7-4「巨大門」
森を抜けた瞬間、風の匂いが変わった。
土と草の匂いではない。
焦げた鉄のような、鼻の奥に残る嫌な匂い。
クレージュは思わず足を止めた。
「……なんだ、これ」
喉がひりつく。
空気を吸い込むだけで、胸の奥がざらついた。
隣でリシェルが口元を押さえる。
「魔力が……濁っています」
その声は小さい。
けれど、震えていた。
視線の先。
ヴィルサントルが見えた。
かつて人と物が行き交い、笑い声と馬車の音が絶えなかった中央都市。
その空の上に――
巨大な裂け目が開いていた。
「……でかすぎるにゃ」
アーニャの耳がぴくりと震える。
いつもの軽さが、少しだけ消えていた。
空の裂け目は、ただの穴ではなかった。
縁が脈打っている。
まるで生き物の傷口みたいに、灰色の光をにじませながら広がっている。
その下では、街道の石が割れ、草は黒く変色していた。
遠くで建物の窓が震える音がする。
カタカタ、カタカタと。
風もないのに。
「……間に合ってねぇじゃねぇか」
クレージュは奥歯を噛んだ。
舌の端に血の味が広がる。
エイドの声が頭に響く。
「まだ完全には開いていない」
「けど、放っておけば時間の問題だ」
その言葉に、クレージュは剣の柄を握り直した。
掌が汗で湿っている。
情けないくらい、心臓がうるさい。
けれど足は引かなかった。
「じゃあ、止めるだけだ」
そう言った直後。
地面が、低く鳴った。
ゴ……ン……
腹の底を叩かれるような振動。
全員が身構える。
裂け目の下。
灰色の光が集まり始める。
アルシェリアが一歩前に出た。
「来る」
次の瞬間。
バチィンッ!!
耳の奥が痛くなるような音と共に、空間が裂けた。
そこから落ちてきたのは、灰色兵器。
ただし、今までのものとは違う。
細い。
人型に近い。
だが腕が異様に長く、指先が刃のように尖っていた。
一体ではない。
二体、三体、五体。
地面に降り立つたび、石畳が砕ける。
「迎撃準備!」
フランソワーズの声が飛ぶ。
騎士たちが盾を構えた。
だが、その音に混じって、小さな息を呑む音がいくつも聞こえた。
怖いのだ。
当然だ。
クレージュだって怖い。
足の裏が冷えている。
なのに、背中だけは汗で濡れていた。
「クレージュ」
リシェルが呼ぶ。
彼女の顔は青い。
それでも、目だけは逸らしていなかった。
「私は、大丈夫です」
クレージュは一瞬だけ笑った。
「それ、俺が言う台詞じゃないですか」
リシェルも、ほんの少しだけ笑う。
その小さな笑みで、少しだけ呼吸が戻った。
「三点干渉、いくぞ」
「はい」
「合わせる」
三人が並ぶ。
裂け目から吹き下ろす灰色の風が、髪を乱す。
クレージュは息を吸った。
焦げた匂いが肺に入る。
気持ち悪い。
でも、目は逸らさない。
ドクンッ。
リシェルの光が背中に触れる。
温かい。
アルシェリアの力が足元を固める。
冷たい。
その二つを、クレージュは無理に押さえ込まなかった。
流す。
ぶつけるんじゃない。
通す。
「……来た」
剣が軽くなる。
視界の端で、灰色兵器が動いた。
速い。
いや、速いと感じる前に、もう騎士の盾へ腕を振り下ろしていた。
「下がれ!」
クレージュは地面を蹴った。
足の裏に割れた石の感触。
膝に響く痛み。
それでも踏み込む。
ギィィンッ!!
剣と刃の指がぶつかる。
腕が痺れた。
骨まで響く。
「っ……!」
押される。
だが、今度は流れを逃がした。
真正面から受けない。
刃を滑らせ、半歩横へ。
灰色兵器の体勢が崩れる。
「そこ!」
リシェルの光が走る。
アルシェリアの固定が入る。
クレージュは剣を振り抜いた。
ズガァンッ!!
