イルナ6 レットの実家
イルナはほぅ、とため息を吐いて、レットの家を見る。
ずっと村で育ってきたイルナはザックのような大きな街を見るのは初めてで感動したけれど、タルーナはザックよりも更に大きな街だった。
ごちゃごちゃとした印象のあるザックと比べ、タルーナの建物は通りに沿って規則正しく並んでいる。
そんなタルーナの中でもひときわ大きな建物が多く建っている場所に、レットの屋敷はあった。
二階建ての邸宅は高さこそそれほどではないけれどどしりと横に長く、その手前の、通りに面している大きな門と邸宅の間には手入れのされた芝生が青々と広がり、噴水まである。
ティルシャの瞳を通して見える様々な物に、イルナは目を奪われる。
「さすがに表から入ると目立つから、裏に回るよ」
レットは自然な動きでぐるりと敷地を囲む柵沿いに進んでいる。これがまたすごく広い。どこまで続いているのか、とちょっと呆れ気味でいると、レットが引け目を感じているのか、ぼそりと謝る。
「ちょっと遠くてごめん。母さんの父親――俺の祖父がオラシュエル伯爵なんだ。その関係でこの別邸を譲り受けたらしいんだけど……」
「伯爵……別邸……」
突然出て来た言葉にイルナは戸惑う。
ずっと村で過ごしてきたイルナには、王室とか貴族の仕組みなどはよくわからない。複雑なそれを知りたいとも思わなかった。
レットのことは暢気な商家の息子くらいに考えていたし、その家にお邪魔するのも、ちょっと緊張するなくらいに考えていた。
けれどこれから行く先が貴族の家だとなると、途端にイルナはどうすればよいのかわからなくなる。
礼儀作法なんて全く知らない。
これから助けを求めなければならない立場にあるのに、無作法だと相手を不快にさせてしまうかもしれない。
不意に、レットを誑かしたと罵られるんじゃないか。レットと引き剥がされて追い出されるんじゃないか、という不安が湧き上がる。
「俺たちは一般人だから、平気だよ。母さんは父さんに嫁いだわけだし。家がでかいだけだからさ」
レットが言い訳をするように話すけれど、その言葉はイルナの心をすり抜けてゆく。
自分の想像がどんどん現実に起こりうるものに感じられてくる。
だって、真実なのだ。
なにも知らずにやってきたレットを、イルナは利用した。
自分が村を出てゆけば大変なことになることはわかっていたのに、レットを丸め込んで、村から出るのを手伝わせた。そうして、イルナはここまで来たのだ。
村の中で一生を終えるのは嫌だった。
麓に広がる街、遠くに見える風海を、間近で見たかった。完全に視力を失う前に、沢山の物を。
でも、もう充分かもしれない。
趣の違う街や、道中見かけた村々、立派な大鐘楼に、風海。村を出てから多くの物を見ることができた。
これ以上は、もう、必要ない。
レットはニイエル公国へ渡るという。
自分は、レットと別れて村へ戻ろうと心に決める。
そしてどんな手段を使っても、レットを守るのだ。全ては自分の責任であって、レットは悪くないのだから。
ホークを見つけることはできなかったけれど、そもそも恩返しは自己満足でしかない。
ホークにしてみれば、弟のレットをこんな大変な目に合わせてまで恩を返してほしいとは思っていないかもしれない。むしろ、その可能性の方が高い。
イルナは、ただ自分のためだけに、レットを利用したのだ。
チチッ、とティルシャが鳴く。
肩が重く感じるのは、ティルシャが大きくなったからだ。
一緒に村に戻ろうか、と心の中でティルシャに話しかける。ティルシャは首を傾げたけれど、やがてわかったというようにチチチッと鳴いた。
「レット」
「なに?」
レットがきょとんとした顔でイルナを見る。
「わたし、やっぱり……」
村へ帰るわ、と続けようとしたけれど、突然割り込んできた声にその機会を奪われる。
「まあまあまあまあ、レットじゃないの、おかえりなさい。なんだか出かける前と違うような気がするけれど……もしかして大きくなった? あら? あらあらあら? まあ、こんなきれいなお嬢さんとこんなに可愛い白豆栗鼠を連れて帰って来るなんて! ようこそいらっしゃいました。わたしはレットの母でローリアと申します。よろしくね、えーと……」
「イルナ、です。こっちはティルシャ」
「イルナさん、可愛らしいお名前ね。もちろん、ティルシャも。さ、ちょっと散らかっているけれど、中へどうぞ。お茶を淹れますわね」
怒涛のようにしゃべる続けるその声の主は、淡い亜麻色の髪を上品に結い上げた、背の高いきれいな女性だった。
新緑色の瞳が、レットによく似ている。
「か、母さん!」
「なあに? ちょうどお庭にハーブを採りに来たところだったのよ」
うふふ、とハーブの入った籠を持ち上げて見せながらイルナたちに笑顔を向けるレットの母は、とても成人した息子がいるとは思えないほど若く見える。
「ちょっと声を抑えて。俺たち、ちょっと今大変なことになってて……」
「あらあら、みんな大変なのね。お父さまもお忙しそうにしてらっしゃるわよ。なんでも、今日中にニイエル公国へ行かなきゃいけないとかで」
「ニイエルへ!?」
「そうよ。あ、エリオット、馬を頼めるかしら?」
「ちょっと母さん!」
「話はあとでね」
ローリアが通りかかった使用人に、レットが引いていた馬を預け、裏庭に面して大きく開かれているテラスからさっさと屋敷の中へ入ってゆく。
「ごめん、うちの母さん、人の話をあまり聞かないんだ」
「ううん。とっても素敵なお母さまね」
「そうかなぁ」
素直に同意しかねる、という風にレットが首を捻る。
けれどイルナにはよくわかった。きっと、とても明るくて楽しい家庭なんだろうということが。
「そうだよ」
イルナは大きくうなずいた。




