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敗者

 黙って職員室まで歩く。暗い廊下に非常口を示すライトだけが光る。不思議と不安はなかった。ただ、覚悟は必要だった。これから起こることを、わかっていた。それでも、やらなければいけないことだろう。

 これからの自分のために必要なことだ。かつてないほど澄み切った心で全てを感じてみようと思う。

 何度目かの職員室。これ以上、来るのは失礼に当たるだろう。これを逃したら、もう機会はない。

 後先考えるより先に手が動いた。ドアに手をかける。とたんに、視線が集まる気配がする。

「失礼します。浅野巧あさのたくみです。麻生先生に用があってまいりました。」

 猫実さんも後から入って来る。金子先生も夜桜先輩も。

「何しにきたんだ」

 急に怒号が飛んできた。隣にいる猫実さんが肩をすくめる。下校時間を過ぎて、学校に残る先生も少ない職員室。その空気が一瞬にして、張り詰める。

 整然と机が並んだ奥から麻生先生が早歩きで、こちらに近づいて来る。怒っている。

「あの」

「何しにきたんだって言ってるだろ」

 言おうとしたのと同時に、言われる。会話が噛み合わない。

 背の高い先生のメガネの奥の目がギラギラと光っている。顔は怒りを隠す様子もない。

 大人の迫力に息がつまる。恐怖で目に涙がたまる。頭の奥と目が熱くてジンジンする。

 声がでない。

「聞こえねえよ」麻生先生が、怒鳴る。

 猫実さんに怖い思いをさせてしまったことで心がひどく痛む。

 こんな風に、堂々と聞き返せたら。今まで悩むことなんてないだろうな。悩んできた時間はなんだったんだろうなと思う。

 悔しい。悔しくて、涙が出る。涙が出ることさえ悔しくて、また、溢れる。

「泣いてんじゃねえよ。泣けば許してもらえると思ってんのか。高校生にもなって情けなくないのか。浅野。、、、猫実。」

 名前が呼ばれる。他の先生にも自分たちの名前を知らしめるように麻生先生が言った。

「いいか、お前らは人にものを頼んでおいてほっぽり出すという最低のことをした。わかってんのか」

「はい」息を詰まらせながら、言った。

 もうすっかり、慣れてしまった怒声は、うざったく耳にまとわりつく。皮肉なほどよく聞こえる。

 吐き捨てるように麻生先生が早口に、何かを言った。聞こえなかったが、軽蔑と憎悪で包まれた音だ。拒否だろう。「部費はあげられない」といった内容だろう。

 猫実さんが声を抑えきれずに泣いた。その声だけが職員室に悲しく残る。他の先生も黙々と別の作業に集中して、こちらの方に関わりたくないという気持ちが見て取れる。

 わかってしまった。これは何かのショーだ。物分かりの悪い生徒に厳しさを教え込むための。ただ、それだけのための言葉だ。上っ面だけの怒りだ。それだけのために、自分たちは泣いているんだ。麻生先生は怒ることしかしない。わかろうとしない。ただ、ショーの役者として、全力で否定して来る。

 身が搾られるほどの悔しさが、湧いて来る。まるで尽きることのないかのように。

 涙を学ランの袖で拭って、喉を鳴らす。かえって顔が濡れてしまったように感じる。

「待ってください。」

 泣き声を背中に聞きながら、叫んだ。

「部費はいらないです。ただ、耳の悪いことだけは、知ってほしいです。見てください。」

「ああ?」思いっきり不快な顔をされる。

 腹立ちを抑えてバッグから、原稿用紙を取り出す。

「主人公が難聴の小説です。難聴だから書けたんです。だから、読んでくれればわかると思います。」

 麻生先生に差し出す。するとものの見事に無視される。

「お前、話聞いてたのか」

 殺意何た感情が突き刺される。内臓をえぐる様に体内で暴れ出す。

 その「話」が聞こえなかったんだよ。

「読まねえよ」

 聞き逃した言葉は忙しいと言ってたのかなとここで気づいた。ただ感想を述べただけの乱雑な言葉が、目の前にある。無理やり掴んで、どうにか会話を繋ごうと必死で考えた。

「でも、お願いします。」

 するりと、手から原稿用紙が奪われる。麻生先生がチラリとそれを見て、

「汚くて読めない」

 赤ペンで添削したからだろう。色々メモしたりした。少しでも、良くしたかったから。

「ほら」

 ポイとこちらの方に紙束が投げられる。胸に当たって道端に捨てられたタコのように広がる。やりきれない気持ちになった。殺意に近い自分でも驚くような感情がよぎる。消えない線となって、黒く感情を切り裂く。

