第3話「どうしよう、自分のミスで変わる運命」
「ねえ、君。どうしたの? そんなところで、浮かない顔して」
中庭のざわめきを縫うようにして滑り込んできたのは、甘く整えられたソプラノの声だった。
肩先でふわりとカールする栗色の髪に、少し短めに履きこなした制服のスカート。現れた女子生徒――莉乃は、ベンチでがっくりと項垂れる翔太の真横へ、躊躇いもなく腰を下ろした。
漂ってくるのは、柑橘系のコロンと、果実のような甘いシャンプーの香り。
「……えっ、あ……」
不意に間近へ飛び込んできた女子の気配に、翔太は濡れた子犬のように肩を縮め、手元の弁当箱を抱え直した。
「あ、いや……なんでも、ないです……」
「嘘ばっかり。そんなに寂しそうな目をしてるのに?」
莉乃は小首を傾げ、覗き込むようにして翔太の顔に自分の顔を近づけた。ぷるんとしたピンク色のグロスを引いた唇が、艶っぽく笑う。
「さっきの子……葵ちゃんだっけ? 冷たく行っちゃったね。……ねえ、そのお弁当、一人で食べるの寂しいなら、あたしが隣で食べてあげよっか?」
「え……でも、君は……」
「莉乃。二年三組の、莉乃だよ。……ね、いいでしょ? 君の手作り? すごく美味しそう」
翔太が抱え込んでしまったぽっかりと暗い心の空洞。そこに、莉乃は熟練の指先で糸を滑り込ませるように、巧みに、そして無慈悲に間合いを詰めていく。
葵に拒絶され、自尊心も居場所も奪われて凍えきっていた翔太の瞳が、差し伸べられた温もりにすがりつくように微かに揺らぎ始めた。
「あ、あわわわわ……っ! ちょ、ちょっと待つのだ! そっちじゃないのだーっ!」
ケヤキの木陰から飛び出そうとしたのえる。
だが、その小さな足は、中庭の芝生を踏みしめた瞬間にピタリと縫い留められた。
視線の端、旧校舎の裏手へと続く渡り廊下の陰。
先ほど翔太を振り切って逃げ出したはずの葵が、あの蓮に壁際へと追い詰められていた。
「おい、葵。さっきのツラ、なんだよ。アイツに未練でもあんのか?」
「ち、違う……っ、やめて、ここは人が……」
抵抗する言葉とは裏腹に、葵の身体は強張るどころか、蓮にぐいと顎を持ち上げられた瞬間、蕩けるように力を失っていった。
蓮が口元を歪めて強引に唇を奪うと、葵は目を細め、制服のブレザーの胸元に自ら指を這わせ、男の身体へしなだれかかっていく。白昼の校舎の片隅で、抗えない快楽に押し流されていく少女の姿。
そして、中庭のベンチでは――。
「ほら、一口ちょうだい? あーん、してくれたら、あたしのパンも分けてあげる」
「え、あ……う、うん……」
傷心に付け入る莉乃の差し出すハンカチに、翔太の指が触れていた。失われた温もりの代用品を求めるように、少年は泥沼の甘い罠へと、自ら足を踏み入れようとしている。
交錯し、歪み切っていく四角関係。
本来なら、不器用ながらも互いの弁当を分け合い、少しずつ距離を縮めて純愛を結ぶはずだった二人の幼馴染。
それが、たった一度の自分の遅刻。
そして、旧校舎の隙間から息を呑んで見つめてしまった、あの覗き見の油断のせいで――二度と元には戻らない、破滅のレールへと完全に脱線してしまっていた。
「ボクが……」
のえるの胸の奥を、冷たい氷の針で貫かれたような激痛が走った。
「ボクが……出掛けにメイクなんて直して、大遅刻したから……あんなものを見て、ボーッとしちゃったから……!」
いつもなら「かなぴー」とおどけて済ませていたはずの言葉が、喉の奥に鉛のようにへばりついて声にならない。
自分の浅はかな軽率さが、他人の一生を、取り返しのつかない運命の奈落へと突き落としてしまったのだ。
「……ボクの、せいなのだ……っ!」
銀髪の姫カットを両手で激しくかき乱し、のえるは涙で滲む視界の中、人間界の空へ向けて絶叫した。
◇◆◇
天界・ラブリーカンパニー代表執務室。
ズビシッッッ!!!!
