第6話「縮まる距離、突然のタイムリミット」
式部家・詩織の部屋。
放課後の突然の雨で一つの傘に入って帰ったり、図書室のカウンター越しに本を薦め合ったりするうちに、二人の距離は嘘のように縮まっていた。
そして今日――ついに真壁裕太は、詩織の自宅の部屋へと足を踏み入れていた。
「……あ、あの、狭くてごめんなさい。今、お茶淹れてくるね」
「う、ううん! 全然! お邪魔してます……!」
ぺこりと頭を下げて部屋を出ていく詩織の背中を見送り、裕太はその場にへたり込みそうだった。心臓が肋骨の内側をドカドカと乱打している。
白で統一された、清潔感のある部屋。鼻をかすめるのは、教室で隣にいる時と同じ、詩織の甘いシャンプーの匂いだ。
ベッドの端っこに浅く腰掛けた裕太は、膝の上に置いた拳を白くなるほど握りしめ、背筋を硬直させていた。
(し、式部さんの部屋……! 女子の部屋……ベッド……! 落ち着け、変な呼吸するな俺、理性を保て……!)
一方、階段を下りた先のリビング。
電気ケトルに水を注ぐ詩織もまた、火が出そうに熱い両頬を冷たい手のひらでぎゅっと押さえていた。
これまで、友達一人すら家に招いたことのない自分が、好きな男の子を部屋に上げている。
(私……本当にどうしちゃったんだろう。真壁くんのことが、こんなに好きで……このまま、ずっと隣にいられたらいいのに……)
じんわりと胸を温める確かな幸せ。
だが、その平穏を引き裂く現実は、あまりにも唐突に耳へ飛び込んできた。
カーテンの裏・待機中ののえる。
「むふふ……むふふふふ……♡」
詩織の部屋のレースカーテンの裾に小さく潜り込み、のえるはニヤニヤとだらしない笑みを浮かべていた。
「おうちデート! 密室に二人きり! これはもう、足をもつれさせてベッドにバフッといっちゃう流れなのだ! のえるん、ばっちり最前列で観察しちゃうのだ〜!」
下着の奥をじんわりと疼かせ、おませ全開で鼻息を荒くするのえる。
だが次の瞬間――階下のリビングから漏れ聞こえてきた父親と母親の押し殺した会話が、天使の耳に突き刺さった。
『……あなた、本当に決まってしまったの?』
『ああ。本社の内示だ。来月末には、あっちの営業所へ引き継ぎになる。……また詩織を転校させなきゃならん』
『そんな……。あの子、最近、真壁くんと仲良くなって、あんなに毎日楽しそうに笑うようになったのに……』
『すまない……私の都合で、あの子にはいつも辛い思いばかりさせて……』
カーテンの裏で、のえるの口元が引きつったまま固まる。
「……へ? て、転勤……? 引っ越し……!?」
慌てて天界端末を叩き、式部家の運命データを呼び出す。
モニターには無情にも、【一ヶ月後:遠方への異動確定に伴う転校】という赤い警告文字が、チカチカと点滅していた。
「な、なんでなのだ……!? せっかく、こんなにいい感じだったのに……!」
◇◆◇
一週間後・県立高校の渡り廊下。
転勤の事実を親から告げられた詩織の様子は、目に見えて変わってしまっていた。
あの柔らかく綻んでいた笑顔は完全に消え失せ、誰の声も届かないように耳を塞ぎ、休み時間も机に突っ伏して動かない。裕太が家に誘っても、頑なに視線を逸らして断るようになった。
「式部さん……あのさ、何かあったのか? 俺、何か怒らせるようなこと言ったなら――」
「……なんでもない」
心配して駆け寄ってきた裕太の目を、詩織は見ようとしない。
俯いたまま、小刻みに震える唇をぎゅっと噛み、冷たく乾いた声で突き放す。
「真壁くんには……関係ないから」
「関係ないって……そんなわけないだろ!」
「ほっといてよっ……!!」
耳をつんざくような叫び声とともに、詩織は踵を返して走り去ってしまった。
一人、薄暗い廊下に取り残された裕太は、胸の真ん中を強く殴られたような顔で立ち尽くした。
(どうして……? 俺、何か取り返しのつかないことしたのか……? もう、話しかけちゃいけないのか……?)
渡り廊下の梁の上から、その背中を見下ろすのえるの顔から、いつものふざけた表情は完全に消えていた。
詩織のオーラは、淡い桜色から、濁った群青色へと塗りつぶされている。
――好きになればなるほど、別れが息もできないくらい苦しくなる。
――これ以上近づいたら、自分が耐えられなくなるから、嫌われてでも自分から引き剥がすしかない。
「そんなの……そんなの、あんまりなのだ……!」
ぎゅっと小さな拳を握りしめるのえる。
だが、事態を余計にややこしくしている真実に、二人はまだ気づいていなかった。
昨夜、詩織の母と裕太の母は、近所のファミレスのドリンクバーで向かい合い、
「詩織が急に部屋に閉じこもっちゃって……転校の話、相当ショックだったみたいで」
「まあ! 裕太も昨日から泣き腫らしたみたいな顔で、大好物の唐揚げも残したのよ! 二人とも、そこまで想い合ってるのねぇ!」
と、どうやって二人をくっつけるか、親同士の作戦会議で大いに盛り上がっていたのである。
当人たちだけが底なしの絶望に沈む中、ポンコツ天使のえるは、この大人の事情を力ずくでねじ伏せようと、最悪の空回りへ突き進もうとしていた。
(第6話「縮まる距離、突然のタイムリミット」おわり / 第7話へ続く)




