもどうにかしようとしてくれてる。
その姿勢があるなら、ちゃんと頼るべきなのではないか。彼女が踏み出してくれたのなら、今度は自分次第なのではないか。
通り過ぎて行く人々とは明らかに違う。
猫実さんに見放される前に、猫実さんが疲れ切ってしまう前にちゃんともっと打ちあけようと巧は思った。そう心に決めた。
弁当箱が空になってから、口を開く。
「耳のことです。」
今日も依頼人は自分だ。




