「助けて下さい」
「お邪魔します」
金子先生の車に乗り込む。助手席に見慣れた人影がある。
「よっ」
この低いアルトの声、そしてチラリと目に入る黒髪、
「夜桜先輩?」
「ああ、話は後で」軽く受け流される。
こちらに目をくれずに先輩は車の外を眺めたままだ。
金子先生が滑らかに車を動かし始める。
車の中からだと、見慣れた景色が、全く違って見えた。
「巧さん、シートベルトちゃんとしましたか?」
ポニーテールを結びなおしながら猫実さんが確認してきた。
「あっ、すいません。今すぐします」
腰の辺りを探る。
「しないと危ないですよ。」
猫実さんの声を聞きながらシートベルトをつける。
今までの苦労を嘲笑うように車が学校への道を高速で、遡って行く。夜の街を彩る様々な光が、心を軽くする。猫実さんの方を見ると彼女も窓からの景色に夢中になっていた。
夜桜先輩は腕を組んで何か考えているみたいだった。それにしてもどうして、先輩は金子先生と一緒にいたんだろう。より一層ミステリアスな存在になった。
「問題は、読んでくれるかだね」
顔は見えないが、運転席の金子先生が話しかけて来る。
「そうですよね。長いですからこれ」
確かに考えてみれば、原稿用紙200枚以上の束を無理やり読まされるのは苦痛だろう。それに素人が書いた欠陥品である。麻生先生がこれを見た時の反応が、想像できない。むしろ読んでくれない可能性の方が高い。
沈黙が、車内に流れる。教師と生徒という距離をどうしても意識してしまう。
流れ行く夜景を見て考えた。
この小説を書いたのはどうしてなのか。そして、猫実さんがここまでして引き止めてくれた理由。自分の耳の障害のこと。
「あの、猫実さん。」
ポツリと、体から漏れ出るような言葉。
「なんですか」と猫実さん。
復活したポニーテールがこちらを振り向くとともに揺れる。
「部費は、諦めてもいいかな」
彼女は何も答えない。前に座る二人もただ聞いているみたいだった。
「よく考えたら、原作の本は自分で買うべきだと思ったんだ」
「それはどうして」
神妙さが伝わって来る。緊張感と時間の密度、言葉の重みが突然にして増す。
「部費で買うと、耳の悪い自分を否定するみたいに感じるからです。」
猫実さんの黒目に光が入っては消えていく。
「ただ、」
言いたいことを言う。
「耳が悪いってことは、麻生先生にわかってもらいたいんです。」
ゆっくりと猫実さんが頷く。車が停まる。学校に着いたみたいだ。それでも、金子先生は急かすことなく、待っていてくれる。さりげない優しさが心に染みる。
「だから、それを手伝ってくれますか。」
この言葉を、言うためにどれだけの時間がかかっただろう。どれだけ、すれ違いがあっただろう。そどれだけ傷ついてきたのだろう。どれだけ傷つけてきただろう。
外からは、見えないから。言うしかない。ただそれだけの話で。
「一人では乗り越えられない、と思ったんです。誰かに乗り越えてきてもらわないといけない。理解してもらわないといけないんです。この『障害』は。」
狭い車の中で自分の声だけが響く。
吸い込まれるように、猫実さんの目を見る。こんなにも精巧で澄み切ったものを誰が作ったのだろう。
「でも、猫実さんは乗り越えてきてくれた。だから、助けて下さい。ちゃんと受け止めますから。」
何故か目が痒くなった。急いでこすった。
しばらくして、「いいですよ。」と答えが返ってきた。
「ありがとう、ございます。」
こんな時、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「行こうか。夜桜は車で待ってるか?」
金子先生がさすがとも言えるよく通る声で言った。
「いや…私も行きます。」
少し笑っているように聞こえた。
ぞろぞろと、車から4人で降りて、校舎の中に歩いて行く。ただ職員室の明かりだけが未だについている。
暖かくなり始めた風。
原稿用紙の一ページ目をめくる。
読んでもらえるかわからないけど、もう一回話してみよう。最初から。




