第27話 崩壊
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
どれくらいの沈黙を置いただろうか。悠久の時が過ぎたとも感じられたし、一秒と経っていないようにも思えた。どちらにせよ、本当に信じられない光景を目の当たりにしたら人間は何も考えられなくなるということだけは確実に実感できた。
気づいた時には仁王立ちしていた。炭となったはずの身体には血肉が通い黒鋼の四肢をはめている。そして側には横たわる白心がいた。たったそれだけ。たったそれだけの状況に置かれただけで照光の脳は真っ白に塗り潰されていた。
「う、つろ、い…………?」
ドサッ、と震わせていた天龍の脚の両膝を落とし、ようやく少女の名前を呼んだが案の定返事がない。
「な、……なあにこんなところで寝てんだよ。身体冷めちまうから早く布団に戻ろうぜ? ほら、さっさと起きろよ。起きないとその、ええっと、む、胸触っちゃうぞ? こうやってモミモミワキワキってな? ニシ、ニシシシシ」
未だに何かの冗談と思ってこちらも慣れないジョークを飛ばすがまったく反応がない。つまらなかったかな? などと頬を引きつらせながら笑顔で現実逃避してもその現実がステルス機並の速さでチェイスしてくる。
白心の顔を見るとそれは茹でダコのように真っ赤に上気していて、まるで『過剰に生きている』風に思えたが、頬に触れても引っ張っても餅みたいに伸びるばかりで一切の反応がない。
体を起こそうと恐る恐る手を取り背中に腕を回す。その手にはあるべき脈や体温がまったく感じられず、体重など木の葉ほども感じられない。雪のような美しさを湛えた白い髪のたなびきも今では氷柱のように硬く冷たく無色に感じた。
結論から言うとそれらは照光の勘違いだ。無機義体の手に感覚神経など通っているわけもなく、すなわち触診で白心から生命活動を読み取ることも圧覚で体重も感じることもできるわけがないのだ。しかし、逆を言えばそんな自身にまつわる常識を常識と認識できないほど今の照光の精神状態は摩耗していたということだ。
「嘘、だよな。なあ、嘘だよな? 起きてくれよ、笑ってくれよ、また頭突きしてくれよ。ほら、ここに笑顔があるぞ、空井だけの俺の笑顔があるぞ? ほーれニシシーニシシーニッシシッシシー! ……ようしじゃあ特別サービスだ、今起きたら一時間、いや一日中俺の笑顔を見せてやるよ。今だけだぜ? ほーれほーれ起っきろー起っきろーニッシシのシー!」
暖簾に腕押し。糠に釘。死客に道化師。つまり、今の照光は哀れ以外の何者でもなかった。
それに残念な話だが、照光の笑顔にはそれだけの価値はもうなかった。口の端は非対称に歪み、目と鼻からはしょっぱい水を無尽蔵に溢れさせ、喉の奥からは何度も嗚咽を覗かせる。顔にあるそれらを総括してできた構成物は、もはや嫌悪するものでしかない。
ぐちゃり、とその笑顔が潰れる。痺れていた脳が少しずつ正常に戻る。
「————…………嘘だ。……嘘だ。嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソウソウソウソウソウソウソうそうそうそうそうそうそうそう…………そ、だよ、なあ?」
気づけば視界が荒波の如く揺らいでいる。呼吸も自分のものと思えないほど早くなっている。
粘土のように顔を歪ませた照光の頭で走馬灯が回る。
白心の無表情。白心の激しい頭突き。白心の心の闇。白心の純粋さ。白心の裸体。白心の凄惨な過去。白心の涙。白心の匂い。白心の寝顔。
時間にして三日もない、世間では夏休みの一部でしかない、それでも照光には掛け替えのない記憶を、何百回何千回何万回と思い出しては噛み締める。こんな経験をできて幸せだったと思った。
同時に、なければ良かったとも思う。
もし、照光が白心に星空を見せようと考えなかったら。白心を笑わせようと考えなかったら。白心を助けようと思い立たなかったら。白心と出会うことがなければ。あの日に台風の目が通り過ぎなければ。最悪、照光がこの世に生まれなければ。
そんな仮定が一つでも満たされたら、こんな悲劇は起こらなかったはずだったから。
「あ、あが、おうお、うごえあ」
その口から胡乱な声を漏らし、溢れそうな吐き気を飲み込む。目から赤い鉄の涙を滴らせ、身体を旧式洗濯機のように震わせる。
連星、というものがある。照光が知識を詰め込もうと天体について手を出した時に知ったもので、お互いの重力の影響を受け合うことで一組の星となる天体のことだ。
きっと照光と白心はその連星だったのだ。お互いがお互いを引っ張り、お互いを支え合う運命共同体だったのだ。
だがその関係は、片方がもう片方に光を教えたことで崩れ始めた。
光を知って大きくなった星は運命を共にするはずの星を呑み込み、独りになった星は行き先を見失って暗黒の銀河を彷徨い続ける。それが離別した連星の末路である。
つまり。
照光の目の前は真っ暗だった。
光を教えた少女が自分の夢に呑み込まれたせいで、夢を見失うという本末転倒に陥ったから。
————死んでる。
照光はついに、白心の生命活動の停止をその頭で認めてしまった。
笑顔にさせたい少女が死んだ。他の誰でもない、自分のせいで。
きっかけはそれだけだった。それだけにしてそれ以外では起こり得なかった。
カキッ、と頭の中で何かが外れる音がした。小さくて軽く、しかし見逃してはならない音だった。
「そうか。…………そうか」
虚構と虚勢の笑みを消して、真っ平らな声で照光はつぶやく。おもむろに天龍の脚を起こしてその身体を立たせ、魔龍の腕をゆっくり握り込む。その一連の行動に一欠片の怒りも一雫の悲しみも一抹の憎しみもなく、むしろ白心の顔にあるような『完全な無』しかなかった。
たった一つ。新しく貼り替えた笑顔を除いて。
「死んじゃったかあ。……死んじゃったのかあ。……信じられないなあ」
ニゴオ"ォ"ォ"。
嬉しそうな、潰れたような、悲しそうな、楽しそうな、壊れたような、腹立たしそうな、取り繕ったような、つまらなそうな、削れたような、苦しそうな、焼き付けたような、哀れみそうな、剥げ落ちたような、悩ましそうな、憎らしそうな、死んだような。
子供の頃に誰しもが経験する、『きれいな色を作ろうとしていっぱい絵の具を混ぜたら黒色になった』ような笑顔であり、散り際に最も輝く星の断末魔のような笑顔だった。
偶然か、あるいは必然か、照光はそれを計に向けていたようで、それを挑発と取ったのか計が間を置かずに雷の槍を振りかぶった。
「死、……んに晒せえええええ!!」
計が叫んだ瞬間、照光は白心から離れるようにように前へと突っ込み、黒鋼の手を避雷針のように前へ前へと突き出した。
これ以上この娘を傷つけるな。そう言わんばかりに。
照光の手のひらから当たった雷の槍は瞬く間に全身を蝕み、耳を貫く雷鳴を轟かせる。体表からは身体中の血液を蒸発させたと思わせる赤黒い煙を噴き上げる。
それでも、そんな人が生きられる状況から外れても————照光は笑った。
馬鹿馬鹿しそうに。くだらなそうに。すべてをかなぐり捨てるように。