灰色兵器の胴が裂ける。
だが、崩れ落ちる前に、背後から二体目が来た。
「休ませる気なしかよ!」
クレージュは舌打ちする。
その時、横からアーニャが飛び込んだ。
「あるわけないにゃ!」
鋭い蹴りが、敵の膝を砕く。
灰色兵器が傾いた瞬間、フランソワーズの剣が首元を断った。
「軽口を叩く余裕があるなら動け!」
「動いてるにゃ!」
「もっとだ!」
「鬼にゃ!」
一瞬だけ、空気が緩む。
だが、それもすぐに消えた。
裂け目が、また脈打ったからだ。
ドクン。
空が鳴る。
見上げたクレージュの喉が、勝手に動いた。
裂け目の奥で、何かがこちらを見ている。
巨大な影。
形はない。
けれど、視線だけは分かる。
肌が粟立った。
リシェルが小さく呟く。
「……見られています」
クレージュは剣を握り直した。
掌の皮が痛い。
「見物料、取ってやりたいですね」
リシェルが驚いたようにこちらを見る。
そして、少しだけ息を漏らした。
「こんな時に」
「こんな時だからですよ」
怖さは消えない。
けれど、飲まれるよりはましだった。
その時、エイドの声が鋭く響いた。
「門の核が見えた」
クレージュの表情が変わる。
「どこだ」
「裂け目の真下。都市外壁の上空。灰色の光が一番濃い場所だ」
視線を向ける。
確かに、そこだけ光の流れが渦を巻いている。
心臓みたいに、規則的に脈打っていた。
「あれを壊せば?」
「完全接続は止まる」
「なら決まりだ」
クレージュが一歩前に出る。
しかし、フレイが腕を掴んだ。
「待て」
その声は低かった。
「今のお前、顔色が悪い」
クレージュは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
実際、足が重い。
三点干渉の反動がもう来ている。
肩で息をしているのも、自分で分かっていた。
「でも、行かないと」
「分かってる」
フレイは手を離す。
その代わり、クレージュの胸を軽く拳で叩いた。
「倒れるなら、壊してから倒れろ」
クレージュは今度こそ笑った。
「雑ですね」
「親ってのは雑なんだよ」
リシェルが前に出る。
「私も行きます」
フランソワーズが即座に言う。
「姫様」
「止めないでください」
リシェルの声は静かだった。
だが、その静けさの中に、折れない芯があった。
「私は鍵です」
「だからこそ、行かなければなりません」
フランソワーズは唇を噛む。
ほんの一瞬だけ、迷った。
護衛としては止めたい。
でも、仲間としては分かっている。
やがて彼女は剣を抜いた。
「では、道を開きます」
アルシェリアも頷く。
「私も行く」
クレージュは三人を見た。
怖い。
本当に怖い。
でも、一人じゃない。
それだけで、足は前に出る。
「行くぞ」
裂け目の下へ。
灰色の光が降り注ぐ中、クレージュたちは走り出した。
背後で連合軍が動く。
矢が飛び、魔法が弾け、剣戟の音が重なる。
誰かの叫び。
誰かの息遣い。
金属のこすれる音。
焦げた匂い。
血の匂い。
その全部を背負って、クレージュは前へ進んだ。
門核まで、あと少し。
だがその時。
裂け目の奥から、声が落ちてきた。
「――確認」
空気が凍る。
クレージュの足が止まりかける。
「媒介」
「光」
「欠片」
灰色の光が集まる。
門核の前に、人影が現れた。
グラディオ。
いや。
以前の彼とは違う。
体の半分が灰色の装甲に覆われ、目の奥に異質な光が宿っている。
彼は静かに笑った。
「来たか」
クレージュは剣を構える。
腕が震えている。
疲労か、恐怖か。
たぶん両方だ。
それでも、剣先は下げない。
「邪魔しに来た」
グラディオは楽しそうに目を細める。
「ならば、越えてみろ」
門が脈打つ。
空が裂ける。
地面が震える。
ヴィルサントルの前で――
決戦が始まる。
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次回もお楽しみに。
次回
第七章・第5話
門前決戦