床を揺るがす凄まじい音とともに、分厚い紙の束が真っ二つに割れたままの大理石デスクの上へと叩きつけられた。
「もっ、申し訳ありませんでしたぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーッッッ!!!!」
額を絨毯に叩きつけ、骨が砕けんばかりの勢いで土下座しているのはのえるだった。
叩きつけられた書類の表紙には、墨汁のような真っ黒な文字でこう殴り書きされている。
【始末書兼事態改善計画書(全五万字・血判付き)】
「……ふん。反省文だけは、指の皮が擦り切れるほど書き上げたようだな」
仁王立ちする神様社長が、細めた瞳で冷徹に書類を見下ろした。
そのすぐ隣には、極度の心労と胃痛でやつれ果て、天界指定の強壮栄養ドリンクを片手に持ったちえる係長が、幽霊のように立っている。
「神様……! もう現場の歪みは臨界点、レッドゾーンを振り切っています! このままでは今日の放課後、葵さんはあの蓮という男に完全に身体を明け渡し、翔太さんも莉乃という女子生徒に心身を絡め取られ……二人の因果は永久に固定化されてしまいます!」
ちえるの声は震えていた。
「そうなれば現場の崩壊にとどまらず、私の第三課へのはえるさんの元への転属願も永久凍結……私の、私の愛の未来までもが完全に閉ざされてしまうのです……!」
「分かっている、ちえる。だがな、あの現場に残されたラブリーシュートの残弾は、たったの『1』だ。神力ゲージも底をつきかけているあんな見習い天使に、ここから一体何を覆せるというのだ?」
執務室を、重苦しい絶望の沈黙が支配する。
その時だった。
床に額を擦りつけていたのえるが、勢いよく顔を上げた。
「――神様! ちえる係長!」
「……な、何よのえるさん、急に大声を上げて……」
「お願いがあるのだ!」
いつものふざけた調子は微塵もなかった。
銀色の大きな瞳には、これまでに一度も見せたことのない、燃え盛るような強い決意の光が宿っていた。
「今回のミッションに支給されたボクの神力……残っているゲージを、天界にすべて返上します! だから……だから、お願いなのだ! 特例による『時間遡行』の認可をくださいっ!!」
「っ……!?」
ちえるが息を呑み、目を見開いた。
「ば、馬鹿を言いなさい! 時間遡行のペナルティと消費リソースを分かっているのですか!? 今回の残存神力どころか、貴女の天使としての基本出力まで完全にゼロになりますのよ!? 次に地上へ降りたら、奇跡も、『のえるんパワー!』も、何ひとつ使えない……ただの人間の小娘として、自力で状況を覆さなきゃいけなくなるのよ!?」
「わかってるのだ!」
のえるは立ち上がり、胸に手を当てて叫んだ。
「全部わかってるのだ! でも、あの子たちの運命をメチャクチャにしたのは、ボクの油断とエッチな好奇心のせいなのだ……! 誰かの人生をドロドロに狂わせたまま、すまし顔で天界に戻って天使を続けられるわけがないのだ!!」
小柄な身体から放たれる気迫に、執務室の空気が張り詰める。
神様社長は太い腕を組み、長い沈黙のあと、フッと低く喉を鳴らした。
「……ちえる」
「は、はいっ!」
「申請を受理しろ。特例による時間遡行、一回のみの行使を認可する」
「社長!?」
「ただし、のえる。二度目の奇跡はないぞ。貴様の神力メーターはこれで完全にゼロだ。そして持っていけるのは、あの残された最後の一発の光の矢のみ。……巻き戻した世界で、もし一度でも段取りを間違えれば、奇跡のリカバリーすら効かず、その時点で貴様の天使生命は永久に終了だ」
「……了解なのだ!!」
のえるは力強く頷くと、肩にかかる銀髪の姫カットを、両手で勢いよく後ろへとかき上げた。
腰のポーチから無造作に取り出したヘアゴムで、銀の長髪をキュッと頭頂部で結び直す。
揺れる、一本の精悍なポニーテール。
のえるの頭の奥で、普段はふざけ倒している地頭の良さと鋭敏な機転のスイッチが、カチリと音を立てて完全に切り替わった。
「ちえる係長、待っててほしいのだ。ボクが必ず、あの子たちの純愛も……ちえる係長とはえるさんの甘い夜も、ぜんぶ取り戻してみせるのだ!」
「……っ! のえるさん……!」
床に描かれた巨大な魔法陣が眩い光の奔流となって立ち昇り、世界の針が、激しい音を立てて逆回転を始めた。
(第3話「どうしよう、自分のミスで変わる運命」おわり / 第4話へ続く)




