コミュニケーション
「その小説、私が読んでみていい?」
金子先生の言葉の意味が頭に登ってこなかった。しばらくしてやっと体が動いた。
「どうぞ」と原稿用紙の束を差し出す。
「ありがとう」金子先生の女性らしくほっそりとした手がそれを受け取る。
「良かったね、現代文の先生にみてもらえて」
「はい」
夜桜先輩がさっと髪をかきあげて、廊下を歩き出した。もう早く帰りたいみたいだ。確かにもう下校時刻を随分オーバーしている。
ただ、そんなことよりも、さっきまでのことが強く頭の中を占めていて、離れなかった。
あんなにまで、自分を思ったくれた猫実さん。そして、結局、分かってくれなかった麻生先生。慰めてくれたみんな。
思い出そうとしても、走った疲れがどっと出て何度も同じ情景が浮かぶだけだった。
「じゃあまた明日」
駅までは金子先生が車で送ってくれた。帰宅ラッシュと重なったせいか、いつもより人が多い。聞こえない猫実さんと夜桜先輩の会話をよそにぼんやりと人ごみを眺めていた。会話に入りようがない。でもふと見せる二人の笑顔がその寂しさを和らげる様でもあった。
通り過ぎる人たちも、またこういう風に嬉しかったり寂しかったりするのだろうか。大人も泣いたりするのだろうか。無表情で携帯の画面ばかりみているけど、自分と同じ様にものを見て感じて、それぞれの人生を生きてるんだよな。
いくつもの人生の内容を知ることなく、お互いにすれ違っていく、何人も、何人も。
そう考えると、目の前の二人に出会えたことは本当に偶然なのだと思う。たまたま何を血迷ったのか小説を書いて、それを猫実さんに見せて、夜桜先輩にも見せて、そして二人とも優しくしてくれて……。
ありがたいと思うと同時にゾッとする。驚くほど頼り切ってしまっている。もしこの人たちと出会えてなかったらなんて想像がつかない。
「どうしたの」
突然意識に声が登ってきた。夜桜先輩だろう。
「はっ、はい!」急いで返事をする。
「すっごい顔してたよ。」目の前に夜桜先輩の微笑みがある。ビシッと長い指で眉間を突かれる。「この世の終わりみたいな顔。」
それを聞いた猫実さんが笑う。しまったと思い恥ずかしくなる。顔に出てたか。
「別になんでもないです。」
急いで取り繕うために作り笑いを浮かべる。
「ふーん」と夜桜先輩が急に真剣な顔になって顎に手を当てる。ぞくっと背筋が凍る。妖しい雰囲気が突然立ち上る。嘘をついたのが見透かされた様に感じた。
「じゃあ、いいか。行こう、ネコ。」
「はいっ!」呼びかけられた猫実さんは嬉しそうに返事をする。
先輩とのやりとりが、チクリと心に小さい傷を作る。どう言うのが正解だったかわからない。づくづくコミュニケーションが苦手だと感じる。もしかしたらもう、いつくも作ってきた傷で、血まみれになっているかもしれない。
『助けてって言えないのは不幸じゃないですか』
猫実さんの言葉を思い出した。
なら今言えないのは何故だ。今まで言えなかったのは何故だ。信用しきれていないからか?迷惑をかけたくないから?嫌われたくないから?
二人は並んで改札を通り過ぎて行く。急いで巧もついて行く。
夜桜先輩はこちらの方をもう気にせずに猫実さんと談笑してる。何を話してるんだろう。目の前にいるのに聞こえない。猫実さんと目があって、笑いかけられる。2回目の作り笑いを返す。
作り笑いは上手くなった。相手がなんと言っているかわからないときは作り笑いだ取り繕うようになった。いつの間にか癖になっていた。その方が楽だし、お互いにきずつかないで済む。
このままでいいのだろうか。
手をぐっと握りしめる。丁寧に、勇気を出す準備をする。
こんなことで心臓が激しく動き出す。疲れるなあ。でも、やるんだろ。
「あの」
この二人なら、分かってもらう努力をしてみようと思った。
か細い声が出た。自分がこの声で話しかけられたら絶対聞こえない。
それでも二人はさっと話をやめてこちらに注目してくる。
「えー、とさっきのあの顔の話なんですけど……。」
沈黙。うまく話せない。そしてこのタイミングでホームに電車が入り込んでくる。乗ることに集中するために一旦会話が止まる。
人の列に続いて、車両に乗り込む。席には座らずに向かい合って立つ。二人が黙っているのは自分の次の言葉を待っているからだろう。息を吸ってから、言った。
「あの時、こう、すごい偶然だなあって思ってたんです。」
無理矢理でも不器用でも立て直すしかない。こうする以外に何ができる。どうやって気持ちを伝えたらいい。
つり革につかまったまま猫実さんと夜桜先輩は動きを止めて話を聞こうとしてくれる。
「偶然書いた小説で、猫実さんたちに会えて、良かったと思って、それと同時に怖いな、と思ったんです。」
俯いてしまう。まだ新しい革靴が黒く光る。
「会えて嬉しいけど、怖いんです。偶然に助けられた自分が嫌で申し訳ない」
だからなんだと言うんだろう。申し訳ないなら謝りたい誰かがいるはずなんだが。それはわからないまま、電車が走る。地下鉄のトンネルの壁にかかった蛍光灯が何本も何本も流れて行く。
「だから、この偶然を手放したくないです。」
言った途端にじわじわと恥ずかしさが頰をジリジリと焼き始めた。
一周回って正直過ぎたかもしれない。お互い言わずにいるより、ずっといい、はずなんだけど、やっぱりなんてこと言ってるんだ俺は。
「なーんだ」
急に夜桜先輩がにっこりと笑う。それだけで心が安らぐ。さっきまでの緊張が、全て報われるような気がする。
「そんなこと考えてたんだねえ。偶然、か」夜桜先輩が猫実さんの頭を撫でる。
「意外と、ロマンチストなんですね、巧さん」面白そうに猫実さんが笑う。
それにつられて笑った。作り笑いじゃない笑い方を思い出した。会話が転がり出す。
電車が止まり、人がたくさん入ってくる。とっさに二人と体が触れ合わないように距離を取る。人の波に無理やり空いてないドア側に押し込まれる。
息を潜めて、暖かかった気持ちが冷めていく余韻を確かめてみる。
案外、踏み出してみると、助けてくれるんだよなあと思う。周りの人を信用してなかったのが悔やまれる。障害ならもっと助けてって言っていいのかもしれない。
「偶然、だねえ」
落ち着きかけたところに夜桜先輩の声が横槍を入れてきた。いや、ちょっと待って後ろにいるんですか。




