過ぎて、
かすかにに聞こえる目覚まし時計の音で、目が覚めた。アラームが聞こえる日は調子がいい。多分、聴力じゃなくて睡眠のリズムの問題なのだろうけど。巧は何となく安心する。
そうやって今日も、とりとめもなく1日が始まる。
学校に向かう電車の中で昨日見た夜景を思い出した。電車の走る音以外は何も聞こえない。
巧は取りかかっている小説の続きを頭の中で思い描く。こうすれば退屈することはもうなかった。書くことよりも書こうとすることが、巧の内側の世界をより豊かに、鮮やかに変えた。
きっと、出来ないことを小説の中で満たしているのだろうと思う。自分を投影した主人公が、動く。人と話す。笑って、泣く。物語の中で人と関わるということが楽しいのだ。頭の中には、原稿用紙の上には、人と巧を切り離す難聴という壁はなかった。
まあでも、人に読んでもらうレベルにはまだまだ足りてないなと、思う。確かに小説を書くのは楽しい。でもそれゆえに、独りよがりになりすぎているかもしれない。そもそも、小説の中でも難聴ということになっているのにガンガン話せているのはおかしいだろ。
と、誰にも聞かれることのない独り言を繰り返して通学時間は過ぎて行く。
前の席に座らせてもらっている。授業はこれでちゃんと聞こえる。黒板以外は視界に入らない、かえって他の人より集中できるかもしれない。
気づけば高校生活も始まって1ヶ月が過ぎた。慣れない革靴を靴擦れで、かかとの皮がボロボロになるという理不尽な血の代償を払ったことはもう、笑い話だ。笑いあえるような人が猫実さんぐらいしかいないのだが。
巧は彼女を思い出すと急に自信がなくなった。つまんない奴だと思われてないだろうか。ちゃんと笑いあえるだろうか。
ただそんな不安の中でも、過ぎてゆくのだ。人付き合いが苦手だということの原因はほとんど難聴のせいだと言っていいのではないかと思う。
「聞こえてさえいれば、悩むことはないのだろうか」
巧は、かつて何度も繰り返した言葉をまた脳内で舐め返した。いつも通り答えはどこからも帰ってこない。
授業間の短い休み時間の教室には、生徒たちが笑い合う声であふれている。声だけで、意味は取れない。
巧は基本的に、目の前の人としか話せない。その限界を軽々と人々は超えてゆく。
聞こえてさえいれば、あの「ふつう」の彼らのように過ごせるのだろうか。
そう思って、思考を取り直す。
「ふつう」ってなんだよ。
彼、彼女らは悩んでないという保証はあるのか、と。
猫実さんは、体のどこも悪くなくても出来ないことがある、と言っていた。思い出した彼女の顔は、声は真剣で、今もまだ貫くような視線は輝いていた。
誰かしら、何かと戦っている。あるいは、「闘って」いる。その辛さは、慮ることはできない。たがその事実は忘れてはいけないのだろう。自分一人だけが、悲しんでいることに価値はないのだろう。
あっけなく、授業が終わる。土曜日だから4時間で終わりだ。惹かれるようにしてお助け部の部室に向かう。彼女がいる。少なくとも話すことのできる「目の前の人」は猫実さんだ。
きっともう部室にいるだろうな。部室に疾風のごとく走ってゆくポニーテールの彼女を想像してすこし頰が緩んだ。