 金子先生が後ろでなんか言った、それと足音が聞こえる。そしてドアを開けて、職員室から出ていく音がした。夜桜先輩が何かしたのかもしれない。

『書くことぐらいしかできないんです』

 前に自分が言った言葉か。あの時の自分がたまらなく愛おしい。

 黙って拾い上げる。土がついて汚れた猫実さんの上履きが見えた。女の子らしい丸まった文字が、場違いに見えた。

 黙って耐える。今までだってそうしてきた。

 外からは見えない障害だから、自分が黙って耐えればいい。だから慣れた。

 積み上げてきたものが簡単に崩れる感触を知っている。

 いくら耳を澄ましても聞き取れない時がある。聞き取れたとしても、分かり合える保証はない。人とわかり合うことについての残酷なほどの難しさを知っている。

「大人を、振り回すんじゃねえよ。もう二度とお前らの部活に金は出さない。わかったか。」

 抵抗してこないから、余裕をこいているのだろう。バカにされているように聞こえた。

「はい」これ以外の答えはあるのか。

「わかったなら出て行け。」しっしっと追い払う仕草をされる。その度に、全ての暗い感情が混ぜかえされるような気がした。

「帰ろう猫実さん」

「はい」

 そう言って背をを向ける。

「しらねえぞないしん」

 背中に声をかけられる。「知らないぞ、内申。」か。頭の中で反芻はんすうしてやっと理解する。どうでもいいと思った。

 職員室から出ていくときに

「失礼しました」と言った。

 その言葉に反応するものはいなかった。

 生暖かい空気が体を包んだ。猫実さんがわずかに遅れて職員室から出た。目の前の廊下に金子先生と夜桜先輩が待っていた。わずかに照らされた先輩の顔はいつもの穏やかな笑みはなかった。

 でも、安心した。心が優しく溶かされていくように感じた。二人とも何も聞かずに黙っていた。

 長い長い沈黙の後で、暗闇を切り裂くように猫実さんが「どうして」と問いかけた。

 ただ、「どうして」と。

 その場にいたすべての人たちの心の中を代弁するように、呟いた。

「どうして、ダメだったんでしょうか。どこで間違えたんでしょうか。私たちは。何が、足りないんでしょうか。これ以上何をすればいいんでしょうか。」

 夜桜先輩が歩み寄ってきて、肩に手が乗せられる。もう一方の手は猫実さんの肩だ。必然的に猫実さんと肩を寄せ合う格好になる。優しく、柔らかい手のひらの重みが伝わってくる。

「悔しいよね。」

 先輩の、顔を見上げる。ぞっとするほどに美しく、微笑む。全てを包み込むほどの魔力があった。ただそれは彼女の中の優しさによってのみ制御されている。だからこそ、美しいのだろう。

 甘い甘い薬を飲んでいる気分だ。飲みすぎてはいけないのは分かってるけど、甘くて。ただこれを飲めば大丈夫だって言う安心感が、かすかな罪悪感とともに強く確かにやってくる。

 ぐっと肩に乗せられた手に力がこもった。

「私も、少しはわかるよ。」

 ゆったりと響かせる様に夜桜先輩が言う。そして

「でも、それはきっと闘ったからじゃないか」

 手に持った原稿用紙を落とさない様に握りしめた。紙に跡が付くほど、強く。

 腕がそっと降ろされる。

「乗り越えようとする限り、何回だって失敗したっていい。」

 照れる様に先輩が笑う。さっきのことを皮肉る様に先輩が笑う。

「帰ろうか」

 先輩が金子先生の方を見る。

 こんなとき、矛盾している様だけど、耳が悪くて良かったと思う。分かってくれる人が一人いればそれでいいと思ってしまう。

 自分でもわからない気持ちがある。言葉にしようとすると、するりとと逃げられる何か。

 それでも捉えようとする。それは何故だ。悔しいのは、嬉しいのはどうしてなのだろう。言葉にしたいのは、何故なんだろう。

 きっといつまでも、追い続ける。

「ああ、浅野」

 金子先生が、今までの空気を中和する様に何気なく言った。

「その小説、私が読んでみていい?」


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