第5話「隣の席の君と、もどかしい天使」(第2エピソード)
天界・ラブリーカンパニー本部ビル地下通路。
「ゴシゴシ……キュッキュッ……うぅ、かなぴーのだ……」
ゴム手袋をはめたのえるは、純白のデッキブラシを両手で握り、男子トイレのタイルの目地をひたすら擦り続けていた。
先のミッションで調子に乗って時間遡行なんていう大技をぶっ放したツケだ。神力残量は底をつき、有給休暇はペナルティで全剥奪。朝から晩まで、便器の裏側の黄ばみと睨み合う日々である。
カツ、カツ、カツ――。
静まり返った地下通路の奥から、無機質で気品あるヒールの音が近づいてくる。
「……随分と熱心に励んでいるようですわね、のえるさん」
見上げれば、バインダーを小脇に挟んだ愛結課係長・ちえるが、氷のように冷たい視線で見下ろしていた。相変わらず透き通るような白磁の美貌だが、銀縁眼鏡の奥の眼光はナイフより鋭い。
「ち、ちえる係長ぉ……! トイレ、顔が映るくらいピカピカにしたのだ! そろそろ現場復帰の許可を……!」
「ええ、そのつもりで来ました。……次のターゲットの案件書です」
ちえるは冷ややかに、角の揃った書類の束を差し出した。
「対象は県立高校の二年、真壁裕太と、式部詩織。……言っておきますけれど、今回は混じり気なしの純愛案件です。前みたいな悪夢のような大惨事は絶対に起こさないこと。また私の査定に傷をつけたら、次は天界ハーブ園で朝から晩まで土起こしの刑ですからね」
「りょ、了解なのだ! 今度こそ、愛のキューピッドのえるんの真骨頂を見せてやるのだーっ!」
◇◆◇
人間界・県立高校二年二組の教室。
春の柔らかな日差しが差し込む窓際、一番後ろの席。
そこには、周囲の笑い声や机を引く音からぽつんと切り離されたように、一人の少女が座っていた。
式部詩織。
光を吸い込むような黒髪に、どこか透き通って消えてしまいそうな白い肌。休み時間になっても誰の輪にも入らず、膝の上で静かに文庫本を広げている。
親の転勤の都合で、物心ついた頃から引っ越しばかりを繰り返してきた。せっかく友達を作っても、数ヶ月もすれば引き裂かれて、泣きながらお別れの手紙を書くことになる。それなら、最初から誰とも仲良くならない方がずっと楽だ――そうやって、自分の周りに目に見えない壁を作っていた。
だが。
「……あ、あのさ。式部さん」
隣の席の真壁裕太が、おずおずと声をかけてきた。
部活焼けした肌に、飾り気のない素朴な顔立ちの少年。だが彼は、詩織がどれだけそっけない態度をとっても、毎朝欠かさず声をかけてくれていた。
「これ、今日の古典のプリント。配られたやつ……はい」
「……あ。ありがとう、真壁くん」
詩織が本から顔を上げ、プリントを受け取る。
その瞬間――ふわりと、春風が吹き抜けたみたいに柔らかな笑みが、彼女の唇にこぼれた。
(……っっ!!)
裕太の喉が、引きつるように鳴る。
他の誰にも見せない、自分の前にいる時だけふっと緩むその表情。胸の奥がじんわりと熱くなり、裕太の頭の中は「好きだ、頼むから今すぐ抱きしめさせてくれ!」という衝動で沸騰寸前になっていた。
けれど、指先がそれ以上前に出ない。
(ダメだ……ここでガツガツ行って、引かれたらどうする。せっかく隣の席で、普通に話せるようになったのに……ここで嫌われたら、俺、立ち直れない……!)
プリントの端を握る互いの指先。
その距離、わずか数ミリ。
触れそうで、触れない。
お互いに耳の先まで真っ赤に染め上げ、弾かれたようにサッと手を引っ込めると、二人して窓の外や天井へ視線を泳がせる――。
教室の天井裏・換気口の隙間。
「あ〜〜〜〜〜〜〜っっっ!! もどかしいのだーーーっ!!」
換気口の金網に鼻先を押し付け、のえるは地団駄を踏んでいた。
「なんでそこで手を引っ込めるのだ!? あと三ミリ! たった三ミリで『あ、手が触れちゃった……ポッ♡』ってなるやつだったのにー! 真壁くんのヘタレ! チキン! ボクならガバッと手を握ってそのまますりすりしちゃうのだーっ!」
おませでベタ甘なスキンシップが大好物ののえるは、悶絶のあまり換気ダクトの内側をドカドカと蹴飛ばした。
「でも、これはもう脈ありどころの話じゃないのだ。式部さんの頭の上から、どぎついピンク色のオーラが噴水みたいに吹き出してるのだ! 両想い確定! 勝利確定! これならボクが余計な手出しをしなくても、放っとくだけでサクッとくっついてミッション完了なのだ〜!」
ほくほく顔で任務完了の絵図を描くのえる。
しかし、のえるは知らなかった。
詩織が胸の奥に押し込めている、「またすぐいなくなる」という重い諦めを。
◇◆◇
そして――。
昨日の夕方、近所のスーパーの特売売り場で、裕太を連れた真壁の母と、詩織を連れた式部の母が「まあ! いつも息子が(娘が)お世話になってます〜!」「うちの裕太、家で詩織さんの話ばっかりで!」「ぜひ今度、うちでお茶でもいかがです!?」と猛烈な勢いで意気投合し、当人たちの知らないところで外堀どころか本丸の天守閣まで完全包囲されているという事実を。
子どもたちだけが悲恋のドラマに浸り、親世代がお見合いを着々と成立させかけているなど、この時のポンコツ天使には思いもよらないことだった。
(第5話「隣の席の君と、もどかしい天使」おわり / 第6話へ続く)




